文学と教育 ミニ事典
  
経験主義・言語技術主義
 戦後一時期の日本の国語教育思想(思潮)は、(…)戦前・戦中の生の解釈学に代わって、プラグマティズムの発想に基づく経験主義・言語技術主義によって、ほとんどまったく支配し尽くされるに至った。占領軍が、進駐軍から駐留軍と名称を代えても、その本質の不動・不変を事実で示すかのように、このプラグマティズムの――というのは占領軍が持参した最低線のプラグマティズムの――支配は、依然続けられた。むしろ、強化された。
 てっとり早く言えば、当時のあの HOW TO 物の国語教科書である。「電話のかけ方」「あいさつの仕方」「会議の進め方」「手紙の書き方」というような項目で満たされていた、当時の教科書の編集と内容に思いをはせていただければよい。「実用」一点ばりの――というのは実は、日本人の生活の実際、言語生活の実際に即さないという意味では一向に実用的でない――ことばスキル一辺倒の経験主義的な、ニッポン・コトバ――無国籍なニッポン・コトバ――の学習指導が、そこでの国語教育ということであった。
 それは、日本の子どもたちを、まるで外国人――実は無国籍人種――の子どもと見なしたみたいな扱いの、ニッポン・コトバ操作の教育であった。だからして、その教育は少なくとも、母国語としての日本語の教育ではなかった。(…)

 作品の文体 などはもはや問題ではない。読者自身の文体と文体的発想による、作品のその文体との格闘などは無用のことである。古典や近代古典は、すでに評価と読みとりかたの決まった「名作」として、その定着した読みとりかたに従って読めばよいのであった。しかも、必ずしも原作や原文、あるいは筋の通った翻訳でなくて結構。ダイジェストでじゅうぶん。――そういうことであった。
 これは、確かに、解釈学的国語教育からの大幅な転換であった。“ことば”はそこでは、もはや「言霊
(ことだま)」などではなくて「手段」「道具」であった。しかも、消耗品 という意味の道具であった。それは、素朴・卑俗な意味での、まさにコミュニケーション・メディアとして考えられるに至った。(…)

 その指導理論は、もはやドイツにその出自を持つ解釈学的国語教育の理論などであろうはずがない。

 にもかかわらず、見のがされてならないのは、解釈学的国語教育に代わってイニシャティーヴをとるに至った、プラグマティズムの言語理論と教育理論が――むしろ、プラグマティズムそのものが――生哲学のアメリカ的形態以外のものではなかった、という点である。
 生哲学――少なくともディルタイ段階の生哲学――と、このプラグマティズムとの双方に共軛するものは、
体験(=経験)主義である。生哲学のいう Erlebnis(体験)と、プラグマティズムがいう experience(経験)との間には、明らかに考え方の違いがある。(まったく違いがないのなら、初めから両者を区別する必要はなくなるわけだ。)そこに、いわばウェットな考え方と、多分にドライなつかみかたとの違いはあるにしても、認識論的にではなくて(その限り)存在論的に、人間の体験(=経験)の問題として世界と人間の関係を「解釈」していこうとしている点で、両者は同一の路線に立っている、と言わなければならない。
 ことばを重ねるが、戦前の生の解釈学、解釈学的国語教育から実用的主義の国語教育へという転換は、確かに大幅な国語教育思潮の推移であった。それにもかかわらず、この両者のしそうの底流をなすものは、その源泉と水脈を同じくしているということなのである。このことの確認が、日米安保体制下の次の時期――つまり現在を含めて現在に直結する時期――の国語教育思潮の本質を理解する上に、意外に必要になってくるのである。
〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.113-116〕
    

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