小説を読むということ 熊谷 孝 |
法政大学第二高等学校発行「法政二高」第二巻第二号(1951年7月)掲載--- |
|
文学作品を享受する――小説を読むということは、ほんらい、作中の人物のなかに自分を(或いは自分の分身を)見つけ出し、その人物といっしょになって、自分が現に辿ってきたコースとはまた別の人生コースを歩いてみる、ということなのです。描かれた現実はあくまで描かれた現実であって、自分がこれまでに体験し今げんに体験しているところの実人生とは別物です。それにもかかわらず、この二つの現実、この二つの人生のあいだには必ず触れ合うものがあるのです。(もし、触れ合うものがないなら、享受は初めから成り立ちません。生活の軸とワクのちがった文学にたいして翻訳という手続きが必要になってくる理由も、こういうところにあるでしょう。) で、いま、『アンナ・カレーニナ』の世界を思いうかべようと、『罪と罰』のあの現実に思いを走らせようと、それは諸君の自由ですが――そこに描かれた人間の生活、人間の体験は、それがたとえ「異常」なものであろうと、また余りの特異さ、異常さのゆえに、事がらそのものとしては部分的一致をしか感じさせないものであったとしても、しかしそれが自分のかつて体験した「出来事」に通じる何かを含んでいることだけは確かです。そして、この共軛(きょうやく)する「何か」が、人間の大事な部面であるということも、また確かです。 その「出来事」というのが、或いは読者めいめいの場合としては、心のどこか片隅でおこなわれた出来事であるかも知れません。が、ともかく、その出来事に対して、ぼくたちは、或る判断にしたがって行動し、その結果として今この境涯――心の状態にいたっているわけです。それゆえのこの悩みであり、またそれゆえの今のこの行き詰まりである、ともいえるでしょう。 ところで、作中の人物は、かつてのあの自分の立場に立って、しかもそれとは別の行動を起こそうとしているのです。それは、ぼくが選んだ道とはスレスレのものでありながら、しかしけっして一つのものではないのです。そして、それは、あの時、あそこで、ああしたふうな躓(つまず)き方さえしなければ、自分もおそらくそこを目ざして進んだであろう道なのです。それは自分にとっても、また可能であった一つの生き方なのです。荊(いばら)の人生によろめきながらも、作品の主人公は、さて、今、ある行動に移ろうとしているのです。ぼくたちは、かれと連れ立って歩いてみることで、新しい別個の体験を、そこで体験――「準体験」してみることが出来るのです。 ところで、作品享受による体験は、いまそこのところで注記したように、言葉による行動の代行――準体験でした。それは、あくまで準体験(体験に準ずるもの)なのであって、体験そのものではありません。だから、それがどんなにあぶなっかしい道筋であろうと、ぼくたちは臆病風に誘われずに、そこを歩いてみることが出来るのです。現実の人生コースにおける弱者も、準体験の世界ではヒーローになり得るというわけです。 が、もし、また、自分にはとても付いて行けない、かれといっしょには歩く気がしなくなったということであれば、いつどこでもこの主人公と別れることが出来るのです。(読みさしのまま本を伏せる、というシグサでそれが簡単に出来るのです。)それでまた、思い返して、やはり行動を共にしたくなったというような場合には、相手はけっして冷めたくないのです。いついかなる時でもぼくたちを迎えてくれる寛容さを持っています。 いきさつは人によっていろいろでしょうが、ともかくこうして連れ立って歩いてみた結果は、(それが文学としてすぐれた作品であれば)現実の人生以上の「生きがいのある人生」を、きっとぼくたちに味あわせてくれるに違いないのです。それで、唯の一度でも人生の生きがいのどういうものであるかを味わい知ったほどの者は、このサムザムとした人生をうつ向き加減に歩くというようなことはもう出来なくなります。こうして小説の享受による準体験は、相手によっては現実の体験以上のものとしてはたらき、人々の生活の実感そのものを鍛えなおし、行動の体系としての思想そのものをはげしく揺(ゆさ)ぶるのです。 こうしたものが、小説を読むということ、つまり、作品享受の「しくみ」と「はたらき」なのです。その作品の表現が、読者の生活のしくみ、(行動の体系)にまで食い入ってそれを縛りつけ、或いは行動の体系としての生活の実感そのものを変革する力としてはたらくか、それとも行動の単なる代行としての観念的なはたらきにとどまるかということは、けれど読者その人の現実の生活体験(体験の仕方)のありようそのものによってワクづけられるのです。(1951.6.6) [同誌所載「執筆者紹介」「教職員一覧表」によれば、当時熊谷孝氏は、法政大学第二高等学校講師(国語担当)・法政大学助教授 であった。] |
‖熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より‖熊谷孝 人と学問‖ |