文学と教育 ミニ事典 |
●読む/読み | |
○ 世間の常識に従えば、文章に示された内容をつかむことが読みである。が、“内容をつかむ”という、その内容とは、いったい何であろうか。それは、端的に言って、「言葉を通し、言葉に託して、ある発想によってつかまれた事物」のことであり、その限りでの、「事物の意味」のことである。事物の意味の追跡過程が、内容として記述され、あるいは表現されているとも言えよう。 ところで、この内容というものが、一定の大きさと容積をもち、文章の中に封じ込められている、という発想が、わたしたち教育現場の中に根強く生きている。いや、研究現場の中の支配的潮流と言ってもいいかもしれない。こうした発想に立つと、文章は結果において文字の行列と同一視され、構文規則に従い、不明の語彙を明らかにしていくと、文章の内容はおのずからつかめてくる、という指導過程論になってくるのである。あとは、この機械的な論理を、こまかにもっともらしく粉飾しているだけの話である。 こうした汎言語主義的な考えに立つ限り、意図はともあれ、結果的には、戦前・戦中のあの解釈学的国語教育の発想と一つにならざるをえない。文章の中に封じ込められている内容(=真理)が、自己の主観をまじえずに読めば、つまり「己れを虚しうして」読めば、必ず読み手のがわに乗り移ってくる、という考えかたである。それは、体制がわが「皇国精神の真髄」を追体験させるために使った論理である。読むという営みを、文章に示された考えかたに読み手を同化させていこうという発想である。わたしたちは、そうした同化の論理である追体験理論に対して、変革の論理、準体験理論を提唱し続けてきた。 したがって、わたしたちは、文章を読むということを自己目的としておさえない。目的はあくまで、読みを通して自己(=読み手主体)の発想を自覚し、究極において自己自身を変革していくことにあると考える。読むということも、実はそのための手段・方法だと考えるのである。自己の発想のゆがみやひずみに気づき、それをまともな方向につくり変えていく過程、それが読みである。別の切り口から言いなおすなら、文章に示された事物や現象のつかみかた、感じかたなどを、主体的につかみなおしていく過程である。そうした事物や現象のつかみなおしを保障するような読みを、わたしたちは、“印象の追跡としての総合読み”として提起してきた。 したがって、また、そこに選び取られてくる作品――教材化作品――は、すぐれた発想による文章でなければならない。追跡するにたる印象を読み手に与える文章、つまり、文体のある文章でなければならない。 そうした、すぐれた文章の示す発想と、自己のそれとの対比・対決を通すことで、自己の発想・発想法の変革は保障される。自己の発想、それは、具体的には“印象”という形で現われる。ちなみに、印象とは「刺激に対するパースナルな、その人の全人格的な反応・反射」のことだと、わたしたちは規定している。その印象を追跡するという形で、実際の読みは進行するのである。〔1970年、文教研著『文学教育の構造化』p.8-9〕 ○ よもやそんな誤解はあるまい、あるまいけれど――である。作品をその作品の内側から読むというのは、わたしたちがただその作品の文章とにらめっこ していればいい、ということではない。(…)読者へ向けて用意されている視座〉を明らかにするように場面規定を押えて読む、ということこそが、わたしの言いたいことである。この場合、〈読者〉というのは〈本来の読者〉のことである。であるからして、作品を内側から読むというのは、その作品本来の読者へ向けて用意されている視座を潜って、わたしたち読者がそれを読む、ということにほかならない。 潜る? ……しかつめらしい言いかたをしたほうが、かえって通りがいいだろうか。〈媒介する〉ということである無媒介に読んだのでは、つまり作品の文章とただにらめっこ していたのでは、その文章に託されている〈発想〉はつかめない。したがってまた、文章が文章になりきらない。言い換えれば、その文章の言葉は、第二信号系としての生産的・実践的機能における生きた言葉――文体刺激とはなりえないのである。まことに芥川その人が語っているように、「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」(『侏儒の言葉』)のである。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.204-205〕 |
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