文学と教育 ミニ事典
  
詐欺師/嘘つき
 
――私は、嘘ばかりついている。けれども、一度だって君を欺いたことがない。私の嘘は、いつでも君に易々と見破られたではないか。ほんものの嘘つきは、かえって君の尊敬している人の中にあるかも知れぬ。あの人は、いやだ。あんな人にはなりたくないと反発のあまり、私はとうとう、本当のことをさえ、嘘みたいに語るようになってしまった。ささ濁り。けれども君を欺かない。底まで澄んでいなくても、私はきょうも、嘘みたいな、まことの話を君に語ろう。(…)(『善蔵を思う』/一九四〇年四月)
 「ほんものの凶悪の嘘つき」とは実は嘘つきではなくて、詐欺師のことをさすのでありましょう。果たして人びとが「尊敬」しているかどうかは別として、彼らの多くは、知名度の高い、いわゆる名士の中にいるわけなのでありましょう。反対に、嘘つきは、名も無い民衆の中にいる。その嘘は「君」を欺きはしない。欺く相手は凶悪な詐欺師や、その取り巻きである「壮士ふうの男」その他その他である、ということなのでしょうね。今のこのご時世で、バラバラに孤立させられてしまった民衆が、その日その日を生きつないで行くためには、嘘つきになるほかはない。作家もまた、民衆の文学者として、長く息の続くような仕事をしようとするならば、嘘みたいにして本当の事を語るほかはない。何かそういうことが前提にあるようです。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.70-71〕


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(…)「凡俗の胸を尺度にして……人間はみな同じものだ」と考えることこそ、「浅はかなひとりよがりの考え方」だ(『右大臣実朝』)(…)この、人間はみな同じものではない、という判断の前提にあるものが、『善蔵を思ふ』において語られている、嘘つき詐欺師との判然とした区別であります。黒い手の詐欺師の中に“人間”“誠実な人間”は絶対に住みつかないけれども、嘘つき、民衆という名の嘘つきの中には、“人間”が息づいている。嘘も嘘、大嘘をつくことで内心の自由を守り、辛うじて自己の人間的誠実さを守り抜いているような人間が、今はなんとますます多くなって来ていることか。彼らのそういう嘘と真実、その誠実さについて語ることが、まさに今日の、また最も今日的な文学的必然である。いいかえれば、今日的な文学的抵抗は、そういう彼らの内面と行為を描き切ることにおいてだけ保障される。……という課題を追って彫琢されたのが、『惜別』を含めて一連のこの時期の太宰作品なわけでしょう。(…)
 追い込まれた現在の民衆的現実の中にあっては、
嘘つきであることが実は自分の人間的誠実さを保障するものとなる(…)。嘘とは、「事実」の中に「真実」を探りそれを口にすることだ、というのです。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.290-291〕
   

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