熊谷孝文学教育論集  
文学と文学教育
1955.4.5 「朝日新聞」学芸欄)
   
 制服を脱ぐことになった十九の娘さんたちに伊藤整氏の『女性に関する十二章』を読みましたか、と尋ねたら、読むことは読みましたが、という返事。まるで手ごたえがない。十二章ブームも出版界が作りだした流行以上のものではなく、彼女たちの生活に根をおろすところまではいっていないらしい。それでは、現実にどんな作品が彼女たちの成長の糧(かて)となったか。熊谷孝「文学と文学教育」(朝日新聞1955.4.5紙面)
 これは東京の山の手にある私立の某女子高校の例だが、彼女たちはくちぐちに、愛読書のケースとして宮本百合子・山本有三・徳永直・芥川竜之介などの諸作品をかぞえあげた。外国の作品では、『光りほのかに』『静かなドン』『ゾーヤとシューラ』『ジャン・クリストフ』『外套』『母』などが感動的であった、という。
 「教科書に掲載されていた作品では?」と尋ねると、それには直接答えないで、「私たちの生活や、今の日本の現実に問題を投げかけるようなものが見当らない」といってソッポを向く。教科書に載せたから色あせたのではなくて、色あせたものしか教科書には載らないのだ、とも言っていた。文部省の検定は通ったが、生徒たちの審査では不合格というところ。
 また、二三の作家を例外として、現役の作家たちの名があがっていないが、これは「読んでいないのではなくて、印象が薄いからだ」という。末しょう(梢)神経で書いたような視野の狭い作品か、人ハダのぬくもりのない傾向的な作品しかない、というわけだ。
 同様のことは、彼女たちの小学生時代の回想の中にもある。数多く読んだのは、むしろ日本の童話だが、懐かしいのはやはりアンデルセンやグリムだ、という。日本の作家では、宮沢賢治、有島武郎あたりが印象に残るだけだ、というのである。
 彼女たちの指摘は、その一つ一つがこんにちの文学や文学教育の問題点を突いている。何よりも、文化主義(教養趣味)と経験主義とにかたよった教科書編集の態度が批判されているわけだ。さらにまた、現代作家のぬるさと感覚のズレが、そこで批判されているのだ。
 教室で小説を扱ったら、ついでに小説の書き方も教えるように、というような、バカげたことのかいてある文部省の学習指導要領は、さすがに教師も相手にしてはいない。が、教科書のほうは生徒が相手だから、まさかネグレクトしてしまうわけには行かない。ところが、その教科書が先刻指摘されていた通りの“おケイコごと”的教養趣味満点の色あせた作品のラ列でしかないのだ。
 そこで、教師も生徒も、文学教材を教科書外の現代作家の作品に求めるのだが、結果は右に見てきたとおりだ。その間ゲキをねらって、暴力肯定・人権無視の、また、涙とタイハイの通俗読み物が若い心をむしばんでゆくのが一般だ。 この現実にいて、作家はもはや、カンだけを頼りに手さぐりの作品を書いてはおれないはずだ。大衆の中へ、、そして大衆と共に、である。大衆とは、そして作家にとって読者のことではないか。じかに、謙虚に読者の声に耳を傾けると同時に、読者に対しては文学教育者の役割を果たす責務が今の作家にはある。
 日本にはまだ、機構として読者につながるような仕組みが出来上ってはいない、というようなことは理由にはならない。まず、読者と話合うつもりがあるかないかの問題だ。それはまた、作家がだれのために書くのか、という問題でもある。
 さきごろ来、児童文学者協会が文学研究例会を定時開催して、作家と現場の教師との交流・提携・相互批判に道を開いたことは、そういう点からも注目にあたいしよう。(国文学者)


熊谷孝 人と学問熊谷孝文学教育論集