文学と教育 ミニ事典
  
〈文学の眼〉
思うに、文学教育の究極の目的は、たんに作品に書いてあることをわからせる、という意味での、文学をわからせる、ということではないでありましょう。それをわからせること自体は手段です。あくまでも手段です。文学の眼で自己内外の現実をみつめ、自他変革の姿勢で思考し行動を選びとれるような人間、人間像。それが文学教育において期待されている人間像だろう、と思います。多分、そういうことなのであって、作品をわからせるということは、、そういう目的を実現するための手段にほかならないでありましょう。
 けれど、どういう意味にもせよ、その 作品がわかり、また文学作品にしたしむことが習慣として身につくようにならなくては、
“文学の眼”は自分のものにはなりません。“文学の眼” (…)他者のなかに移調された自己を見、自己のなかに他者を感じる、という“眼”です。そこに異質なものを感じ、齟齬(そご)や反発や抵抗は感じながらも、しかもそういう他我(他者の自我)につながる自我の一面をそこに同時に見てとる、というふうなことです。どうも、うまくいえないのですが、感情体験(感情ぐるみの事物認知の体験)に与えられた、自己凝視の“眼”とでもいったらいいでしょうか。
 他我との違いが自覚されなければ、自我は意識されない。と同時に、他我との連帯性がつかめなくては自我は確立されないのです。個性――個性的な自我というのは、確立された、そのような自我を前提としています。文学体験は、すぐれて個性的な体験です。個性的な体験である文学体験、そして
文学の眼を子どもたちのものとするために、まず眼の目の前の文学作品をわからせることが、さし当たっての文学教育の任務だ、ということになるのであります。眼の前の作品? (…)つまり、教材 としての作品であります。〔1965年、文教研著『文学の教授過程』p.13〕


○文学教育の作業は、真実、文学精神の背骨を持った文学 作品を通してしかできない作業である(中略)。言い換えれば、真実、自分自身に文学を必要としているような教師によって、真実の文学作品を媒介として営まれる、文学体験をはぐくむ教育活動、それが文学教育だということなのである。そういう営みに媒介されてこそ、児童や生徒たちは、自分たちめいめいの気質に応じたしかたで
“文学の眼”を自分のものにしていけるようにもなるのである。
 “文学の眼”――それは、たとえば、ジャンヴァルジャンが他人のパンに手を出したという行動 だけをとり出して、「良い」とか「悪い」と判断する“道徳の眼”とは違う。飢えた、幼い弟や妹たちの姿がまぶた に浮かんだ時、ついもう手が出てしまっていたジャンの姿に、逆に“人間”を見つけ、むしろその行為 の持つ人間的な意味を考える、という、そのような“眼”のことである。そこでは、常に“人間”が問題なのであり、事件なら事件の全体的な場面規定における、その行為の意味が問題なのである。
 今日の道徳教育が語る「道徳」は、どうやら、あるとりきめ を前提としたルールのことにすぎないようだ。そのようなルールが矛盾を経験しないですむのは、ゲームにおいてだけである。文学は、むしろ、そのようなとりきめ とルールがつくり出す、もろもろの人間疎外と闘うのである。文学は何よりも人間の実人生のためのものだからである。文学教育が道徳教育とどう目的を異にし、どう次元を異にしているか、もはや説明の要はないかと思う。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.291-292〕
    

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