文学と教育 ミニ事典
  
言表の場面規定
 まともな総合読みの実現を目ざす指導にとって一貫して必要なことは、言表の場面規定をおさえて読むという、そういう習慣づけと構えをつくる指導である。中学後期から高校段階へかけては、むしろ、そうした構えを明確に自覚させる指導が必要になるのである。(…)
 この文章が、いったい、どこのだれが、どういう人に向けて、どういう目的で書いた文章なのか、ということがわかれば、それに越したことはないわけだ。筆者の言表の真の目的は文章そのものを終わりまで通して読むことで初めてわかる、というのはほんとうのことだが、わたしたちの言うのは、むしろ、それがほんとうにわかるための解き口 のことだ。解き口をつかむための言表の場面の理解・把握ということなのである。
 たとえば、この文章の題名がわかっただけでも、読みのある方向づけが得られるだろう。また、筆者がどういう人かということがわかり、発表紙(誌)が何々だということがわかっただけでも、おのずとある解き口が用意されてくるだろう、という、そういう意味での「どういう目的で書いた文章なのか」云々ということなのである。(中略)
 場合によっては、そこにもたらされた解き口が、かえって誤読・誤解のもと、というようなこともないわけではない。それにもかかわらず、わたしたちが、
言表の場面規定をおさえた解き口の用意ということを言うわけは、言葉というものの媒体としての限界、媒体としてのそれの性能の限界を思うからである。太宰治のいいぶんではないが、「所詮は言葉だ。」なのである。言表の場面規定をおさえてこそ、その言表は、その行動場面における行為・行動の代理としての機能・性能を発揮することも可能になるのである。〔1970年、文教研著『文学教育の構造化』p.30-31〕  

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