文学と教育 ミニ事典
  
発 想
 ○ 明治もまだ初期のことですが、バイブルの翻訳が行なわれました。それは、直接グリーク[ギリシャ語]からの翻訳ではなくて、英訳本からの重訳だったそうですが、意味のつかめない言葉が次から次とでてくるので手を焼いたというんですけれども、そういう言葉の一つに love という言葉があった。それは直訳すると、「神は人間をラヴする」というふうなセンテンスなのですが、このラヴの処理に困り果てた、というのです。辞書に拠って用例を調べてみると、「彼が彼女をラヴする」「彼女が彼を……」というわけです。そうかと思うと、「子どもが親をラヴ」したりというようなことでして、明治初期の日本人には、わかったようでわからない言葉だったのですね。
 そこで、ともかく、「男が女をラヴする」という、そこのところで理解するとなると、この言葉は「惚れる」という意味になる。男が女に惚れ、女が男に惚れるということだけじゃなしに、男が男に惚れるということだってある、というわけで、えいとばかり、「神は人間に惚れ給ふ」と訳しちゃっtんだそうです。(笑い)……どうも少しヘンだというので、活字にする間際に、多分苦しまぎれにでしょうね、日常語としては全然熟さない「愛」という漢語を持って来て、「神は人間を愛し給ふ」というふうに訂正して出版の運びになったというのですけれども、訳稿のままだったら今ごろは牧師さんが、「神様はあんたに惚れていらっしゃるんですぞ」というふうな説教を毎日曜日、教会ですることになって(笑い)……どうもおかしなことになったろう、と思うんです。
 説教がさまになる、ならないというようなことは別にしまして、ラヴという言葉が不可解だったというのは、ラヴというこの言葉に託されている観念やイメージ、その概念がつかみきれなかった、ということなのでしょう。つまり、異性間のあるエモーショナルな感情も、家族間の特殊なソリダリティー(連帯性)に基づく感情も、また友人同士のそのような感情も、根源を一つの人間的なものに発する感情として、それらをいわば根源における identity (同一性)において把握できるような社会的、人生的体験を人びとが欠いていた、ということが前提にあって、実感としてラヴの観念がつかみきれない――どうしてもそれが自分のイメージにならない、ということだったろうと思います。
 言い換えれば、それは単に言葉がわからないというより、その 言葉、その 文章 に託されている
発想がわからないからその 言葉が言葉の役をしない、ということなんだろうと思います。言葉は、本来、個々の事物にはりついてその事物の本質みたいなものを指し示している実体 (Substanz[ズブスタンツ]) といったものじゃなくて、自分の感じること、思うこと、考えていることなどを、その考えかたぐるみ、感じかたぐるみに託す もの、託した ものが言葉=文章というものなわけでしょう。端的に言えば、ある概念、ある発想を託したものが“辞書の外(そと)にある言葉”――つまり実際の文章なわけでしょう。(「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」と芥川竜之介が言った“辞書の外にある言葉”です。)
 ちょっと注をつけておきますが、〈発想〉というのは、「各人の認識過程における人それぞれの現実把握の発想」というのを簡略に言った言いかただ、とご承知ください。また、〈発想〉という語彙自体は、「行動の系に直結するような、アクチュアルでプロダクティヴなイメージに支えられた観念」つまりそういう意味での「イメージぐるみの観念」ということを言い表す言葉だ、とご承知ください。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.162-164〕


 ○ 作品鑑賞の目的は、――目的なんて言うと何か味気なくなってしまいますけど、かりに目的という言葉を使って言えばの話です、
鑑賞の目的は、鑑賞の対象になっている作品に頭を下げることじゃないでしょう。そこで話題になっている事柄をめぐって、相手の発想とこちらの発想をぶっつけ合って討論するというか話し合うこと、それが目的と言えば目的じゃないんですか。「これはバイブルに書いてあることだから絶対だ」式の、神棚に文学作品を祭ってパン、パーンと柏手を打ってそれに最敬礼する、という対文学的な姿勢は、どうも非文学的なんじゃないかと思うわけなんです。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.167〕


   

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