日本文学研究史      
  
日本文学協会編/日本評論新社刊『日本文学史辞典』(1954年10月)分担執筆----- 

『日本文学史辞典』扉〔「日本文学研究史」の前半部分にあたる「研究史の対象領域」〜「近世における古典研究」を熊谷孝が担当し、後半の「明治以降の日本文学研究」以下を榊原美文が担当している。なお、この辞典の巻末には「最近の重要問題」(凡例)に関する十数項目の「補遺」が添えられており、その中に同名の項目「日本文学研究史」(戦後期を中心に永積安明が執筆)が含まれている。「補遺」の掲載は、同書の「序」に「初稿の可能な限りの書換えと補遺の作成とに努めて、ここにようやく一応の完成をみるに至った」とあって、編集過程における出版社の事情(日本評論社→日本評論新社)とも絡んでいるようである。(当ページ末尾に「序」の一部を引用)〕


 研究史の対象領域 学問の名にあたいするような、日本文学の本格的な研究が行なわれるようになったのは、一七世紀以後のことにぞくする。江戸時代の国文学者たちによる研究が、それである。例外はあるにしても、それ以前の古典研究は、概して厳密な意味では、学問意識をもつもった研究というわけにはいかない。例えば、藤原清輔の「袋草紙」(一二世紀後半)や、頓阿の「井蛙抄」(一三七四)のようなものも一種の研究書だが、そこに、学問意識というようなものをみいだすことはできない。また、例えば、藤原範兼の「五代集歌枕」のような歌枕ごとに例歌を記載した分類的な研究にしてみたところが、それは本来、古典を規範として歌を作ろうというための、資料の整理にほかならなかった。純粋に客体化するにいたらないまでも、作品や作家を距離のパースペクティヴにおいて観察するようになったのはいつ頃のことかというと、それは大体、一二世紀の後半から一三世紀の初めにかけてである。もっとも、八世紀の末頃に、すでに「歌経標式」のような歌論書が出ている。九世紀の初め頃になると「文鏡秘府論」のような、後の歌論書に大きい影響を与えた書物なども現われている。さらに一〇世紀には、壬生忠岑の「忠岑十体」であるとか、源順の「和名抄」といったものもある。それが一一世紀とくだれば、藤原公任の「新撰随脳」や「和歌九品」、源俊頼の「俊頼随脳」など、その他いくつかの歌論書や辞典ふうのものが数えられる。「源氏物語」(とくに蛍の巻)や「枕草子」に見えている物語論・歌論なども、やはり大事な資料である。

 全体への見とおし 初めに、簡単な見取り図を掲げよう。
 第一期 八世紀末 ― 一二世紀前半
 第二期 一二世紀後半 ― 一六世紀末
 第三期 一七世紀 ― 一九世紀の八〇年代
 第四期 一九世紀の八・九〇年代 ― 二〇世紀の三〇年代
 第五期 それ以後
 第一期は、前節で述べたような意味で、全般的には、前史的な段階であるというふうに規定してよい。
 第二期は、国学者たちの活発な学問活動が始まるまでの準備期である。準備期とはいっても、かなり精力的なみのり多い研究の成果が挙げられているし、またこの時期のそうした成果のうえにこそ、国学者による古典の体系化ということも可能であったわけだ。年代的には、いわゆる平安時代の末期をもふくめて、鎌倉・室町時代とふつうにそういわれている時期に相当する。
 この時期の初めに、過去の文学作品に対する距離感、――過去の作品を距離においてみるという態度が生まれてくる。転落への道を踏み出した末流貴族たちが、過去の貴族文学の或種のものや、それの或種の側面に対して、なにか実感にそぐわぬものを覚え始めると同時に、かれらの間に、ちょうどそれを裏返しにした形での、古典主義・尚古趣味と結びついた、一種の感覚主義が芽生えてきていたことの現われでもある。古典に対する、この距離感が、かつてのそれとは違った遠近法において古典を見るという態度を決定する。それで、過去のどういう作品や作風に、享受や創作の規範を求めるかということが問題になってき、そこに、藤原俊成(一一一四-一二〇四)の「古来風体抄」(一一九七)や鴨長明(一一五一-一二一六)の「無名抄」などの叙述の一面が示しているような、一種の文学史的な考察もおこなわれることになったのである。つまり、古典を翻案し焼直しすることが、当時の通念で創作ということであったし、またそういう「創作」のための必要から古典の研究ということも行われたのだから、当然、古典と現代との言葉のズレやへだたりを埋めるための、考証や註釈のしごとも一方では始められることになったし、さらにまた一方では、藤原定家(一一六二-一二四一)などの業績がそれを代表しているような、本文批評のしごとも、結果として、極めて精力的に進められてゆくことになった。
 また、第三期とここでいうのは、いわゆる江戸時代に始まって、明治二〇年前後までのおよそ三〇〇年ほどの期間のことである。一般の好事家の趣味的な研究も、結果としては学問のうえにかなり大きく寄与しているが、しかし、この時期を代表するものはなんといっても、契沖(一六四〇-一七〇一)・荷田春満(一六六八-一七三六)・賀茂真淵(一六九七-一七六九)・本居宣長(一七三〇-一八一一)、その他、宣長の道統をつぐ国学者たちの活動であろう。中でも光っているのは、町医あがりの街頭学者、本居宣長である。
 本居宣長の系列からは、例えば、本居春庭(一七六三-一八二八)のような言語学者や、伴信友(一七七三-一八四六)のようなすぐれた考証学者が生まれているし、宣長右派ともいうべき平田篤胤(一七七六-一八四三)の後継者たち(平田鉄胤、大国隆正、その他いわゆる平田派を名乗る人々)は、さらに明治年間にまで隠然たる勢力を政界・学界にふるっている。また、その一方は、熊沢蕃山(一六一七-一六九一)や安藤為章(一六五九-一七一六)などの儒者グループが古典(とくに源氏物語)研究のうえに大きな役割を果たしている。中世の枠の中から、中世的なものを否定することで、新しい文学観をくりひろげ、新しい文脈からの古典評価を試みたという点では、それはともに、この時期を代表するにたる二つの峰であった。
 ところで、明治も二〇年を過ぎた、前世紀の九〇年代になると、日本文学の研究も、水戸学派や篤胤流の皇学や国学の域を脱して、「国文学」として再出発しうるまでに成長する。明治二二年(一九八九)に、帝国大学の和文学科は国文学科と改称された。四〇年度(一九〇七)の国文学科の講義題目には、芳賀矢一の日本文献学の名前が見られるし、またその一方には三四年度(一九〇一)以来数年にわたって、藤岡作太郎による文化史観・風土史観の文学史が講じられている(後に「国文学全史平安朝篇」「国文学史講話」その他の標題で出版された、「平安朝文学史」「国文学史大綱」「国文学通史」「鎌倉室町時代文学史」ほかいくつかの講義)。国文学とは、このようにして、日本文献学のことであり、或はまた、文化史観ないし風土史観による日本文学研究のことであった。この文献学的な文化財の認識と、文化史観・風土史観による文化・文学の理解とは、紛がいもなく一九世紀的な自然科学主義の双生児であった。この点に、「国文学」の市民科学としての健康な面が認められると同時に、限界がある。そして、それはまた、一見没交渉であり無関係のようであって、実は明治文壇を席巻した自然主義の風潮とあい蔽うものがあったわけである。
 が、それはともかく、一応の意味にもしろ、西欧近代科学による日本文学研究の方法的な転換が行われたということは、たしかに一つの進歩だった。しかし、それが日本文学の研究をせまく文献学的な操作領域にかぎろうとしたり、文献学的方法以来のものを文学研究の外へ追いやろうとしたり、或はまた、文化相互の影響ということ以外に文化(文学)を規定するものを考えられないとか、風土・種族ないし不変の国民性によって規定される、普遍的・超越的な日本文学の一貫した性格というようなことを語るようになっては、このヨーロッパ渡りの「科学的方法」も限界線に達した、といわなくてはならぬ。それにいけなかったのは、移植したこのドイツ文献学というのが、プロイセン的なのものであったということだし、明治の学界の初期を支配していた「国学」を十分には払拭しきれていなかったということである。
 この第四期の終りから次の第五期の初めにかけてが、文献学主義と文学主義の最盛期である。学界のこの文献学主義的風潮をリードしたのは国文学圏外の人である和辻哲郎博士であった。また、この文学主義の機運は、帝大派の考証的な学風に反発していた早稲田派の人々の間に醸成されていった。
 第五期は、この世紀の三〇年代以後現在にいたる、およそ二〇年ほどの期間である。国文学のこれまでの文献学への偏向や、考証主義や、それの寄木細工的な雑学性とさっぱり縁を切ろうということで、旧国文学と袂をわかった、日本文芸学をいう新「国文学」が生まれてくる一方、「国文学」をのりこえて研究をおし進めるのには唯物論的(弁証法的)方法によるのほかないとする考えが、研究活動の実際面から生まれてきたのも、この時期である。それが戦争という大きな断層によって中絶させられ、逆戻りさせられ、さらにまた、戦後の複雑微妙な情勢の動きを反映して、一進一退、ジグザグの道を辿っているというのが、現在の日本文学研究の姿であろう。

 物語研究に関する資料(中世) ここで対象になるのは、荘園末流貴族による古典の研究である。
 物語研究の面では、「無名草子」が、評論としてみて一番すぐれたものであり、またこの時期を代表するに足る典型的なものである。一一九六年(建久七年)から一二〇二年(建仁二年)の間に成立したという推定が行われている。著者としては、藤原俊成だといい、或はその娘の押小路女房だろうなどともいわれている。一人の老尼を中心に数名の若い女性の問に次々と物語批評がくりひろげられていくという、「大鏡」ふうの叙述形式の作品で、「源氏物語」のほか「狭衣物語」「夜半のねざめ」「浜松中納言物語」「玉藻」「とりかへばや」等をかなりくわしく論評し、源語以前の物語にも言及している。また、別個に、紫式部論・清少納言論・和泉式部論等々の作家論をも試みた幅と厚みをもった評論書である。さらにまた、「今鏡」(一二世紀後半)・「水鏡」(同)などの歴史文学書に見えている物語論や、「宝物集」(同)のそれや、その他「正徹物語」(一五世紀前半)・「東野州聞書」(同・後半)などをとおしてしられる正徹(一三八〇-一四五八)の物語論などと、この「無名草子」の所論とをそれぞれ比較することで、古代末期から中世の半ばにかけての、物語の批評的研究の推移があらまし捉えられる。
 その他、阿仏尼(一二〇九-一二八三)の「乳母のふみ」や、素寂の「紫明抄」や、「めのとの草子」といったものも、また側面から資料を提供しているし、さらに「源氏人々の心くらべ」(一三世紀初頭頃)「源氏四十八のものゝたとへ」(同)「伊勢十二番女合」(同)「源氏一品経」(同)といったものや、「弘安源氏論義」(十五世紀前半)「嵯峨のかよひぢ」(同)などの記載や、四辻善成の「河海抄」(十五世紀前半)や、一条兼良(一四〇二-八一)の「花鳥余情」などの源語註釈書の総論的な部分なども、その当時における物語批評や、また古典研究の状況を側面的に示している。例えば、「弘安源氏論義」は、弘安四年(一二八一)に行われた論義の記録であるが、左方と右方とに論者が分かれて、「源氏物語」の解釈や引歌などについて討論し、それに判者が当否の判定を加えるという、合評研究会形式のものであったことが知られる。そういう「論義」(研究会・合評会)が、当時盛んに行われたらしい形跡がある。また、そういう会合の記録から、例えば「今の世には三つの位藤原雅有なん源氏のひじりなりける。」(「弘安源氏論義」)とか、「藤原康能といふ人あり。あやしく源氏にたへなりけり。」というふうな言葉のはしばしから往年の代表的な源氏学者の名前を知ることもでき、また、「十七日昼ほどに渡る。源氏はじめんとて講師にと女あるじ(阿仏尼)を呼ばる、簾のうちにて読まる。まことに面白し。世の常の人の読むには似ず、ならひあべかめり。若菜まで読まる。」(「嵯峨のかよひぢ」)というような記述から、藤原為家(一一九七-一二七五)が晩年において試みた「源氏物語」の講義のおりに、阿仏尼が講師の一人として加わっていたということや講義の内容や進行状況の概略などもおぼろげながら窺知される。「論義」とならんで、当時は、こうした物語講義も行われていたのである。源氏物語講義として名高いのは、右のほかに四辻善成の行った講義で、至徳三年(一三八五)から満三年余にわたり「五十四帖の秘義をのべ」たという(「源氏物語千鳥抄」跋文)。また、正徹が、享徳元年(一四五二)・同二年・康正元年(一四五五)の三回にわたって、足利将軍家あいての源語講義を行ったことが知られている(正徹には、なお「源氏抄」という註釈書の著述などもあって、当代を代表する源氏学者であったろうことが想像される)。以上が、当時の物語講義や合評・研究会の状況のあらましである。
 その他、「源氏物語釈」「原中最秘抄」「簾中抄」、さらに「源氏狭衣百番歌合」「風葉集」といったものも、当時の物語研究のありようを示す資料として、見のがしえないものである。「風葉抄」は、撰集という形で物語に載っている歌を集めたものだし、「源氏狭衣百番歌合」は、標題の示しているように、源氏と狭衣とのこの二つの物語から、それぞれ一〇〇首ずつ歌をえらび出して歌合にしたものである。和歌を学ぶための物語研究という態度がそこに見られる。
 文献学的な方面、とくに本文批評の面のしごとでは、まず藤原定家の名が挙げられなくてはなるまい。「源氏物語」に青表紙本と河内本という二つの系列があるが、この青表紙本というのは定家の校定によるものだし、「伊勢物語」のいわゆる天福本というのも、天福年間に定家が校定したことから起った名称である。前田家本土佐日記といわれているものも定家自筆の書写本のことである。註釈のしごととしては、前に掲げた「河海抄」や「花鳥余情」よりずっと古く「源氏物語奥入」などがあるが、定家はこれにもさらに註を追加している。註釈学者として定家の果した役割は、しかし和歌の方面の研究により大きいものがある。

 和歌研究に関する資料(中世) ところで、そういう王朝古典の研究では、物語の方面のそれより、和歌についての研究のほうが早くから行われてもいるし、考察も多方面にわたり、かつまた精細を極めている。従って、研究書の数も多い。物語研究のほうが、このように劣勢であったのは、物語というジャンルが、和歌とはくらべものにならないほど低く評価されていたことによる。当初、物語を読むことは、たかだか和歌の教養を高めるのに必要であるという程度にしか考えられていなかった。だが、また、およそ歌人たるものは「源氏物語」に精通してなくてはいけないとか、歌の詞を知るのにはこの物語にふれておく必要があるというふうにもいわれているのであって(「古来風体抄」「八雲御抄」)、いちがいに物語が蔑視されていたというわけではない。が、それも、和歌的な教養を身につけ作歌の実用に供するという目的のうえからの話であって、物語そのものの文学としての効用に基づいた物語の尊重ではない。「源氏狭衣百番」「風葉集」などの物語研究が、実は和歌を学ぶための「物語」の「研究」にほかならなかったことは、すでに前節で指摘しておいたとおりである。
 和歌の研究は、源順(九一一-九八三)・藤原公任(九六六-一〇一四)の二人の業績のあとを承けて、藤原清輔、その猶子顕昭、さらに藤原俊成およびその子定家、さらにまた鴨長明や仙覚たちの時代に移る。一二世紀から一三世紀にかけての、はなばなしい研究活動の時代だ。
 清輔には、万葉集以下各勅撰集の撰者・成立・歌数、その他内容に関する疑点等を記した「袋草紙」の著があり、また、古今集から後拾遺集にいたる四代集の註釈に多くのページを当てた「奥義抄」という著作もある。この「奥義抄」に採られた以外の歌に註釈を加えたのが、顕昭の「古今集註」であり「五代和歌集註」である(「五代和歌集註」の中で現存しているのは、「拾遺抄註」「後撰集註」「詞華集註」の三部である)。顕昭には、ほかに万葉集その他から難語をえらんで解釈を施した「袖中抄」という名著がある。顕昭は、註釈者らしい註釈者として現われた最初の人である。なお、万葉集の校訂家・註釈学者としての仙覚の名はあまりにも有名であるが、ここにはその代表的な著作「仙覚万葉集抄」の名を挙げておくにとどめよう。
 長明と俊成の研究史上に果した主な業績は、いわゆる新古今時代人の心を心として、万葉このかたの歌風の変遷に歴史的な展望をあたえている点に認められる。長明に「無名抄」の著があり、俊成に「古来風体抄」の著書のあることは第二節に述べたとおりである。一例を示すと、万葉の頃には「ねんごろなる心ざしを述ぶるばかりにて、あながちに姿言葉を撰ば」なかったが、「古今のとき、花実ともに備りて、其さま、まちまちにわかれ」後撰にいたって「姿をば撰ばず、心をさき」とするようになったとか、「金葉は又わざともをかしからんとして、軽々なる歌おほかり。」というようなレヴューの仕方である。これは「無名抄」からの引用であるが、「古来風体抄」のほうも、ほぼ同様の調子で、ただ前者よりはより具体的・詳細な論評となっている。また、定家の「毎月抄」や「桐火桶」――「桐火桶」は後世の偽作だとしても――などにも、同様の歴史的な考察がみられる。「後撰より以来、拾遺、後拾遺まで、ことの外の詞のさたなくて、つゞききたなき歌ざまをのみむねとよめり。金葉より又歌ざまよろしくよくよみすゑ……」(桐火桶」)というようなぐあいにである。そうした歴史的な研究は、けれど、「和歌無師匠、只以旧歌為師。染心於古風、習詞於先達者」(「詠歌大概」)というような主旨からなされたものであることは、これまたすでに第二節に指摘したところである。定家には、また、顕昭の「古今集註」に対して自説を開陳した「顕註密勘」や、同じく古今集を註釈した「癖案抄」や、「三代集間之事」という三代集の解説書などがある。その他、藤原仲実の「綺語抄」や、第一節に例示した「五代集歌枕」のようなものや、またそれと同じ著者による「和歌童蒙抄」など、触れるべきものは多いが、割愛して、南北朝時代から室町時代へと眼を転ずることにしよう。
 研究史上のこの時代は、歌論の面では、新古今的なものへの傾倒と、徹底した宗教主義とにおいて和歌の本質を考えようとする傾向が目立ってきている。「野守鏡」(一二九五)、「愚問賢註」(頓阿、一三六三)・「井蛙抄」(同、一三七四)・「さゝめごと」(心敬、一三六一)・「正徹物語」(前述)、「東野州聞書」(同)・「了俊弁要抄」(今川了俊、一四〇九)などをひとわたり眺めてみただけでも、そのことは知られよう。同様のことは、連歌の方面についてもみられることなのであって、二条良基の「筑波問答」(一三七二)などにも、連歌もまた仏道に入るための方便にすぎないというような見解が示されている。良基には、また、同時代の歌人を批評した「近来風体抄」(一三八七)の著がある。
 さらにまた、実証的な面での研究としては、一四世紀における作者部類の編纂が光っている。「倭歌作者部類」(別名「勅撰作者部類」)が、それである。まず、一三三七年に元盛によって、古今集から続後拾遺集にいたる十六代集の作者部類がつくられ、それから二五年後の一三六二年に、光之によって、風雅・新千載の二集の作者部類が増補された。それがさらに、約三〇〇年後の一六四六年にいたって、榊原忠次の手で新拾遺・新後撰・新続古今の三集の作者部類が加えられ、ここに二十一代集の作者部類の完成をみたわけである。その他、、中院通勝の「勅撰次第」のような、二十一代集全般の解説もあるし、今川了俊(一三二五-一四二〇?)の「二八明題」のような、古今集から続後拾遺集にいたる一六代集の題目による分類の書などもある。この時期には、この種の方面の研究がかなり多い。

 中世における古典研究 中世の社会にあっては、文学は、宗教のための手段か、それ自身宗教的なものとして考えられていた。前にもみてきたように、物語は和歌より一段と低いものだとするのが、当時一般的であったらしく思われるが、それはともかく、物語も和歌も、おしなべて文学は、当時にあっては「狂言綺語のたはぶれには似たれども、事の深き旨も現れこれを縁として仏のみちにも通はさむため、かつは煩悩即菩提となるが故に……」(「古来風体抄」)という俊成の言葉は、中世人の文学観を代弁している。所詮は「狂言綺語のたはぶれ」にすぎず、人間の煩悩をそれとして詠じたにすぎない和歌は、しかし結果としては 「事の深き旨」を表現しえたものとしてあるのであり、それゆえにこそ、仏の道にも通うものとなっている、というのである。文学は価値低く、しかもなお価値あるものだというしだいである。
 これが一三、四世紀ともなると、「和歌に仁義礼智信の五徳を兼ねてよく礼楽をたすけつつ国をおさめ民をやはらぐるなかだちなり。」(「野守鏡」)というように、やはり和歌を宗教の方便と考えてはいるにしても、和歌そのものに内在する価値を認めるようになり、やがては、「某はたゞ心を養ふまでなり、人は思ふとおもふ事の悪念ならざるは少なり、歌もよくよまんとたしなまば悪念になりぬべし。」(「了俊弁要抄」)というふうな、和歌に徹することが同時に道を悟ることであるとする考えにいたっている。「もののあはれ」から余情・幽玄へ、さらに幽玄の妖艶化・平淡化なぞといわれている、いわゆる中世的な美の理念の推移も、裏にそうしたものを蔵しての推移・展開であったわけだ。そうした宗教への深い関心が、政治的・経済的に無力化されることで現実そのものへの希望も期待も失い始めた、末流貴族の没落的な階級心理によるものであることはいうまでもない。かれらによって、文学のもつ意義なり価値が宗教のわく の中で考えられたというのは当然のことだ。だが、最初は手段としての意義しかもっていないと考えられていた文学が、あとでは、それ自身に価値のあるものというふうに考えられるようになったというのは、つまり、無力な貴族たちが他に誇りうるものといっては、この文学だけだったということによるのだろう。そこで、行われたのが和歌や物語の神秘的な解釈である。
 中世の初め頃と中頃とでの古典に対する解釈の相違というのも、やはりそういう線に沿っての解釈の変遷である。一二世紀の後半の作と推定される「今鏡」を見ると、「源氏物語」に対する当時のさまざまの見解が掲げられているが、その中には、源語の作者は綺語を弄したので地獄に落ちているというのがあるし、「宝物集」にも、「……紫式部が虚言の源氏物語を造りたる罪によりて、地獄に墜ちて苦患忍びがたき故に早く源氏物語を破り捨てゝ一日経を書きてとぶらふべしと人々夢に見たりけるとて、歌読み共寄り合ひて百経書き供養しけるは……」という記載が見えている。つまり、「狂言綺語のたはぶれ」を行ったために、紫式部は地獄の責苦にあえいでいるというのが、当時一般に信じられていたことで、そこにいわゆる源氏供養もいとなまれるということになるのだが、それはつまり、中世仏教的な視点からの文学そのものの否定であったのである。
 ところで、この「今鏡」の作者は、「源氏物語」を「めでたい物語」であるとして、それを肯定する立場にたっているのであるが、それも、仏も比喩経を作っていることを思えば、式部が綺語を用いたのもうなづけるではないかとか、綺語は妄語ほどに深い罪ではない、というような弁護のしかたである。「水鏡」の所論も、それと似たりよったりであるし、また「無名草子」の場合も、「思へども思へどもめでたく覚えさせ給ふは、法花経にこそおはしませ。いかに面白くめでたき絵物語といへども、二三べんも見つれば、うるさきもの」という立場からの物語批評なのであって、「源氏物語」の傑作であることは認めるものの、それは「仏に申し請ひたりける験(しるし)にや」と考えるのである。それが、「紫明抄」あたりにくだると、人の世の有為無常を現わそうとしたのがこの物語である、というような解釈に変り、「生者必滅のいはれをのべつくせる物」として「源氏」を讃美するということにもなるのだ。要するに、「幽玄の儀をもととして、かたはらに菩提の縁をむすばしめんがため」のもの――それが「源氏物語」であるというのが「紫明抄」の著者の意見なのである。もはや、紫式部は地獄に落ちるどころの話ではない。観音菩薩の再来なのである。同様のことは、前に解説した「花鳥余情」や「河海抄」の所論についてもみられるのであって、例えば「河海抄」の総論には、「誠に君臣の交仁義の道好色の謀菩提の縁にいたるまでこれをのせずといふことなし。」とか、「凡物語の中のふるまひを見るに、高き賤しきにしたがひ男女につけても人の心をさとらしめ、ことのおもむきを教へずと云事なし。」というように述べられている。
 ところで、「紫明抄」の著者の考えは、それを裏から見ると、物語というものは、「菩提の縁」に結ばれていくところに意義をもつものではあるが、しかし「幽玄の儀をもと」としているところに物語の世界が成り立つ、ということをいっていることにもなろう。一種の二元論だが、幽玄とか余情とか「あはれ」というもの自体が、すでに宗教的な感覚に裏打ちされたものであったのだから、論者その人の意識の面では、当然、それを一元的に捉えているつもりなのだ。「源氏物語」は余情ことにすぐれている(「東野州聞書」)とか、「此物語心詞幽玄をきはむ」(「なぐさめ草」)というような正徹の批評にしても、また、「詞つかひ有様を始め何事も珍しくあはれにもいみじくも、すべて物語を作るとならばかくこそ思ひよるべけれと覚ゆるものにて侍れ。」という「無名草子」の「浜松中納言物語」論にしても事がらは同じである。
 ところで、また、この「無名草子」の著者にしても、正徹にしても、その他中世のほとんどすべての評論家・研究家の場合、「余情ことにすぐれている」とか「幽玄をきはむ」とか「あはれにもいみじい」という、こうした絶讃を、しかし専ら、失意と感傷と憂鬱とに閉ざされた「宇治十帖」の巻々や、「薫大将のたぐひになりぬべき」物語に向けているというのは、批評者自身の身の上について語るに落ちた感がある。批評者のたっているのが没落貴族の立場以外のものでないのだから、光源氏よりは薫大将の生活に、そして源氏以前の物語よりは、「宇治十帖」の構想を追う「浜松中納言物語」「狭衣物語」「夜半の寝覚」等々の作品に、より身近かなものを感じていたことは当然だろう。例えば、「無名草子」には、「源氏よりはさきの物語ども、宇津保を始めてあまた見て侍るこそ皆いと見どころ少く侍れ。」といっている反面、源氏以後の物語に対しては深い共感の情を示している。が、同時に著者は、「今ものがたり」には大したものがないということをつけ加えるのを忘れていない。
 物語論の面での「源氏物語」への高い価値に匹敵するのは、和歌の方面では、「古今集」讃美である。「古今こそふるごといづれもと申しながら、返す返すもめでたく侍れ。歌のよしあしなど申さんことはいと恐ろし。」(「無名草子」)とか、「古今のとき、花実とも備りて……」(長明「無名抄」)というようなのが、一二、一三世紀の声であるが、一四、一五世紀においても同様である。例えば、古今集の中の歌屑でさえ「今の世の人のよみぬべき事柄とは」思われないというような見解が兼好(一二八三-一三五〇)の「徒然草」などにも見えているのだ(「今ものがたり」の否定に照応する「今やうの歌」の否定がここにもある)。ただ、後の世紀のは「抑制於歌道定家を難せん輩は冥加もあるべからず罰を蒙るべき事なり」(「徹書記物語」)というような、定家的なもの、新古今的なものへの絶対的な信頼の念に媒介された古今尊重である場合が多い。一方、万葉集のほうは、「万葉集などの事は、心も言葉も及び侍らず。」というふうに、批評の圏外にある古典として敬遠に近い態度をとっているものや、「心ことばこはく」てといって積極的に斥けているものなど、さまざまであるが、例外はあるにしても、ともかく中世人にとってこの古典が身近かなものでなくなってきていたことだけはたしかだろう。

 近世における古典研究 一七世紀になると、「伊勢物語」「徒然草」「方丈記」「古今集」その他の古典が刊行されると同時に、「源氏物語」のような大部で難解な古典については「源氏小鏡」(一六五〇頃)、「源氏袖鏡」(一六五九)、「十帖源氏」(一六六一)のような梗概書・解説書なども活字印刷されることになって、古典が大衆の中に食い入るようになってきた。近世における古典の研究は、もはや単に堂上公家の教養のためのものとしてでなく、新しい文化を創造するための文化遺産の継承として、やがて町人自身の手によって行われるようになったのである。
 それが一八世紀ともなると、中世的なものの否定のための古代への復帰という形で、「古事記」「万葉集」「源氏物語」等々の古典の探究ということにもなっていったのである。国学者たちの研究活動がそれである。しかし、封建的桎梏からの人間(町人)解放というこの叫びは、どこへ、どのようにして解放するかというあて をもちえないものであったがために、それはまた単なる排外主義・古道主義にさえも堕していったし、宣長的なものの結論としては篤胤的なものをさえ考えなくてはならぬことにもなるのだが、ともかくヒューマンな感覚と囚われない感情において古典を迎えた最初の時代は、一七-一八世紀のこ時代であった。宣長の「漢意(からごころ)否定論」などに見られるような、封建的な観念から自由であろうとする、このこころは、同時にものに対するに客観的であろうとする心であった。われわれは、学問意識の成立を国学者、とくに宣長においてみるのである。
 ふつうには国学者をもって遇せられてはいないけれど、北村季吟(一六一四-一七〇五)は、そういう意味では、学者らしい学者として現われた最初の人であった。契沖ともども一七世紀の研究史上に光彩を放っているこの学者は、「八代集抄」「源氏物語湖月抄」等において、これらの浩瀚な古典の全註を完成している。自分一個人の好悪の感情を基準にして、自分の眼に名作としてうつるものだけを選んで抄註するという、あの中世の歌人たちの態度からは、こうした「全註」は生まれえない。それは、主観を殺した学的良心の産物であった、といわなくてはならない(後年、宣長は、この「湖月抄」をテキストにして源語講義を行っている)。契沖については、「すべて此人の著述の書は、いづれも近世の浮説をば一向とらず、古書を以て証せらる。是によりて発明ことに多し。」という宣長の評は適切であって、直接原点について真実を極めようとする態度は、前人の説(中世人の眼)から自由であろうとる、新時代の良識を現わしている(原点主義ともいうべきこの態度は、古学派の学風一般に通ずるものであった)。契沖に「古今余材抄」「源註拾遺」「勢語臆断」「百人一首改観抄」などの著があって、宣長の研究に始発点をあたえたことは周知である。季吟と契沖とによって切り開かれた古典の探究は、さらに荷田春満によって国学として基礎づけられ(「創国学校啓」)、賀茂真淵をへて宣長にいたり一つの完成の域に達するのである。
 真淵の業績が、主として、「万葉集」をとおしての古語・古意の研究にあることはいうまでもないが、また、古事記・源氏・伊勢・大和その他についてもいくつかのみのり多い成果を挙げている。万葉に関するものでは、大著「万葉考」のほか、枕詞の解説をした「冠辞解」や「落葉集新採百解」その他がある。真淵の後継者であると同時に契沖のよき継承者である宣長に「古事記伝」の大著があり、「源氏物語玉の小櫛」「紫文要領」のような物語論や、「あしわけをぶね」につぐ「石上私淑言」のような歌論、さらに「玉勝間」「うひ山ふみ」「鈴屋答問録」「直毘霊」その他数多くの著作のあることは、これまた周知であるが、ここでは前節との関連から物語論の面にだけふれることにしたい。
 ところで、ここに、宣長の「もののあはれ」論に先行するものとして、熊澤蕃山の「源氏物語蕃山抄」(「源氏外伝」)と、安藤為章の「紫家七論」(一七〇三)がある。宣長は、この「蕃山抄」を批判して、「熊澤了介とかいふ人の外伝といふ物などあれど、ひたぶるの儒者ごゝろ のしわざにて、ものがたりのためには、さらに用なし」(「紫文要領」)といい、また「紫家七論」に対しては、「是は物語の註にはあらねど、一部の大意を論じ、紫式部が才徳などくはしく考へて、一見識あり。……かならず見るべき物なり」(同)といって最初には肯定的な意見を述べているが、後には「たゞもろこし人の書ども作れる例をのみ思ひて、物語といふものの趣をおもはず、物のあはれをむねと書けることをば、いまだしらざるものにして」(「玉の小櫛」)と真向から叩きつけ、「なほ儒者ごころぞ有りける」と断じている。それが儒者ごころであるという宣長の批評はたしかに当ってもいるし、ヒューマンな感覚を欠いた物語論であるということも事実であるが、前節においてみた「紫明抄」や「今鏡」や「無名草子」の、あの中世仏教的な理解とくらべてみるとき、そこに「近世」を感ずるのは、決して筆者一人ではあるまい。が、また、その「近世」は、武家によって代表される近世であり、「儒者ごころ」に満たされたものであることは否みえない。例えば、「源氏物語は表には好色のことを書けども、実は好色の事に非ず。」というのが蕃山の源語観なのであって、表に好色のことを掲げることで読者の心を釣り、読者のそうした心の網の目に食い入ることで、実は上揩フみやび心を知らしめようという仕組みである、という論である。馬琴流の勧善懲悪主義の文学観につながるものであることは、誰の眼にも明らかだろう。宣長が、これに対して、顔をそむけたのは当然のことである。しかし、こうした勧懲主義の物語観につよく反発した、この宣長の系列から、「抑此物語はもと権臣の跋扈を憎み、皇族の衰微を憂へて、著せる書なり。」というふうに「源氏物語」をみる学者が現われているのは皮肉である(近藤芳樹「源氏奥旨」一八七五)。
 が、それはともかく、宣長は、源語の本質を「風雅をむねとして、物のあはれを感ずる」(「あしわけをぶね」)という点に見いだし、「歌道と此物語とは全く其おもむき同じ事也。」(「紫文要領」)ということを主張することで、文学の中世仏教的理解や勧懲主義的文学観を屠り去り、また同時に、物語を和歌より低いものとする中世の伝統的な文学観に反撃を加えている。このようにして、日本の古典は、中世の暗愚と迷妄とから解放され、人間の光において観照しなおされ批評される機縁に恵まれたわけであるが、しかもこの「もののあはれ」が普遍人間的なもの――というよりは、この民族に普遍的なものとして考えられることで、日本古典に対する非歴史的・神がかり的な理解をも用意する結果となったのは遺憾なことであった。〔熊谷 孝〕

     『日本文学史辞典』 序

 第二次世界大戦中における長期に渉る学問の停滞と混迷の時期を経て、ついに一九四五年八月の敗戦を迎えたわれわれ日本文学研究者は、歴史学・外国文学その他の隣接諸学の領野にある研究者、国語教育の実践者などをひろく包摂して新しい出発点に結集し、一九四六年六月一五日、民主的な全国学会として日本文学協会を創立するに至った。
 それ以来協会は、在来の日本文学研究の中軸をなしていた文献学の、方法と諸成果とを発展的にうけつぎ、新たに、文芸の科学としての日本文学の方法を樹立するとともに、国語教育・文学教育をして単なる語学主義・鑑賞主義から脱却せしめ、教育科学としての体系を打ち立てさせ、それらを通じて文学研究と教育との統一をはかる、という困難な課題を背負うて組織的な活動を開始した。そして同年の秋、協会最初の事業の一つとして、『日本文学史辞典』の編纂が企画された。
 日本文学の研究と教育とは、その長きに渉る沈滞ののち、新たな情熱と決意とをもって極めて急速な歩度で前進しはじめていた。このような時期に、辞典という形で、しかも既成の成果を整理・集成するにとどまらず、それらの諸成果の上に立って、一段高い次元で、ゆるぎない指標を打ち立て研究の方向を明示するという仕事は甚だしく困難である。
 周知のごとく、被占領下、祖国の独立は刻々危殆に瀕しつつあったが、特に一九五〇年を転機として危機はきわだって深まり、学問・思想の自由は急速におびやかされはじめた。しかしそれと同時に、危機感は民族的自覚と祖国愛とを広くかつ深く人々のうちに呼びさました。人々は、日本の国民であることを目醒める思いで自覚し、学問は、国民生活と結びつくという、その本来の在り方を新鮮な驚きで探りあてた。日本文学研究は、この時以来、まさに画期的な前進を開始した。
 われわれの志向して来た科学としての文学研究は、「国民の」という契機を掴みえてはじめて真に科学的たりうる端緒を捉えることができた。この事情は国語教育・文学教育の領域にあっても全く同じであった。辞典編集委員は、協会のもつ組織的・協同的研究機構を十全に活用することによって、与えられた任務を続行することができ、しかもこの間、不幸にして突発した旧出版社・日本評論社と新出版社・日本評論新社との交替、それに伴う事務面の一時中絶、という最悪の事態をも大過なく乗り越え、さらに、祖国の現実が新たに提起したテーマを漏れなく捉え、歴史が示した新たな観点に立って既成の成果に処理を加え、初稿の可能な限りの書換えと補遺の作成とに努めて、ここにようやく一応の完成をみるに至ったのである。(以下略)
   
一九五四年一〇月一日     
日本文学協会


熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 人と学問