文学と教育 ミニ事典
  
児童・生徒の発達の区分

@ おとなの目からはファンタスティックな夢を追っていると見える、その“夢”が実は現実(アクチュアリティー・リアリティー)である“メルヘンの季節”
A 「あの人、いい人? 悪い人?」式に類型的にではあるが、事物相互の関係において事物の把握・認知が可能になる“善玉・悪玉の季節”
B ひと通りの意味においてだが現実を現実として見きわめようとする傾向の芽生えと、そうした傾向と結びついた観念の世界のがらくた集めの傾向、そして具体的思考と相貌的認知のわく組みの中でではあるけれども、他人の気持や他人の立場をくぐれるだけの心的条件の成熟する“ロビンソン・クルーソー・エイジ”
C 観念への沈潜において現実を距離において見る、という青年期特有の
“ことばによる人生設計の実験期”
 “文体づくりの国語教育”が生きた生身の人間(民族的人間)の“ことば”(母国語)の教育であるということは、それが人間教育だということである。(…)「日本人、みな、いい人あるよ。わたし、日本人のいうこと、何でもきくよ。」式の、あの「日本語」を教えるのが母国語教育ではない。ほかならぬこの日本語を覚えることが、現代の日本を生きる人間としての、あるべき人間主体の基礎をつちかうことになるような、そのような母国語の身につけかたを指導するのが“文体づくりの国語教育”である。
 そういう意味において、石川達三氏のいわゆる“人間としておもしろみのある人間”(…)、言い換えれば現在のおとな を越えた、すぐれた意味において民衆的、民族的人間を対象――達成目標――とした、現実の教育素材としての目の前の子どもや若者たちの“人間”が問題になるのである。それは、単に、アメリカ渡りの心理学がいう“成熟”や“発達”などで割り切れることがらではない。なん歳からなん歳までは反抗期だから、この時期はそのように然るべく、という教育 心理学はこの際いただけないのである。科学を否定するのではなくて、科学のよそおい をしたえせ 科学の根底にある宿命論的な人間観を否定するのである。人間の生理的な成熟はあくまで前提としながら、その発達は可変的であるという視点に“文体づくりの国語教育”は立つのである。そのような視点に立って、わたしたちの“文体づくりの国語教育”は、多くのデータの集積と整理による発達心理学の成果が示すところの、いわゆる学童期からいわゆる青年期を経て成人期に至る、“メルヘンの季節”“善玉・悪玉の季節”“ロビンソン・クルーソー・エイジ”“ことばによる人生設計の実験期”という精神発達のコースを、いわばノーマル・コースとして押え、児童・生徒の発達のひとつの――あくまでも、ひとつの――メルクマール(目じるし)とするのである。
 “メルヘン(童話)の季節”その他のこの
発達の区分については、文学教育研究者集団の共同研究『文学の教授過程』(明治図書刊)・『中学校の文学教材研究と授業過程』(同上)に掲載の拙稿についてご承知いただきたいが、ごく大まかな見通しを与えれば、次のようなことだ。すなわち、小学校低学年段階から中学年前期に至る発達のノーマルで比較的一般的な児童の精神の歩みは、@おとなの目からはファンタスティックな夢を追っていると見える、その“夢”が実は現実(アクチュアリティー・リアリティー)である“メルヘンの季節”、A「あの人、いい人? 悪い人?」式に類型的にではあるが、事物相互の関係において事物の把握・認知が可能になる“善玉・悪玉の季節”、Bひと通りの意味においてだが現実を現実として見きわめようとする傾向の芽生えと、そうした傾向と結びついた観念の世界のがらくた 集めの傾向、そして具体的思考と相貌的認知のわく 組みの中でではあるけれども、他人の気持や他人の立場をくぐれるだけの心的条件の成熟する“ロビンソン・クルーソー・エイジ”というコースを通過するのが、まず普通のようだ。
 さらに、中学校後期から高校段階へかけては、C観念への沈潜において現実を距離において見る、という青年期特有の“ことばによる人生設計の実験期”を経験するようになるわけだ。ところが、七〇年代初頭の現状・現況は、“実験”半ばにしてその実験を実践に移行することを青年たちに要求する。大きな不幸だといわなければならない。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.207-209〕
    

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