文学と教育 ミニ事典
  
第二信号系の理論
 第二信号系の理論を学習すると国語の授業にどう役立つのか、という問いにぶつかることしばしばだが、どう役立つか? と言われても、実は返事に困るのだ。条件反射学のこの理論が、筋の通った(筋を通した)形で日本に紹介されるようになってから、まだ日が浅い。(たとえば、『パブロフ選集』の最初の邦訳刊行は一九五五年であった。それが長いこと絶版になっていて、出版社を変えて再刊行されるようになったのが、確か六二年のことだ。)この理論に関する知識は、国語教師の場合も含めて日本の知識人一般の常識にはなりきっていないのである。
 早い話が、「条件反射」だの「信号」だのということばが話題の中に出れば、条件反射? ああ、わかってる、わかってる、ベルとイヌのよだれのあのことだろう、とくる。話のつぎ穂もなくなるではないか。
 数十年前に、ひどく中途はんぱな格好で「普及」してしまった条件反射の知識が、悪く作用しているのである。あえて言えば、興味本位な、薄っぺらな「知識」が悪く作用して、第二信号系の理論へのまっとうな理解と接近を妨げているのだ。* 問題を、こうした状況の面で切り取って言う限り、この理論が授業にどう役立つかもないのである。問題以前――多分、そう言っていいだろう。以上のことが一つ。
* (注、省略)
 第二に、この理論は理論そのものとしては、条件反射学説による大脳生理学の理論以外のものではない、という点に関してである。つまり、それは、伝え理論( communication theory )に組みこまれ、具体的に各人のメディア観 * ・言語観に媒介されるようになって、初めて、各自の国語教育の実践に指示と示唆を与えるものになる、という関係についてなのだが……。
 ことばを重ねるが、この理論の国語の授業への寄与は、第二信号系の理論→伝え理論への媒介→メディア観・言語観の変革→国語教育観の変革→授業の反省と方向指示、という、そのような径路、そのようなしかたにおける「寄与」にほかならないのである。
 端的に言って、各人のメディア観への媒介ということなしに、授業へのストレートなつながりや、直接的な寄与を云々することは、ほとんどまったくナンセンスに等しい。第二信号系の理論は、それがそのままの形で読解や鑑賞、鑑賞指導、あるいは作文指導などの方法論(方法理論)になりうる、という意味での言語、国語の教育理論ではないのだから。また、そのような意味での直接的な国語教育の理論ではなくて、もっと基礎的なというか原則的な理論であるからこそ、かえって国語教育ないし国語の授業のありかたに対して基本的な方向規制をたえず要求しうる立場にこの理論がある、ということにまなるのだから。(…)
* メディア観〜 「端的に言って、コミュニケーション・メディア( communication media 伝えの媒体 )についての、人それぞれの考えかたのことです。(中略)コミュニケーション・メディアとしての、“ことば”メディアや、視覚メディア、聴覚メディアなどについて、そのはたらきの性質(=機能的性質)をどう考えるか、その相互の関係や関連についてどう考えるか、というその考えかたのことです」云々。(拙著『言語観・文学観と国語教育』明治図書刊、45-46ページ。)
 第三に、上記のことに加えて、次のようなことがある。国語教育の原理論ならびに方法論に位置づけて考えられる第二信号系の理論というのは、そこで伝え理論に組み込まれた形のもの以外ではないわけだ。ところが、だ。伝え――コミュニケーションということを云々すること自体に、妙な勘ぐりと反発があるわけなのだ。
 妙な勘ぐり? ……切り口を替えて言えば、むしろ当然な疑惑だということにもなるわけなのだが、文学関係者にそれがある。また、進歩的な意識を持って国語教育なり文学教育の仕事を熱心にやっているような人々の間に、以外とそれが多いのである。
 つまり、こうだ。コミュニケーション? 電話のかけかただの、あいさつのしかただのという、あれのことか、というわけなのだ。コミュニケーションのいろんな場面に関して、How To を並べ立てた、もう先
(せん)のあの教科書には手を焼いた。こりごりだ。だいいち、言語や文学の本質的な問題が、コミュニケーションがどうのというようなことで片がつくと思っているのかね。いいかげんにしてくれ、といいうわけなのだ。
 そこには、戦後の一時期に行なわれた――実は今また、よそおいを新たにして左右両翼から再提出されつつある――言語道具説のあの薄っぺらなコミュニケーション論との混同・同一視があるわけなのだ。コミュニケーションといえば(それこそ反射的に)それは実用主義だろう、言語技術主義のあの How To のことだろう、ときめてかかる、(あえて言うが無知ゆえの)こうした先入見から自由にならない限り、第二信号系の理論の国語教育理論への全般的定着はまず不可能に近い、と言わなくてはならない。
 で、伝え理論としての第二信号系の理論が、先行する認識論や言語理論に対して、どのような役割をになって登場して来ているか、という点について一応当たりをつけておく必要がありそうだ。旧稿jをむし返して恐縮だが、当面の課題に触れて書いた部分を旧稿(『芸術とことば』牧書店・一九六三年刊)から引用しておくことにする。先刻ご熟知の言語技術主義の伝え理論の果たした(また果たしつつある)役割と対比して考えてみていただくために、である。
 
 ――認識活動もやはり、人間の営むさまざまな社会的反映活動の一種にほかならない、と考えるぼくの立場からは、芸術の認識機能の性質を問題にしてゆく過程において当然、第二信号系の理論との出会いを経験することになります。条件反射学のこの理論のある側面に媒介されることなしには言語と芸術の認識について、これ以上先へ考えを進めることは不可能に近いからです。ある側面? ……伝え理論としての側面であります。
 ――もっとも、原理的・原則的な意味での問題の構造的な理解は、 すでに弁証法的唯物論の成立の当初において行なわれていたわけです。すなわち、人間の反映活動の特徴は、その活動がナカマ体験に媒介され、ナカマたちという媒体に屈折した事物の反映であるという点に求められる、という理解のしかたにおいてであります。(…)このような構造的理解に立って、人々は当時すでに(中略)素朴実在論の、主体喪失のあの反映理論(認識論)から自分たちを区別していたわけです。しかし、この点に関して、それを生理学と心理学との裏打ちにおいて“伝え”の機能の面から示唆を投げかけたのは、おそらくこの伝え理論――伝え理論としての第二信号系の理論――が最初ではないか、と思われます。
 ――そこで、割り切った言いかたをすれば、第二信号系の理論による認識機能のこの機能的理解に裏打ちされて、弁証法的唯物論も、今や仮説の域を抜けだして、認識の構造的理解としての信憑性を自らのものとなし得た、ということ以外ではありません。(…)パブロフは語っています、「いろいろな論議、さまざまな冗舌の行なわれた、人間の思考の発生という問題を、われわれは理解し始めている」と。それは、ほかでもない、「脳皮質に形象と言語による思考の担い手である第一信号系と第二信号系がある、という注目すべき思想がわきあがる」ことによって実現した「理解」なのであります。
 〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.320-324〕

 
  

〔関連項目〕
第二信号系(ことば)

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