文学と教育 ミニ事典
  
“ことば”信号
 “ことば”はもともと信号です。早い話が、「梅干」ということばを耳にしただけで、わたしたちは口の中がすっぱくなります。すっぱく感じる程度や何やは人によって違うでしょうが、ともかくそういう反射がわたしたちの上に起こります。“ことば”というものは、もともと、そういう反射をひきおこす条件刺激・信号・媒体なのです。つまり、“ことば”とは“ことば”信号なのであります。
 題は忘れましたが、倹約を通り越したケチンボな男の話、ケチ比べのおもしろい落語がありますね。わたしが話したんじゃおもしろくもなんともないが、おかず を倹約してオレはいつも梅干一品だけで食事をすませてるんだ、という男に対して、「そんなことだから、お前はゼニがたまらねえんだ。このオレを見な、全然おかずなしでメシを食ってる。」というようなことを言うのでしたね。どうやるのかというと、食膳の上に梅干を置いといて、それをじーっと、にらんでいる。もう、いいかげん口の中がすっぱくなって来たころあいを見はからって、湯漬かなんかをサラサラとかきこむ、というのでしたね。
 ところで、落語の中のケチンボではなくて、その落語を聞いているわたしたちのほうなんんですが、そういう話を聞いているだけで、口の中が何かこう、すっぱくなってきます。目の前に梅干があるわけでもないのに、先刻言ったように「梅干」ということばだけで、(むろん、ハナシカの身ぶり、手ぶり、表情などとそのことばがささえあってのことですけれども)すっかり、もう、すっぱい感じになってしまいます。“ことば”というものは、つまりそんなふうに、そこにないもの――不在なものをイメージとしてよび起こす信号のはたらき をするのですね。
 今の事例をもう一ぺんなぞりながら整理してみますと、(1) まず、梅干を舌へのっけると唾液が出る。すっぱい、という感じになる。これは、梅干という現物による刺激です。生理的、直接的な刺激と反射です。もっとも、その反射は一〇〇パーセント生理的なものだとは言いきれないでしょうが……。というわけは、わたしたちには数えきれないぐらいの梅干体験があります。だから落語のケチンボと同じことで、それを口にする前にもう唾液の分泌が始まっているのが普通です。したがって、梅干を初めて口にする赤ちゃんだか子どもの場合とは違って、それをただの現物による刺激であるとか無条件反射プロパアだ、というふうには言えないでしょう。条件結合のしかたは多分に複雑です。少なくとも、そこには、これからすっぱいものを食べるんだぞ、というかまえ が出てきている。が、舌へのっけてから、いっそう顔をしかめる結果になる、というところを切り取って言えば、その限り無媒介な、現物による直接的な刺激と反応・反射だ、ということになります。
 次に、(2) 落語のケチンボの場合ですけれども、これは、今言ったように、その人物の梅干体験が前提になっての反射だ、ということになりますね。こいつを口にしたら、いつものような状態になるぞ、という自分の未来像をさきどりした形で、口の中がすっぱくなるのでしょうね。きょうは、ただにらんでるだけだ、などと思ってみたって、やっぱり、すっぱくなるのですね。
 このほうは、現物を実際に舌にのっけて顔をしかめるのとは違って、目の前六〇センチか七〇センチの位置にある梅干が唾液を分泌させるような“信号”としてはたらいているわけです。つまり、信号による反射、条件反射です。それは、現物が――梅干という現物が“媒体”としてはたらく反射なのでして、現物を直接舌で受け止めた場合の反射とは次元の違った反射になるわけです。舌の上の梅干と、目の前七〇センチの梅干――それは同じ梅干であっても、現物と媒体・信号との違いがあるわけです。
 (3) “ことば”による反射というのも条件反射ですが、このほうはもっと高度の結合・条件結合が行なわれているわけでして、それは二重の媒体をくぐった反射・反映である、ということが言えそうです。つまり、目の前の食卓の上の梅干は“すっぱい”信号になるのでしたね。「梅干」という“ことば”は、ところで、その信号のそのまた信号として“すっぱい”感じにわたしたちを導くのでしたね。信号の信号だから、これは
“第二信号”だということになります。このほうを第二信号と呼ぶとすれば、その前の信号を、“第一信号”と呼んで第二信号と区別したほうがいいでしょうね。“ことば”というものは全体として、そういう第二信号、二重の媒体のひとまとまりの組織、体系です。つまり、第二信号系なのであります。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.92-95〕
 
   

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