文学と教育 ミニ事典 |
●読みの三層構造 | |
国語教育界に固有のその特異さ――むしろ、異常さ――は、読みの三層構造ということをとり違えて、例の通読・精読・味読の三次読み・三層読みと称するものを、読みのこの構造的性質と見合う唯一絶対の読解の方法として定式化することで、解釈学的国語教育ないし形象理論という名の史上最低の生の解釈学 をそこにつくりあげた、という点に求められるだろう。 読みの三層構造というのは、実は、読みの過程的構造の三層性といういうこと以外ではないはずだ。それは、その 文章の全文を終わりまでまず通して読み、読み終えたところでまた文章の初めにかえって、次にはかくかくの仕方で、さらにそのまた後では、かくかくしかじかの読み方で、というふうにポイントを切り替えて三層に読み分ける、というようなこととは全然ディメンジョンを異にする別個の話だ。(…) およそ文章の理解というものは、(戸坂潤の用語、つまりその発想、考え方を援用して言えば)受け手自身による自己の印象の追跡 という形で成立し展開していくものなわけだろう。(…)つまり、読みは主体的なものである、ということだ。また、その 文章、その ことばは伝え(=伝え合い)の媒材・媒体以外のものではないのであって、文章をそれとして読むということ自体に、その 文章を読むことの目的があるわけではない、ということなのだ。そうではないのか? 目的は、世間並みの言いかたをすれば、内容をつかむことである。そこに示された事物や現象やそのつかみかた、感じかたなどと、自己のそれとを対比させ対決させる形での伝え合い(対話)の進行の中に読みが続けられていくのである。それは、次に述べるような、@前、A中、B先、という三層の読みの過程を何回となく――何回となく である――重層的かつ上昇循環的にくり返しながら、その文章が媒介する刺激とそれに対する自分のパースナルな反応・反射・反映のしかたが、印象の追跡という形で変化を遂げていく、ということにほかならない。それが、読みの三層構造ということなのである。 上記、@前、A中、B先、というのは、こういうことである。@読みによるその文章の内容の理解――この、文章の内容の理解ということが、いわゆる意味での文章の理解 ということの実際の中身だ――は、その文章表現(あるいは記述)が媒介しているある事物、ある現象に関して、それと同一の事象に対する、受け手による受け手自身の反応様式の想起、という形でまず端緒的に成り立つのである。自己流の言いかたをすれば、先行体験の端緒的形成という形で成り立つ、ということである。(…) で、そのようにして、そこに想起された自己の反応様式をささえとしながら――あるいはそれにささえられながら――、受け手は、Aその文章に示されている他者の別個の反応様式との対比・対決の体験を、そこのところで準体験するのである。むろん、自分にとって未知の事象や、その事象に対する他者の体験や反応のしかたなどを、その文章の記述や表現に媒介されながら片側で準体験しつつ、ということにほかならない。 つまり、そこのところで、立ちどまって考え込んだり、迷ったり、ある驚きや感動を覚えたりしながら、Bその文章の先の部分に書かれてあることへの予測をたてながら期待をいだいて読む、というのが読みというものの過程的構造なのである。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.108-110〕 |
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