文学と教育 ミニ事典
  
〈文学史を教師の手に〉
 〈文学史を教師の手に〉ということを合い言葉に*、わたしたちは、近代主義的な〈絵解き〉の文学史からの芥川論の解放を、文学教育の場で実験的、実践的に一歩ずつ実現させたいと願っているわけである。(…)
 * 文学史を教師の手に、云々〜 文学教育研究者集団の一つの合い言葉である。ちなみに、集団の機関誌「文学と教育」一九七一年十一月号に、同集団常任委員会アピールという形で次のような記事が掲載されている。「私たちが求めているものは、文学がそこに息づくような指導過程論である。文学がそこに息づくということが絶対の条件である。そこで、私たちに必要とされるのは〈文学史を教師の手に〉という姿勢によるテェマと課題へのアプローチである。文学史を教師の手に――それは、文学史を、近代主義者(近代主義的文学史家・文芸評論家)たち――彼らは今や、体制内知識人の前衛である――の手から私たち教師の手に、という意味である。子どもや若者たちの未来に対して責任を負うところの、文学教育の実践的必要に敏感に反応できるような文学史を、私たち教師が協力してつくり出す努力をしよう、という意味である」云々。
 上記〈絵解きの文学史〉に対する、わたしたちの言う〈現代史としての文学史〉の方法は、いわば〈総合よみの発想に立つ文学史〉ということである。(…) 佐々木基一の語っていることが、たまたまわたしたちの方法意識に関する発想を、わたし自身の課題(芥川文学の成立に関する証言)とも重なり合う形で語ってくれている格好のものになっているので、賛意を込めて、そっくりそのまま引用しておく。
  日本には文学史でもそうだが、作家の全体を眺める場合に(その作家の)失敗した帰結だね、そこから遡ってみるという傾向があるのですね。一般に出発点からたどって、その作家が一歩一歩何を実現してきたかを見ないで、結論のほうから逆に見る。しかしそれは大体挫折したり、失敗したりしているものだから限界ばかり目につく、ということになるのだ。きょうの芥川論も大体終わりのほうから見たという感じがするが、しかし、これはもう一度芥川の登場した初期から正常にたどって行って、作家の苦労なり努力なりを評価してゆく、そういう実践的な観点も必要な気がする。そうすると、ずっと評価が違ってくるのではないか。
 つまり、佐々木の言うように、「初期から正常にたどって行って、作家の苦労なり努力なりを評価」するということ、言い換えれば「その作家が――この場合、芥川が――一歩一歩何を実現」させて行ったか、そこに創造された新しさは何であったかということを、「実践的」に探る必要があるわけなのだ。それを逆に、三十なん歳かで自殺したというところから、〈後向(うしろむ)きの予言者〉的な絵解き の解釈をやってみたり、近代 作家芥川竜之介を現代 に引きずり降ろして無い物ねだりをするのは、これは文学史ではない。
 たとえば、(…) 寺田[透]の場合に代表されるような芥川の「古さ」(前近代性)に対する批判だが、芥川は言っている、「ある作品の持っているある思想の哲学的価値は、必ずしもその作品の文芸的価値と同じものではありません。(中略)現に、ショーなどは、シェークスピアの思想を一笑に付しているようであります。が、さいわいにも、そのために詩人シェークスピアまでも一笑に付してはいないようであります」云々(「文芸講座『文芸一般論』」)、と。その辺のことが、寺田たちの場合、どうなっているのだろうか。
 芥川の思想のありようそのものに関して言うなら、その限界が目につかないようだったら、むしろその批評家は、現代の批評家として失格ということになるだろう。そのことに加えて、芥川の前近代性と言われているもののことだけれども、近代以前 なのか、それとも以外 なのか、もう一度問い直してみる必要のありそうな面もなくはない。第一、そこに進歩の規準みたいにして取り上げられている〈近代〉〈近代的〉というのが、いったいどういう〈近代〉をさしているのか、やはり問い直される必要がありはしないかと思う。
〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.214-216〕



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