文学と教育 ミニ事典
  
文学作品の教材化
 作品の表現が現実に保障するそのテーマは、作者の意図をこえている、ということなのです。それは、ときとして、「書いた結果わかってくる」ものだという以上に、「書いた当人にもつかみきれないものが残る」という文脈での、作者の意図をこえている、という関係なのであります。
 だからして、また、作品の主題
が“意図されたもの”と“意図をこえたもの”との構造関連において教師その人につかまれていなくては、文学に対して(同時に教室の子どもたちに対して)責任をとった
作品の教材化ということは不可能に近い、ということにもなるのであります。作品研究――教師の作品研究が文学教育活動の必然的前提条件である、というのは、そういうことなのです。
 
文学作品の教材化――それは、子どもたちの感情の素地のありように即してその感情をはぐくみ、その発達を促すうえに必要な作品を選択する作業です。その作品の選択は、その作品本来のテーマにおける選択でなければなりません。どの側面においてかその作品のテーマを生かすかたちの、発達に即して発達を促す目的による、あるテーマにしたがっての作品の選択――それが文学作品の教材化ということです。
 そのような作品の選択、
作品の教材化は、手がたく行なわれる必要があります。教師ひとりひとりの責任において、であります。教材があらかじめ教材という形においてそこにある のではない。その 作品に対して教材化を行なうのは個々の教師――教師その人以外ではない、ということが、そこに確認されなければなりません。教材は与えられるものではなくて、教師がつくる ものなのです。めいめいの教師は、めいめいに、これが自分の教材だ、というものを持つ必要がありましょう。
 自分の教材で自分の教育をやる、という姿勢を欠いては、文学教育が文学教育にならないのです。自分の教材でなくては、作業が作業にならない、という教育活動が文学教育です。もっとも、その自分の教材 は自他共有の教材であって、いっこう差しつかえないわけです。むしろ、そうであることのほうが望ましいわけです。要は、自分のものだ、といいきれるような仕方で、自身に、その作品をつかんでいるかどうか――なのであります。〔1965年、文教研著『文学の教授過程』p.43-44〕



 教材化
の論理? ……それを文学作品の教材化ということで言えば、子どもたちのあす のすぐれた文学体験への素地を、発達に即して発達を促すという形で実現するために、その発達を触発するような作品の選択 を行なう、ということである。教材化とは、まさにそのことなのであって、そのこと以外ではない。その、選択の基準 は、文体 である。文体のある文章ということである。
 文体のある文章で書かれているからこそ、それは文学作品なわけだが、しかし、この、文体のある文章ということが選択に基準になるということは、あながち文学作品の場合に限ったことではない。わたしのいわゆる描写文体と説明文体との双方にわたって、およそ一般の国語教材――読みの教材――の選択に基準は、文体を持った文章ということである。文体の有無というこの一点をはずした、いわゆる「内容」本意の教材選択からは、国語教材を社会か教材とどっちつかずのものにしてしまう危険な結果を導くのである。ここにいう「内容」――実は、素材・材料という意味での事がら のことにすぎない。
 社会科といわず、理科や算数(数学)や、さらには芸術教科や体育なども国語教育の作業を分担するわけなのだが、しかしそれらは国語で 事物や事物の意味をつかませるという面でその作業面を分担しているのでって、国語を つかむこと自体を教科活動の目的とはしていない。国語そのもの を教科教育活動の対象としているのは、国語科である。そこで、国語そのものとは何かといえば、それは、かなり多くに人々が――国語教師すらもが――そう考えがちのような、単に文法、単に語彙知識、というふうなことではない。むしろ、文体 ということである。
 具体的にいえば、どういう発想、どういう志向から、その 事がらのどういう面に目が向けられ、どういうことばの選択により、どのような移調 においてその発想が文章として生かされているか、ということを読み手(受け手)の発想と対比・対決させる形でつかむことである。つかませることである。読みの指導の面に関して言えば、そういう作業が国語そのもの を学習させる、ということなのである。だから、読みに関して国語教材の選択の基準は文体だ、文体のある文章だ、というのである。

 このようにして、文体に基準を求め、発達に即して発達を促すためにの媒体となる作品を選ぶ、ということは、作品本来のテーマを疎外することではなくて、テーマを生かすことである。どの側面においてか、生かすことである。言い換えれば、子どもたちの感情をそこにはぐくみ、その発達を促す上に必要な作品と子どもたちとの出会いを、そこに実現させることなのである。教師の果たす――果たすべき――役割は、作品と子どもたちとの間に分け入って、そのよき媒介者となることだろう。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.280-281〕
 
   

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