文学と教育 ミニ事典
  
解釈学的国語教育
 読みの三層構造への着眼が、いわゆる三層読み=三読法の提唱・主張へとすべったところに、戦前の解釈学的国語教育の、他の文化領域における生の解釈学と異なる低次元の異常さが認められる(…)。他の文化領域にあっては、その生哲学的気分をささえたインテリたちが、いくら「凡庸」であろうとも、「三読法で読まないと読書がホンモノになってこない。」などというふうには、まさか考えなかった。子どもたちの教育に関しても、である。
 ばかりか、彼らは自分たちの西欧文化趣味からしても、この三読法ステレオタイプに対しては「生理的に」ある嫌悪感をいだいていた、といってよさそうである。それは、あるいは、「百歩が五十歩を笑う」てい のものであったかもしれない。が、ともかく、他の文化領域と学校教育との間には、やはり五十歩と百歩とのかなり大きな開きがあったことは確かなようである。
 そのこととどう関係するのか、またどういう関係に立つのか、生哲学本来の観想的ムードをいち早く抜け出して、この生哲学思想をファシズムの思想に転位(転向?)させる、という芸当を他に先んじてやってのけたのもこの
解釈学的国語教育であった。より具体的に言えば、「大君の辺(へ)にこそ死なめ」という心情に「青少年」をかり立てるために、「皇国精神の真髄」を「追体験」させる方法として三層読みを定位し、国語教育そのものを――つまり解釈学的国語教育をだ――「国防教育」の主要な一環として主張するまでに成り下がったのである。一九四三年の戦中の時点で、著名なある解釈学的国語教育学者は、雑誌「文学」(岩波書店刊)に次のような見解を発表している。「大東亜共通語としての日本語の進出に備えるためにも、足を地につけた国語教育たらしめるためには、(…)伝統に根ざした、底力ある国防教育たらしめ」ねばならない、と。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.111-112〕
    

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