文学と教育 ミニ事典
  
階級的視点
 若い日のマルクスの言葉(…)。「わたしが見ているのではない、わたしたち が見ているのだ。」(…)人間は単数にして複数、複数にして単数の存在だ、という意味だろう。あるいは、その逆かな、とも思う。多分、そうだろう。わたしとは、実はわたしたちのことである、というのがその言葉の意味だろうから。(…)
 「わたしが見ているのではない、わたしたちが見ているのだ。」つまり、「わたしとは、わたしたちのことである。」(…)そういう指摘が後に、「存在が意識を決定する。」という命題――人間存在の根本規定に関する命題――として一般化されていくわけだが、そういうふうに一般化されることで、一部には、階級宿命論的決定論とでも言うべき命題の理解――つまり誤解――を生んでいることも確かである。そこで、「存在が意識を」云々ということを言う先に、〈わたし〉の意識のありようを制約しているものは〈わたしの中のわたしたち〉である、という認知の出発点にかえって、そこからこの命題をつかみ直すことをやったらいいと、わたしなどは考えている。
 つまり人間自我の原点 にかえって、そこから存在と意識の問題を考える、考え直す、つかみ直すということなのである。ということは、誤解を避けて言えば、
階級的な視点ないし歴史社会的な視点から「自由」になって人間存在を考える、というようなことを言っているのではない。むしろ、その反対である。人間を階級的視点において考えるということは、〈わたしたちの中のわたし〉として〈わたし〉をつかむと同時に、その〈わたし〉を、〈わたしの中のわたしたち〉の動的なトータル――過程的構造における統一体――としてつかむことではないのか、という意味なのである。また、人間が無限の可能性と可変性を持った存在だというのは、そういう〈わたしの中のわたしたち〉が固定的なものではなくて、カサカサに干からびたラッキョウの皮や、腐った皮は自分でむしり取っていくし、そのむしり取られた跡にはまた新しい皮が根づいてくる、という、そういう存在、そういう生きものだということではないのか。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.124-125〕


   

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