文学と教育 ミニ事典
  
ナレーター/狂言回し
 [井伏鱒二『朽助のゐる谷間』の]朽助は、作者の手によってその内面に、多分に意識的・構成的な虚構を施された人間像だということになりそうです。この作品の虚構は、事件の組み立て方や何やにあるよりは、朽助のありようそのものが虚構なのです。この内面に虚構された朽助を対象化し、ある程度つき放して描くところに『朽助のゐる谷間』の世界が展開するわけです。まさに朽助のいる谷間 なのです。
 (…)こう見てまいりますと、朽助と作者井伏とは全くの別人です。孫娘のタエトも、むろん別人です。朽助の身を案じて東京からかけつけて来た「私」という文学青年も、別人でしょう。この「私」は、この作品では
ナレーター狂言回しとの二重の役柄・役割を演じているわけなんですけれども、格別、作者井伏鱒二の判断や意見を代弁しているわけではありません。                                                  この「私」は、幼年期・少年期の自分を温かく見守ってくれ、今なお溺愛というに近い愛情を自分に注いでいる朽助の姿を、やはり愛情の眼差しでじっと見つめています。時として、その一途な愚直さに手を焼いたり、時としてまた、こちらからちょっかいを出したりしながら朽助の言動を追っています。
 不粋な言いかたになりますが、「私」というこの文学青年の存在理由は何か、ということなんです。一つは、こうした深い親近感と敬愛の念の重なり合った相手に対してでないと顔を見せることのないような、朽助の内面のぎりぎりのものが「私」の登場で顕在化される、という点でありましょうか。
 いま一つは、その
ナレーションですが、それは主として朽助に対する自分の気持や判断を語っているものなのですけれども、それが朽助の“人間”に対する深い理解を読者に促すところの、朽助と読者とを橋渡しする役割を果たしている、という点でしょう。つまり、この場合も、作者が作品の中にしゃしゃり出て、自分の意見はこうだ、というようなことを言っているわけではないのであります。
 (…)井伏さんとしては多分、判断は読者にお任せ、ということなんだろうと思います。自分は自分でもっともっと考えてみたいし、読者の皆さんは皆さんで、せっかちにならないでこの問題を考えつづけていただきたい、という、そういうことなんだろうと思います。そのことが、つまり井伏は押しつけがましさを嫌う礼儀正しい作家だ、と武田
[泰淳]さんの指摘しておられることの実質的な中身なんじゃありませんか。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.42-44〕


 でも、今のこのせち辛い世の中にこんな人間が実在するだろうか? 実在しうるだろうか?という私たちの疑問に答えて、そら、ここに、こうして日々生活を営んでいるよ、ちゃんと実在しているよと、一つ一つ状況証拠をあげて証言しているのが、ナレーターである作中の「私」です。
ナレーター狂言回しとしてのこの「私」の登場・登板、これが井伏文学の第二の発想です。
 むろん、朽助の内面への虚構、加工にあわせて、この「私」の位置づけを前提としての、第二の発想ということなのですが。
 ともあれ、この「私」には、朽助のことに関して虚偽び申し立てをする必要は自分の利害関係や心情からして全くありません。それに、彼が提示している状況証拠は逐一、彼自身、
狂言回しとして朽助と行動を共にしての、いわばこの目で見た事実なのです。信憑性は大きい、と言わなくてはなりません。
 作者が自分をコメンテーターとして位置づけるのではなくて、
狂言回しでもあるナレーターの語るところを、それとして書きとめて行くという発想、これが、昭和四年のこの時期に井伏という作家が見つけた(また身につけた)真新しい発想だったんじゃないか、と思います。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.66〕
   

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