文学と教育 ミニ事典
  
感情の組み替え
 文章の理解、文意の把握というのは、(…)そのことば、その文章が媒介するその事がらを、その“ことば”(=文章)に即してあるしかたで、“わかる”ということだろう。
 言い換えれば、受け手の立場において――あるいは、時としてその立場の主観を別個の立場の主観に移行・転換させる形において――主体的に“わかる”ということ以外ではない、という意味である。さらに言えば感情ぐるみにわかる、ということ以外ではない、という、そういう意味なのである。
 “わかる”ということが、“行動への準備が気持の上で整う”ということを意味するとすれば、“わかる”ということ自体は観念の営みであるとしても、それは、単に観念的なものではない。むしろ、行動の事前規制という意味での“行為”的なものなわけだろう。ではないだろうか。(…)

 “わかる”というのは、だから、たとえば「きょうは、あきらめた。」というような形で感情ぐるみに“わかる”ということである。自分のナマの感情を抑えたような形で“わかる”わかりかたもあるし、それを抑えないとわからないような事がらだってある。が、感情を抑える――感情を抑制する、コントロールする――ということは、感情を無にするということではなくて、す
感情を組み替える、ということである。それは、そのようにして組み替えられた別個の感情をささえとし、そのような別個の感情にささえられて「わかる」「わかった」ということ以外ではないであろう。
 ちなみに、戸坂潤は、批評という操作の構造的性質を「印象の追跡」ということば(概念)で説明しているが、この印象の追跡――印象の確かめと点検による印象の深化――を可能にするかどうかは、実は上記の
感情の組み替えがきくかどうかにかかっている。そこで、もし、「印象の追跡としての読み」ということを言うとすれば、そのような読み は、感情の組み替えによる文意把握のしかたの変化と、そこに把握される文意の変化との相互関係をある程度に自覚した読み のことに違いない。〔1970年、文教研著『文学教育の構造化』p.216-217〕


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