文学と教育 ミニ事典
  
信号/記号
 記号というのはマークのことです。トレード・マーク(商標)などという、あのマークのことです。だから、それを符号と言い換えたっていい。この“マーク”ということばを動詞にして使えば、何かにしるし をつけるとか、符号をつける、跡を残すとか記録する、というような意味になるでしょう。“記号”というのは、要するに、そういうことなのです。そういう意味のことばなのです。
 “
信号”のほうは、これは“シグナル”(signal)ですね。事前に予告するもの、導火線になるもの、そういう発信・送信・受信のはたらき のことですね。要するに、ただ、それだけのことです。ごく常識的にお考えになってください。
 そこで、
信号というのは具体的には何かある事物の信号なのですけれど、その信号を、痕跡をとどめる形で符号に移して記録したものが記号だ、ということになるわけでしょう。児童や生徒たちがどこまでのことがどうつかめるようになったか、何がわかって何がわからないのか、不確かな点はどこか、将来への伸びはどうか、というような評価をある切り口で量に翻訳して50点とか60点というふうに採点しますね。あるいは、クラス全体・学年全体の中でのパーセンテージによる割ふりで、5とか3とか2というふうに評価して記録にとどめますね。そういう評価のしかたがいいかどうかは別として、これもやはり、教師にとっての成績信号の記号化でしょう。
 で、そのことの裏を返して言うと、
記号――マークの役割を果たすのは、それが具体的なあるシグナルとして、こちらに働きかけてきたような場合においてだけである、ということになります。記号というのは、まさに信号の符号化・記号化として、つまりそれをマークしたものとして、信号に奉仕するために――第二信号系の所有者としての人間に奉仕するために――作られたものなのですね。ですから、記号信号に先行するのではなくて、信号が先在し先行しているわけなのであります。少なくとも、第一次的な信号記号の先後関係はそういうことだ、という意味です。信号あっての記号信号をマークしたものとしての記号……つまり、そういうことなのであります。
 五線譜――楽譜のオタマジャクシですが、あれは
記号ですね。作曲家は、(一応の意味での話ですが)自己の送り意図、送信・発信の信号をオタマジャクシに移す形で楽譜として記号化するのですね。で、それを演奏するとか聞く場合、その記号記号としての域にとどまっていたのでは、これはどうにもならない。楽譜を読むということは、記号信号に変えることなのですね。記号信号に変え、記号信号になることで、その楽譜がただの楽譜ではない音楽作品になる、という関係です。オタマジャクシの行列が作品なわけではない。それは文字や活字の行列が文学作品ではない、というのと同じことです。よく、ベートーベンの第九なら第九を楽譜どおりに演奏するとどうなるか、というようなことを言いますが、ナンセンスですね。それは、佐藤春夫なら佐藤春夫の『愚者の死』という詩作品を記号のままの形で読むとどうなるか、というのと同じぐらいにナンセンスな問いですね。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.88-89〕
   

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