文学と教育 ミニ事典
  
鑑 賞 
 言葉づらにとらわれて自分の思考そのものにひずみ をもたらすことのナンセンス(…)
 さしあたって、今日の話題であるテェマとか主題という言葉(用語)についても同様のことが言えるかと思います。作者の表現意図が作品の主題だ、というような主題観なども、主題ということの概念内包をそういうふうに規定して使うことにしようという協定でも成り立てば、それはそれでいいと思うのです。問題だな、とわたしが感じるのは、そういう主題というのが、つまり作者の言おうとしていることがその 作品の一番の眼目であって、だからしてまた、追体験によるその主題把握が作品理解・作品鑑賞の目的になる、というところへこの主題観がつながっている点が、わたしは問題だと思うんです。
 作品
鑑賞の目的は、――目的なんて言うと何か味気なくなってしまいますけど、かりに目的という言葉を使って言えばの話です、鑑賞の目的は、鑑賞の対象になっている作品に頭を下げることじゃないでしょう。そこで話題になっている事柄をめぐって、相手の発想とこちらの発想をぶっつけ合って討論するというか話し合うこと、それが目的と言えば目的じゃないんですか。「これはバイブルに書いてあることだから絶対だ」式の、神棚に文学作品を祭ってパン、パーンと柏手を打ってそれに最敬礼する、という対文学的な姿勢は、どうも非文学的なんじゃないかと思うわけなんです。そういうところへ、この主題観が、なぜだか結びついてしまっている……。
 それからですね、その 作品において実際に作者が言いえている ことや、作者の主観的な意図を越えて実際にその作品の表現において実現していることなどがそこでは問題ではなくて、単に言おうとしている こと――表現意図が関心事なのですね、そこでは。
〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.166-167〕



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