文学と教育 ミニ事典
  
文学史
 ○ 文体の歴史、必ずしも文学の歴史ではないが、文学の歴史は文体の歴史である――というのが、文学史にアプローチし、リサーチする場合のわたしたちの基本的な発想・姿勢である。(…)
 ひとくちに「
文学史」と言っても、どういうものを文学史と考えているか、という点になると、そのつかみ方は人さまざまなようだ。ある人々にとっては、それはいまだに、ただの書誌的な年代史のことだし、またある人々にとっては、それは、ただの思想史のことである。一般の思想史とは少し毛色が変わっているというだけの、それは思想史にすぎない。あるいはまた、それは人間の美意識の変遷史にほかならない。
 わたしたちも実は、やはり、それを文体(=文体的発想)においてのみ人間的感動が保障され得た人間の現実認識の歴史、人間の生活史のことである、というつかみ方をしているわけなのだ。
文学史に展開する人間模様は、人間と人間の生きかたに対する大胆不逞(ふてい)な虚構が描く軌跡にほかならない。むしろ、人間生活の現実性と可能性へ向けてのイマジネイティヴな発想が描く曲線であろう。そのイマジネイティヴな発想を、それの軌跡としての曲線、あるいはアラベスクとして具体的に保障するものがその文体 である、ということをわたしたちは言っているわけなのである。
 
文学史とはそういうものだ――あるいは、そういうものとして以外は考えようがない――という把握に立って考えてみた場合、その 作品を文学史に位置づけて考えるということは、その作品の文章表現を、文体(=文体的発想)という一点において歴史社会的につかみとろうとすること以外ではない、ということになろう。
 歴史社会的につかむ云々……歴史社会的な場面規定においてつかむ、という意味である。作品のその文章を、それがまさに人間の行動の代理として用いられたその 行動場面に還元して、その文章そのものについて思索する、という意味である。言い換えれば、@作品の文章が媒介する、その 社会をある生きかたで生きたその 人間主体の現実把握の発想のしかたをつかみ、Aそうした発想法をつかみとることで、そうした発想において把握された現実の姿、現実の問題を、わたしたちが歴史のパースペクティヴ(遠近法)において主体的につかみなおす、という、そういうことなのである。
 
文学史とは、このようにして、準体験的 な、つまりは主体的なつかみなおし の作業にほかならない。相手の体験に同化して、相手のつかみかたをもう一度なぞる形でその対象をつかむ、という追体験の作業では断じてないのだ。だからして、準体験的 なそのようなつかみなおし を可能にするために、次のようなリサーチが必要になってくる。
 @その行動場面(生活場面)において実践する人間主体、実践する社会的人間集団がその 文章に託して訴え、その 文章を通して思索したものは何であったのか。Aその文章、その文章を通してでなければ実現できなかった彼らの対現実的な発想のしかたは、どのようなものであるのか。Bそのような歴史の個性としての発想、文体をそこにもたらした、まさに歴史社会的な必然性は何なのか etc.
 したがって、また、
文学史的な、作品のリサーチとは、その作品の文体・発想を、それに先行し、それと時期を同じくするもろもろの作品の文体・発想と対比し、またそれに続くもろもろの作品の文体・発想と対比しつつ、必然的、必至的なその作品の文体的個性を見きわめる、ということでもあるわけだ。(…)

 ともあれ、
文学史的な、作品へのアプローチとリサーチがそのようなものであるとすれば、文学教育はそれ自体は文学研究教育ではないけれども、少なくとも教師その人の文学史研究を前提とすることなしには、明確な文学教育意識を伴なった文学教育活動・実践は行なわれ得ない、ということになるだろう。端的に言って文学史――文学史研究――に媒介されることなしに、その 作品のその文体の個性――歴史的個性――はつかめるはずがないのである。また、その 作品を教材――手段・通路――として文体づくりを行なう、というようなことは、文学史的な認識――作品認識――抜きでは成り立つはずがないのである。〔1970年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.210-213〕



 ○ 〈芸術とは何か〉〈文学とは何か〉ということの〈何〉が――つまりは文学概念・芸術概念が、歴史の流れを貫ぬいて、ある共通性と普遍性を持った概念として用意されないことには、文学史を組もうにも組みようがないわけです。ランガーも言っていますね、「わたしたちが明晰な概念の用意を欠いたままで学問研究の仕事にとりかかると、わたしたちの持つもろもろの曖昧な概念が互いに折り合いのつかない形でぶつかり合う結果になる」という意味のことを――。また、「こういう状態では、論理的な分析を行なおうにも行ないようがない」とも言っておりますね。そこで、歴史的、普遍的な芸術概念・文学概念を組み上げる作業――これが文学史の方法意識を確実なものにする作業の第一着手だ、ということになるわけです。方法意識というのは、方法に対する方法論的な自覚のことなのですから。
 で、芸術史なり文学史を前提として、普遍性のある概念として芸術概念を組む、という目的にとってハッキリしていることは、その作品がどういう意識で作られたのか書かれたのか、という、制作意識のほうからだけアプローチしたのでは満足な答えは得られるはずがない、ということですね。そこに造られた建物なり庭園なり、またそこに書かれた文章なりが、受け手のイマジネーションをかき立て、感情ぐるみ、感情まるごとのあるショッキングなイメージ、つまりダイナミック・イメージを喚起するような形象的媒体になりえていたか、いるか、という、そういう切り口で考えないと、芸術史も文学史も初めから成り立たなくなる
(…)〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.179-180〕


    

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