文学の鑑賞指導     熊谷 孝
  
双龍社刊 『現代児童文化講座 上巻』(1951.4)所収----- 


     一、 鑑 賞 と 鑑 賞 指 導

  ――「何を読んでるんだ」こう訊くいても直吉は返事をしなかった。
  「おい,、何を読んでるんだ。――おい」私は背中を押してやった。
  「ええ?」直吉は初めて気がついた。
  「何を読んでるんだ」
  「何を読んでるって?」
  上の空でまだそんな事を言っている。 
  「何を読んでるって訊いてんだ」
  「水戸黄門」
  「助さん格さんか」
  「違う。黄門が隠居して百姓してんだ」
  「それが可笑しいのか」
  「まあまああとであとで。あしたお話して上げるわ」直吉は話で興味を中断されたので、そんな事をいう。
  「要らねえよ」
  「要らねえか」
  「馬鹿」
 直吉はそれには何も云わず、口の中で何かいいながら尚夢中で読み続けた。如何にも面白そうだ。私のジイドの比ではなさそうだ。私は気が散って仕方がない。直吉の方は私が口を利かなければ、まるで夢中になれるのだ。ジイドではそれ程になれなかった。――(志賀直哉「ジイドと水戸黄門」)『現大児童文化講座上巻』扉

 背中で押されて、やっと気がつきはしたものの、まだ上の空でいる直吉。いつものかれなら、それ相応の応酬もしただろう「馬鹿」という相手の言葉にも取り合わないで、というよりは、いったいそういう相手の言葉が耳にはいったのかどうかすら疑わしい身の入れ方で、夢中で「水戸黄門」に読み耽っている、この直吉と作品との一体感。そういう「如何にも面白そう」な直吉の打ち込み方、身の入れ方を、軸をすこしズラしたかたちで羨ましいとも好もしいとも思っている「私」。その「私」は、――ジイドに十分身近なものを感じていながら、直吉が「水戸黄門」に対してそうであるようには、どうしてもそれと一つに融け合った気持にはなれないのだ。「私のジイドの比では」ないのである。
 ここに二つの作品の読み方(鑑賞)がある。作品の表現に身もこころも吸い寄せられた、といった感じの直吉のこうした読み方が一つ。それから、もう一つは、作品と自分とのどうしようもない距離感にいら立ちながら、自分の実感を作品のそれに近ず
[ママ]けることでその距離を埋め尽くそうとつとめている「私」の読み方である。
 この二つの読み方のちがいは、ところで、子供とおとなとの鑑賞の仕方そのものの違いであるらしい。子供は、面白いとなったら、無我夢中でそれに身を打ち込むかわりに、一ページか一ページ半も読んでみて、それでソリが合わないとなったら、すぐにも投げ出してしまう。あくまで自分本位だ。自分の「実感」が絶対なのだ。それがトルストイの書いた童話だからとか、ゲーテの作品だからなんていったって、子供には通用しない。作家の名前で無理をして読んだり、というようなのは、子供の世界にはないことだ。「権威」は自分自身であり、自分の実感なのである。
 おとなの場合は、ちがう。こうした文脈で割り切っていえば、おとなは卑屈だ。妥協的だ。権威に対して、おとなは、ひじょうに屈従的(あるいはスナオ)である。作品そのものを、つまらないと思っても、作家の顔を立てて(?)無理をして読んでしまうのだ。けれど、また、この無理をするというところが、おとなの鑑賞の取り柄でもあるのであって、自己中心性を脱け出した、すぐれた意味での「おとならしさ」も、そこにあるわけである。経験を積む事は、卑屈と紙一重のあいだがらにあるものでありながら、方向さえ間違えなければ、よりいっそうの高みに自分というものを引き上げていく、精神の基盤でさえあるのだ。だから、また、こうした軸から見れば、自分の実感をメヤスにした子供の鑑賞というものが、それを野放しにしておいたのでは、せっかくの子供の成長を歪んだものにしてしまう危険を孕んでいるということにも、わたしたちは気づかされるのである。そこで、子供の実感に即しながら、しかしそれを甘やかすのでなく、その読書欲と鑑賞にハッキリとした方向をあたえていくこと、これがつまり、読書指導 鑑賞指導のだいじな眼目の一つになるわけだ。

     二、 鑑 賞 の し く み と は た ら き

 子供の実感をそれとして甘やかしておけば、――それがつまり直吉の場合だ。「水戸黄門」にウツツを抜かす直吉を、それをそのままおとなに仕上げれば、銭湯でノドを聞かせる森の石松びいきのオッサンになる。或いは、たかだか「女の友情」「佐々木小次郎」の愛読者である。そういうもろもろのおとなの原型である直吉が、ひとたび「近代」の洗礼を受けると、例の「私」になって、「気が散って仕方がない」と呟きながらジイドを読む人にもなるのである。どうもこの場合、ジイドの例は適切を欠くが、頭のなかの「近代」と胸にわだかまっている「前近代」との縺れに、一方ではその作品にこころひかれながらも、その一方では、つねにそこに何かなじめないものを感じているという、鑑賞の上のこのもやこやが、遠くこの直吉時代の愛読書の選びとそれの鑑賞の仕方に糸を引いていることを思えば、子供にたいする鑑賞指導の意義の大きいことは、いくら強調しても強調しすぎることはない。
 ほんとうをいえば、直吉が「水戸黄門」に対するようなスナオさをもって、わたしたちも、本格的な文学作品に身を打ち込みたいものである。それが出来ないところに、今もいったとおりの問題がひそんでいるわけだが、文学作品を鑑賞(享受)するということは、ほんらい、作中の人物のなかに自分(あるいは自分の分身を)見つけ出し、その人物といっしょになって、自分が現に辿ってきたコースとはまた別の人生コースを歩いてみる、ということであるはずだ。描かれた現実はあくまで描かれた現実であって、自分がこれまでに体験し今現に体験しているところの実人生とは別物である。それにもかかわらず、この二つの現実(人生)のあいだには必ず触れ合うところがあるのだ。(もし、触れ合うものがなければ、鑑賞は初めから成り立たない。生活の軸とワクのちがった文学にたいして翻訳という手続が必要になってくる理由も、ここにある。)
 で、いま、「アンナ・カレーニナ」の世界をおもいうかべようと、また「罪と罰」のあの現実におもいを走らせようと、それは諸君の自由であるが、――そこに描かれた人間の生活、人間の体験は、それがたとえ「異常」なものであろうと、また余りの特異さ、異常さのゆえに、事がらそのものとしては部分的一致をしか感じさせないものであるとしても、しかしそれが自分のかつて体験した「出来事」に通じる何かを含んでいることだけは確かである。そしてこの共軛する「何か」が、人間の体験にとっていちばんだいじな部分であることも、いまは明らかなのである。その「出来事」(それは或いは、読者めいめいの場合としては、心のどこか片隅み
[ママ]おこなわれた出来事であるかも知れない)にたいして、わたしは或る判断にしたがって行動し、そして今の安らかでない心の状態、境遇にいたっている。それゆえのこの悩みであり、またそれゆえの今のこの行き詰まりなのである。ところで、作中の人物はかってのあの自分の立場に立って、しかもそれとは別の行動を起こそうとしている。それは、わたしが選んだ道とはスレスレのものでありながら、しかしけっして一つのものではない。そして、それはあの時あそこで、あゝしたふうな躓き方さえしなければ、自分もおそらくそこを目ざして進んだであろう道なのである。それは自分にとっても、また可能であった一つの生き方である。悩むべきところで悩み、そして踏み切るべきところで踏み切った作品の主人公は、さて、今、ある行動に移ろうとしているのだ。わたしは、かれと連れ立って新しい別個の体験を、そこで体験(準体験)してみることが出来るのだ。
 ところで、鑑賞による体験は、いまそこのところで註記したように、言葉による行動の代行――準体験であった。それは、あくまで準体験(体験に準ずるもの)なのであって、体験そのものではない。だから、それがどんなにあぶなっかしい道筋であろうと、わたしたちは臆病風に誘われずに、そこを歩いてみることができるのだ。(現実の人生コースにおける弱者も、準体験の世界ではヒーローになり得るのだ。)が、もし、また、自分にはとても附いて行けない、かれといっしょには歩く気がしなくなったという事であれば、いつどこででもこの主人公と別れることが出来るのである。それで、また、思い返して、やはり行動を共にしたくなったというような場合には、相手はけっして冷めたくない、いついかなる時でもわたしたちを迎えてくれる寛容さを持っている。いきさつは人によっていろいろだろうが、ともかくこうして連れ立って歩いてみた結果は、(それがもし文学としてすぐれた作品であるならば)現実の人生以上の「生きがいのある人生」を、きっとわたしたちに味あわせてくれるに違いないのである。それで、ただの一度でも人生の生きがいのどういうものであるかを味わい知ったほどの者は、このサムザムとした人生をうつ向き加減に歩くというようなことはもう出来なくなる。こうして文学の鑑賞による準体験は、相手によっては現実の体験以上のものとしてはたらき、人々の生活の実感そのものを鍛えなおし、行動の体系としての思想そのものを激しく揺すぶるのである。
 こうしたものが、文学の鑑賞ということ、――つまり、鑑賞(享受)のしくみとはたらきなのである。その作品の表現が、読者の生活のしくみ(行動の体系)にまで食い入ってそれを規制するものとしてはたらくか、それとも行動の単なる代行としての観念的なはたらきにとどまるかということは、けれど読者その人の現実の生活体験のありようそのものによって規定されるのである。
* なお、右に掲げた「翻訳」の問題や、享受(鑑賞)のディテールについては、拙著「文学の論理」(同光社刊)[未刊]を参照していただきたい。

     三、 指 導 の 前 提

 ところで、いま、わたしたちにとって直接の問題は、子供たちをあの直吉の状態に追い込まないようにするのにはどうすればよいか、ということであったはずだ。或いは、また、複数の直吉のあの講談本への興味や、冒険小説・少女小説にたいする根強いあの興味を、それをどう向きを変えさせて本筋の文学への興味に結びつけるか、という点にあったはずである。「どうしたらよいか?」というこの問いに対して、わたしはしかしそれに答えるだけの力を持ち合わせていない。というのは、今の世の中の動きそのものが、スナオな少年少女をその限りスナオに(?)前近代の方向へ歩ませているということなのであり、そこに、おとなの世界における大衆文学の流行とマッチして、前近代的な少年版大衆文学の流行という現象を持ち来しているといういきさつなのだから。
 それを読物の面から逆に糸をたぐってみれば、一方では男女共学が実施されているというのに、しかし女の子はあくまで女の子らしくという「女だけの涙の世界」(少女小説)が、むしろ少女時代の健全な読み物として一般に歓迎されているということは、良妻賢母主義へのノスタルジアが、それがもはや単なるノスタルジア以上のものとして作用しているということである。また、ちょうどそれを裏返しにしたかたちで、「男の子は男の子らしく」の文脈から、講談・浪曲的ヒロイズムが歓迎され、それをアロハ化した軍国調以来冒険小説が「男らしい」読み物として、子供がそれを読むことをむしろ好ましい事として親たちに受けとられている現状は、こうした少年版大衆小説の流行が、現実の社会的基盤そのもののなかに深い根を持っているということを示している。
 だから、読書指導、鑑賞指導ということがひじょうにむずかしい仕事だというのは、たんに指導の技術をどうするかという技術・技巧の上のむずかしさにとどまるのではなくて、こうした悪条件のなかで子供たちを引き上げていく――というよりは、むしろ、この悪現実とたかかってまっとうに生きることの出来るような人間に子供たちをはぐくみ鍛えていく、という仕事だからである。文学の鑑賞指導という仕事は、たんに「文学的情操を養う」というような箱入り息子、箱入り娘あいての「お躾け」行事の一環ではない。軸を変えていえば、それはまた、情操教育のためのものだと言ったって、むろんさしつかえはないのだけれど、すくなくともそれは、逞しく生きるファイトを子供たちのあいだから失わせるような「情操」の育成であってはならぬ、ということなのである。
 で、これまでのところ、文学の鑑賞指導は、(すくなくとも結果としては)文学にしたしむことが「日かげの花」をいつくしむことであり、文学的であるということはまた現実ばなれのした状況に身を置くことだ、というような誤った印象を一般に対して与えてしまっていることは事実である。それだからこそ、文学にしたしむということは「男らしくない」ことだというので、男の子たちのあいだで(同様にしてまた、男の子を持つ親たちのあいだで)文学は人気がなく、その反対に、女の子たちのあいだではすごく人気があるという、奇妙なことにもなってしまっているのだ。(そういう女の子たちのあいだでの人気というのが、例の少女小説的興味にすぎないことは、改めて説明するまでもあるまい。)
 だから、鑑賞指導というたてまえからは、定評のある童話や文学作品ならどういうものを読ませてもよいというもではないのであって、相手の生活のありよう(精神の発育の段階と体験のゆがみの程度)に応じた作品の選びが、そこに必要になって来るのであり、また、今現に子供たちの読んでいる作品について(それが好ましい作品であろうとなかろうと)親や教師がともに読んでともに語り合うという指導が必要になって来るのである。それで、ともかく教師なり親なり指導に当るほうの人たちが、文学の「しくみ」と「はたらき」についての認識を確実なものにし、鑑賞の意義と役割の大きいことを十分見とおした上で本腰を据えてかからないと、今のこの悪現実のもとでは、消極的な妙な文学趣味を植えつけておしまいになる、というような、かえってマイナスの結果をさえ招くことになるのである。
 実例について話を進めよう。

      四、 一 つ の モ デ ル

 評判になった作品だから、お読みになった方もきっと多いと思うが、壷井栄さんの書いたもので「あたたかい右の手」というのがある。発表された場所がすでに「少年少女の広場」という児童雑誌であるし、また、その表現の仕方そのものからいっても、小学校の四五年生ぐらいからせいぜい中学一、二年生あたりの読者を相手に書かれた作品のようである。この短篇小説は、取扱った事がらの範囲やその扱い方の点からいって、そういう小さい人たちを相手に書かれたものであることは明らかだが、しかしまた、表現の内容(あるいは認識の内容)そのものは、ひじょうに幅のあるものであって、高等学校の生徒諸君をも十分その愛読者の中に数えることが出来るというふうな作品なのである。
 ――B組で、いちばんよくできる子、それは、名まえもいっとうめずらしい慈雨(じう)ちゃんでした。いちばんおとなしくてやさしい子、それも慈雨ちゃんでした。そのうえまだ慈雨ちゃんは、たいそう美しい目と、かみの毛とをもっている少女でした。その美しいかみの毛を、慈雨ちゃんはいつも、すこし長めのオカッパにしていました。
 これが「あたたかい右の手」の書き出しである。作者は、こんなぐあいに、このやさしい慈雨ちゃんを、さも可愛いくてたまらないという調子で、いたわりの目で見まもっている。だが、その愛情の目には、その深い愛情のゆえのきびしい批判のまなざしが認められている。慈雨ちゃんは確かに「おとなしくてやさしい」しかしそれだけで人間はいいものかしら、と
竹子(たけこ)が首をかしげたところで、作者もまた首をひねっている。「竹子はその慈雨ちゃんと大のなかよしでした。けれど、もって生まれたものは、およそ正にはんたいの二人だったのです。」大のなかよしだからこそ、竹子は相手に向ってこんな言葉を浴びせかけもするのだ。
 ――「慈雨ちゃん、あんた、お人よしね。すこし気が弱すぎるわ。もっとぱきぱきいわなくちゃだめだと思うの。じぶんがわるくもないのに、だまってひっこんでるなんて。」
 それは、「ケシゴムをなくした子が慈雨ちゃんにうたがいの目を向けて、ひにくをいったときのこと」だった。この子のいい方を借りれば、「自分のものなら、そうだとはっきりいえばいいのに」ボロボロ涙をこぼしながら、自分のケシゴムを相手に渡すというふうな慈雨ちゃんなのだ。「いいあいっこはきらい」だから、と慈雨ちゃんは自分の気持を説明するが、「そんな慈雨ちゃんを……竹子はあんまりすきでなかった……というよりも、はがゆく思わずにいられ」なかったのだ。
 ところで、「いいあいっこはきらい」という慈雨のこの言葉には、じつは根がある。それは、たんにそういうことが嫌いだというだけではなくて、いつどんな場合でも、いさかいするのはいけないこと、というのが、この女の子の信条(モラル)なのである。そういうことは、この話のずっと後のほうで、それが自然と読者にのみ込めるように描かれているわけだから、いまは暫く伏せておくことにするが、ともかくそうであるとすると、竹子のあんまり好きでない慈雨ちゃんというのも、けっきょくはこの絶対無抵抗主義の信条に生きる慈雨を指しているというふうな事になるだろう。
 その慈雨ちゃんは、将来「どうていさま」になって、「一生神さまにおつかえしてきらくにくらす」のだという。それは、「あたしが生まれたときからきまっていた」事なのだ、という。竹子には、その「きまっていた」ということが、どうしても納得いかないのだ。誰かがきめない以上、決まるはずがないではないか。それで、
 ――「だれがきめたの?」
と聞き返さずにはおれない竹子なのである。後になって、どうていさまというのは「あまさんみたいなものさ」という母親の説明を聞いた竹子は、そんなのつまらないからやめたら、という。
 ――「だって、もう決まってるんだもん。」
 ――「ふうん、でも、いやならやめてもいいんでしょ。」
 ――「そんなわけにいかないわ。」
 「いやならやめてもいいんでしょ。」これが竹子の論理だし、「そんなわけにいかない」というのが、「おとなしくてやさしい」無抵抗主義者慈雨の受身な、しかし頑強な信条(生活の実感)である。「生まれたときからきまっていた」そういう宿命に身をゆだねることは、「あたしはいやじゃない」のだ、と慈雨はそう心からいうのである。「それきり、どうていさまの話はでないまま、二人はまもなく別れて」しまった。「慈雨ちゃんは自由募集の女学校にいき、竹子は新制中学の一年にすすんだから」である。
 でも、「おなじ町なので、たまには顔を見あわすおりは」あったし、そんなときは「ちょっとことばをかわす」というようなぐあいだった。その日も(それはある五月のはじめの午後のことだった)ふたりは道の行きずりに立ち話をしたが、「わたしたち、あさってが遠足なのよ。もういまからテルテルぼうずをつくってるのよ。」と、いつもひかえめの慈雨ちゃんが、そのときは珍しく自分から話しかけた。よほど嬉しかったらしいのだ。そうしてその遠足のあくる日、竹子が学校へ行くと、大さわぎが起っていた。
 ――「たいへんよあんた、慈雨ちゃんが死んじゃったのよ。しってる?」「えっ」
 「汽車のなかでおしつぶされたんだってよ。」
 ――のりこんだ汽車は貨物列車の一リョウでした。……こしかけることも、つかまるつりかわもない貨物列車のなかで、しかし生徒たちはなんの不平もなく、ただ遠足のよろこびだけではずみきっていたことでしょう。のりこんだときには、まだゆとりのあった汽車のなかも、ひとつひとつの駅にとまるたびに人がふえていって、大宮という駅では、大波のようにのりこんできました。だれがなんといおうと、ただのりこむだけが目的のように、われがちにおしまくる人たち、おりる人があろうとなかろうと泣き声もさけび声も人びとの耳には、はいらぬようなさわぎだったにちがいありません。さきにのっていた人ほど奥のほうへおしこめられるのが道理で、生徒たちのさけび声は、しだいにはげしくなりました。そしてそのさけびがきわだったかたまりとなって、ひとすみからさけびつず
[ママ]けられたとき、慈雨ちゃんはもう気をうしなっていたというのです。
 ――おかあさんも、だれかにきいたのか、もう知っていて、「慈雨ちゃん、かわいそうなことになったね。」と、涙をこぼしました。「竹子もおくやみにいかなくちゃなるまいけれど、どうだろうね。」ちょっとコクビをかしげてかんがえてみました。それは、おなじ年の竹子をみて、慈雨ちゃんのうちの人たちが、どんな気がするだろうというえんりょからだったのです……
 でも、けっきょく行くことになって、「そこにまちかまえている、ふかいかなしみや大きいなげきを覚悟」しながら竹子たちは慈雨ちゃんの家の門をくぐった。しかし、竹子が見、竹子が聞いた言葉は、すべて思いがけないことばかりだった。
 ――「慈雨は美しい心のまま、神さまにめされていったのですから、かなしいことではないのです。こんなにはやくめされて、どんなによろこんでいるかわかりませんよ。慈雨はほんとにしあわせです。」
 ――「汽車のなかでも、これよりさきは進めぬ、いちばん奥におしつけられて、みんなさわいでいても、あの子はなんにもいわなかったそうです。慈雨はそういうがまんづよい、美しい心の子どもでした。」
 慈雨ちゃんのお父さんがそういうと、お母さんも涙ひとつこぼさずこんなふうにいうのだ。
 ――「みんなみんな神さまのおぼしめしですから、きっと慈雨ちゃんもよろこんでいるでしょう。きのうも病院からおしらせをうけましたけれど、あの子はもう神さまのお心のまにまにおまかせしてありますから、わたしはまいりませんでした。もしも神さまが、この世に生かしておきたいとおぼしめすなら、きっと生きかえるにちがいないと思ったのですが、神さまは、やはりはやくおそばへ慈雨をおよびになりたかったのでしょう。」
 竹子は「びっくりして」しまった。それで、帰る道々、母親にこうたずねてみた。「ね、おかあさん、もしか竹子が死んでいても、おかあさん泣かない?」
 大きく顔を横にふって、母は「慈雨ちゃんはかわいそうだね。かわいそうすぎる。あんなにあきらめのよい人にそだてられてさ。」そういって、ぽろぽろ涙をこぼした。二人は小さな流れの橋の上にさしかかっていた。この橋の欄干によりかかって、どうていさまの話をしたことを、竹子は、ふと思い出した。
 ――「神さまってほんとにあるの、おかあさん。」
 「さあね。あると思う人にはあるかもしれないけれど。」
 「慈雨ちゃんはあると思っていたようよ。」
 「そうかね。」
 「でも、神さまがあるとしてもよ、慈雨ちゃんほんとによろこんでいるかしら。」
 「わかんないね。おかあさんなんかはよろこばないね。」
 「竹子もそう思う。だってさ、おしつぶされて、それが神さまのところへつれていかれるなんて、へんだと思うわ。」
 神さまなんて、困っているのに助けてくれない神さまなんて、そんなのあるかしら――とりかえしのつかぬ悔やしさと、慈雨ちゃんのあわれさに、竹子は立ちどまって涙をぬぐった。
 ――どうしてだれもかわいそがらないの、あんないい子なのに、あんないい子だったのに。慈雨ちゃんたらまた、どうしておされっぱなしでがまんなんかしたんだろ。どうして、おしかえさなかったの慈雨ちゃん、それをわるいことだと、思ったんでしょう……(竹子は、わが心のなかの慈雨ちゃんに、うらみごとをいいながらしゃくりあげた。)かわいそうだわ、せっかく生まれてきたのに病気でなしに死ぬなんて……いつまでもしゃくりあげている竹子のかたに、おかあさんは手をかけ、そっとひきよせるようにして、
 「泣いてあげなさい。泣いてあげる人がなくっちゃ。」
 そしてつぶやくような、ちいさな声で、
 「もとは、みんな戦争よ、あれもこれも。」
 それにこたえるかのように、竹子は、かたのうえのおかあさんの手をかるくにぎりしめました。あれてがさがさした手は、しかしあたたかい手でした。

     五、 子供はどんな読みそこないをするか

 「あたたかい右の手」は、だいたいこうした筋書の、またこんなふうな主題の作品である。あたたかい右の手という言葉(標題)のさし示す意味も、終りのところへ来てハッキリするだろう。あれもこれももとはみんな戦争だ、という母親の叫びは、呟くような小さな声ではあったけれど、すなおな気持ちでものごとを考える人だったら、そうだ、ほんとうにそうだ、と口に出してその叫びに答えずにはおれなくなるような迫るものを持っている。
 また、――どうしておされっぱなしで我慢なんかしたんだろう。どうして押し返さなかったのか。それを、あなたは、悪いことだと思っていたのだろう、という竹子のうらみごとも、ここまで来ては、読む者の胸には、もうたんなる慈雨や慈雨の両親へのうらみごととしてでなく、読者自身の内部に向けられたきびしい批判の声として響いてくる。善意だけではどうにもならぬ。こんにちの現実であること、いや平和を望むそういう善意が、こうした悪現実のもとでは、かえって平和を阻む力に手を貸す結果を作り出すものであること等々々、わたしたちの心に住むいくたりかの「慈雨」にたいする批判が、そこにはある。
 ところで、これは、わたしの「鑑賞」をそれとして述べているのではない。この作品のほんらいの読者である少年少女諸君の、いわば読後の感想といったものを、たんにわたしが代って述べたというにすぎないものなので、前節でおこなった筋の要約にしても、そのとおりなので、どんなところが印象に残ったのか、どんなふうなテーマのどんなふうなしくみの作品として子供たちの印象に残っているか、という調査にもとずいて、それに多少の肉づけを施したのが、前節のあの要約なのである。それで結果は、だいたい作者の狙った方向に作品の表現が理解されていることが知られるのであるが、指導の伴った場合とそうでない場合、指導がおこなわれたというにしても指導の場の違いなどによって、その表現理解(鑑賞)にはかなりの差が見受けられる。また、そういう表現理解の幅や厚み(あるいは深さ浅さ)に、読者の生活年令
[ママ]がいろいろに作用しているということは、これはいうまでもないことだが、そのことと絡み合いながら、ひごろ子どもたちの指導に当っている受持教師のセンスのよしあしが、子供自身の享受の感度を鋭いものにしたり鈍いものにしたりしていることは、ほとんど決定的であるといっていい。
 そうした鑑賞指導の実際に即したいろいろの問題のなかから、二三の事がらを拾って、ここに書きつけてみようと思うのだが、その前にいっておかなくてはならないのは、慈雨の死のいわば客観的な裏づけ(死に至る慈雨自身の主体的条件)の一つとして作者が挙げているところの医者の証言がほとんどすべての読者(少年少女)によって読み過ごされている。読み落されている、という点である。――おさない子供ならともかく、十才
[ママ]のうえにもなれば、押されても押し返す力というものが、人間には自然にそなわっているのが普通なのに、押されてそれに抵抗する力がなかったのは、よほど弱いからだだったのだろう、という「病院のお医者さまがいった」言葉である。その言葉から、竹子は、「慈雨ちゃんの栄養失調というアダナを思いだした」ということや、「あおいやせた顔の慈雨ちゃんは、おべんとうも組のなかでいちばんおそまつなもの」であったことなどを、作者はかなり力を入れて書いているし、そういう目で読み返してみれば、すでに書き出しのところで、「かみの毛がそんなに多くて、つやつやしているのに、慈雨ちゃんはやせて、青い顔いろをしている」ことを、ぷちぷちと肥っている竹子の「つやつやかがやいているよう」な皮膚の色と対照的に描いてみせているのだ。作者はひじょうに慎重に、そんなふうにいくつかの伏線を張りめぐらしながら、焦点をキワ立たせようとつとめているのだが、一度や二度読んだのではどうもぴんと来ないらしい。また、ちょっとやそっと注意をうながしたぐらいのことでは、全然乗ってこないというふうな子供たちさえある。(それは、受持の先生が大の浪花節ファンで、授業のあいまには必らず塩原多助が飛び出すというふうな指導を受けているクラスの生徒の場合であった。)
 ともかく、読者は、竹子といっしょになって、歯ぎしりしたりした慈雨ちゃんをあわれがったりしているうちにいつの間にか竹子とは別の軸で(というのは、つまり自分自身の生活の実感のワクのなかで)怒ったり悲しんだりするところへ横すべりして、作品の表現のだいじな点を見落すという結果になってしまっているのだ。どんなすぐれた作品でも、与えっぱなし読ませっぱなしでは、ダメだというのは、こういう事があるからだ。指導がキメ細かにおこなわれなくてはならぬのは、こういう点である。

    六、 「蜘 蛛 の 糸」 そ の 他

 それで、子供たちに自分の鑑賞のズレやゆがみをスナオに自覚させるためには、一対一の指導よりは、五人、十人、二十人と集まって、そこでお互いの意見を発表させ討論させるという方式がいい。一対一の対談は一見理想的なようであって、じつはおとなの考えをおしつけられたという気持で、子供が引下るのがオチのようである。で、この方式では、そういう気分に子供を追い込むまいとする結果、子供の感想をただそれとして聞きっぱなしにする、という場合が多い。だから、母親が子供を家庭で指導するという場合でも、やはり隣近所の子供なりクラス・メートを呼ぶとかして、ウチの子といっしょに指導するというのが効果的である。
 わたしは、もうせん、ある家庭でもよおされたこうした種類の会合(子供会)に呼ばれて、その席につらなったことがある。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と、この「あたたかい右の手」がお話会のテーマで、女子高校に通っているこの家のお嬢さんが司会した。中学生が三四人、小学校の五年生と六年生が七八人、それにお母さん方が三人ばかりという、なかなか賑やかな集まりだった。「蜘蛛の糸」のほうは、お母さん方には一様に人気があったが、子供たちには余りしっくり行かなかいらしかった。身勝手なマネをしてはいけない、ということが書かれてあって「たいそう為めになる童話だ」というような意見が出たりもしたが、「お説教聞かされているみたいで、ぼくは嫌い」という中学生の感想発表で、大笑いになってしまった。また、蜘蛛の糸を使ってカンダタを助け出そうとするお釈迦様のヤリ口が妙に中途半端だ、あれじゃ誰だってひっかかるよ、まるでペテンだ、しん底から助けようと思っているのかどうか、わかったもんじゃない、という意見を述べた六年生の男の子もいた。
 この話が出たところで、司会者が話を引き取って、芥川さんという人は人間の本質を「利己」というところに求めた作家であること、だからここでもカンダタは利己心のために救われない、というふうな取り扱い方になっているのは当然のことだ。大泥棒の何のといろいろ肩書はついているが、つまりカンダタは人間というもの一般を象徴しているわけなのだから、という意味のことを、ひじょうにわかりよく話した。すると、はじめこの作品を支持していたお母さん方も、「いったい、これは童話なんですかネ。」と、お隣どうしぼそぼそ話をはじめ、あげくは「これはお母さんグループの負ですね。」と一人のお母さんがいい出した。
 「あたたかい右の手」は、大人の側も子供のほうも、ほんとにすばらしい、というところで意見が一致した。もっとも、男の子の側には幾分の不満があるらしく、「女ッくさい小説だな。」とか、「女しか出てこないんだからね。」という声があったが、「そんなこといったって、ムリよ。」という女の子たちのムキになった声にもみ消されてしまった。そうして、それはもみ消されても不平ではなかったらしく、作品の表現についてカンドコロを突いた意見はかえって男の子の側に多く、女の子のほうは、さっきもいったような、自分の実感の文脈に作品の表現をゆがめて理解しているような(つまり吉屋信子調の鑑賞を、このリアリスティックな作品の表現理解にそのまま持ち込んでいるような)読後感を述べている向がすくなくなかった。例の「女の子ッくさい」という距離感が、かえってこの場合プラスにはたらいて、男の子たちの鑑賞を正しいものにしているのだ。慈雨ちゃん一家の例の「あなたまかせ」の成り行き主義無(?)抵抗主義への強い反発を見せたのも、この男の子たちだし、戦争と平和の問題への竹子と竹子のお母さんの考え方を、もっと掘り下げて意見を述べたのも、やはりこの男の子たちだった。
 会が終ってから、お母さん方は、こんな話をしていた。「今の子供には、壷井さんのああいったふうな生活童話でないとダメなんですネ。わたくしたちの子供の時分とは、まるで違って参りましたね。」


熊谷孝 昭和20年代(1945-1954)著作より熊谷孝 人と学問