文学と教育 ミニ事典
  
生の解釈
 多分にロマンティックで審美的(ästhetisch)な、生の解釈としてのディルタイの想像力理論こそ、(厳密な意味では理論としての体系を欠いた)ロマン派の発想に体系を与え、それをひとまとまりの理論として今日に媒介している当のものである、と言っていいだろう。生哲学(Lebensphilosophie)が新ロマン主義(Neo-romantismus)の名をもって呼ばれている理由だろう。現在、とりわけ日本にあっては、かなり多くの人々に支持され理論的なよりどころとされ、同時にまた、かなり多くの人々によって否定的に受けとられているその体系と体系化は、(…)「生の自己同一」を前提としつつ、「持続的に固定した生の諸表現――それのいちばん代表的なものに詩がある――」を「追体験」(Nacherlebnis)により、「外部から感性的に与えられている諸記号によって内部のものを認識」しようとするものである。
 そういう認識を彼は「理解」(Verstehen)と言っているわけだが、「著者(作者)を著者その人が理解していた以上によく理解する」ことが彼の体系――解釈学(Hermeneutik)――の究極の目的である。それは、一度外化されたもの(表現)の、内化(表現理解)の操作・措置である。その内化のプロセスにおいて生の理解は、「著者その人が理解していた以上に」深められる。「
生による生の理解」というのは、そのことなのである。「生は生によってのみ理解されうる。」つまり、生はそれの本性上、生によってしか理解され得ない、とするのである。(…)

 生は本来自己同一的なものであり普遍人間的なものである、という想念に立ってディルタイは、ある個人の感情から生まれたもの――たとえば詩作品――が、「ここ でもそこ でも同一の感情の構成を呼び起こす」というふうに考えるのである。それは、けっして逆説ではなしに、(彼の形而上学的、存在論的な立場とはまさに対蹠的な立場であるはずの)機械論=素朴実在論的な無媒介な反映論とどっちこっちのナイーヴな想念である、というほかなさそうである。感情から生まれたものが、ここ でもそこ でも同一の感情を呼び起こすということは、言い換えれば、x という刺激は時間・空間的な制約を越えて、いついかなるところでも x’という反応を成り立たせるということであろうから。
、それは、実感の監視、印象の追跡としての批評によって帰納された判断ではなくて、一事が万事ふうに自己の実感において演繹された「想念」である。そこには、詩人の想像的意識、詩人の想像力への実感ベッタリの追随と同化、それへの深い賛嘆があるだけである。追体験(Nacherlebnis)である。その立場が究極において「神秘的であるという意味においてロマンティックである」という、まさにその点においてロマン派的であり、それゆえにまた主観主義的である、と言うことができよう。(今日の問題に関連させて言えば、その主観主義のちょうど裏を返した格好の、客観主義的追体験主義とでも言うべきものが唯物論の側の想像力理論の論理の裏側にベッタリはりついて、唯物論プロパアな研究の進展をはばんでいるというのは、観念論の側の研究にとっても不幸なことであるといわなくてはならい。そこには、理論の発展を誘発する上に必要な対立の契機、否定的媒介の契機を欠いているからだ。現在の文学教育ないし国語教育の理論が露呈しているその貧困と不毛と停滞の内在的要因も、一面やはり、このことに関連している。)
 そこにあるのは、想像的意識の「ただの解釈(Auslegung)」である。言い換えれば、それは事態を変革するための解釈ではない。解釈のための解釈ということである。何のためのと言えば、せいぜい「生」の顕在化と内化――表現と理解――のために、ということである。詩人のその 想像的意識、その 想像力をあすへ向けての芸術的創造活動の新しいエネルギー生産の契機として受け継ぎ、受けとめ、それを創造の契機としてつかみとろうとする姿勢は見られない。今日および明日の新しい創造のエネルギーと契機を探ろうとするがゆえに、その想像的意識のありようはたらき を否定的媒介の契機においてつかむ、というクリティカルなものはそこに見あたらない。ディルタイの立場が観想的であるとされる理由である。それと同時に、文学教育やいわゆる“読み”の教育、国語教育を観想的な立場につなぎとめようとする人々にとって、この追体験主義――解釈学の理論が今なお(今こそ?)人気のある理由だろう。
〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.59-63〕
 
   

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