文学と教育 ミニ事典
  
言語形象/文学形象
 熊谷   言語形象ということで言うと、「目に見えるように」あるいは「耳から聞こえてくるように」言葉を加工することでイメージに形を与える、造型するという方向での形象的認識にかかわる事柄ですね。時間・空間的に不在なものを、言葉を媒介にして、そこにイメージとして在らしめるというか、形象(=造型されたイメージ)として顕在化するという形で描写が継時的に実現していくわけでしょう。〈言葉の概念的操作〉に対する〈言葉の形象的操作〉として言葉の加工がそこに行なわれることになるのですね。もっとも、その形象的操作というのが実は概念的操作を伴なって、またそれに支えられて初めて成り立つわけのものなのですけれども……。根源的には、観念とイメージとの支え合いの関係の問題ですね。そういう関係がべースにあって、概念と形象、概念的認識と形象的認識との支え合いの関係の問題ということになってくるのですね。
 編集部   言葉の加工ということをおっしゃったが、言葉を媒体とするということとシノニムですか?
 熊谷   むしろ、媒材ですかしら……。言葉を媒材・媒体としているには違いないけれども、その媒介のしかたの特殊性みたいなものを、いわば「目に見えるように」アクセントをつけて言ったつもりなんだけれども、かえって「目に見えにくく」なってしまったようですね。(笑い)……ぼくの言いかたが悪かったんです。加工と言えば、どんな言葉操作だって加工でないものはないわけなのですから……。ただ、なぜ、そういう言いかたをしたのかという自分の気持を説明させてもらいますとね、不在なものをイメージとして、形象として顕在化するという場合、殊にそれが言語形象によるところの文学形象のような場合になりますと、その不在なものというのが体験的事実としての現実とか、つまり記憶の作用によって呼びさまされる過去の体験といったものにとどまるんじゃなくて……それが過去の体験的現実だったとしても、かりにそうだとしても、それはつかみ直された過去ということなのですから体験的現実とは別個の現実――現実像なわけでしょう。記憶にたよっている面はむろんあるのだが、つかみ直しというそのはたらきは、思考に支えられたイマジネーションの働きでしょう。イマジネーションによる、現実の、意識への反映という形で実現する、別個の現実のイメージ、現実像なわけでしょう。
 ですから、それは初めからできあがっているものでも、でき合いのものでもないわけなんで、したがって、でき合いの紋切り型の言葉=文章ではどうにもそのイメージを託すことはできないわけ……。詩の言葉というのは、「飼いならされた言葉」から解放されて「野性の言葉を回復」するところに生まれるのだ、という意味のことをサルトルは言ってますが、これは何も詩語に限ったことではないのでして、野性の言葉の回復という形の、言葉の新しい加工が文学形象の造型において求められるわけなのでしょうね。そこに作家それぞれの個性のある文体、個性を持った描写文体も生まれてくる、ということでしょうね。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.75-77〕


    
〔関連項目〕



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