文学と教育 ミニ事典
  
文学教育
 ――文学教育とは、子どもたち、一般に若い世代のすでに身につけている文学体験や文学の眼、あるいはその素地を前提として、子どもたちの未来へ向けて、その文学の眼、その文学体験をはぐくむ教育活動である、というふうにわたしは考えます。つまり、文学教育というのは、一貫して、子どもたちの将来のための文学体験をはぐくむ教育、文学体験のための教育だ、とわたしは考えるわけです。
 私はまた
文学教育の役割を次のように考えております。戦前において生活綴り方教育の果たした役割を、戦後の今日の時点において発展的に受け継ぐものである、というふうに考えております。具体的に言うと、こういうことです。天皇制による人間疎外に対する抵抗教育が戦前の生活綴り方教育の運動だったと考えられますが、独占資本による今日の疎外状況に対する人間回復の教育は、その主軸の一つとして、文学体験をはぐくむ教育、すなわち文学教育を積極的に含み込まねばならないだろう、ということなのです。言い換えれば、自己の文体的発想においてものを考えることのできるような人間に若い世代をはぐくむ教育を、ということです。
 というわけは、独占資本による現在の教育疎外状況は、教育マス・コミをも含めて、各分野にわたる強大で強力なマス・コミ攻勢を媒介としつつ、その人間疎外の手が、人間の内部の最も奥深いところにまで及び、人間の全存在をゆさぶりつつあります。
 人間は、すぐれた意味において個性的な存在であるはずです。ところが、いまや個性のカケラすら見つけ得ないまでに人間の内部はバラバラに解体され、心身ともに独占資本への奉仕品として飼いならされ、画一化され、、規格品化されようとしています。子どもたちの場合といえども、例外ではありません。テストに強い子をつくることが教育の目標にされ、テストがあって教育がないみたいな現在の教育状況、現在の教育体制というものは、独占資本に奉仕する教育だと言われても仕方がありません。
 こうした状況のもとで必要とされるのが、個性的な自己の文体的発想と言えるようなものを持った文学の眼 です。他者の中に、自分の自我につながるものを見つける。また、自我の中に他人の自我、他我を見つける。そういう自他のつながり、人間相互の連帯を自己の主体において回復するという、そのような文学の眼 にほかなりません。
 ここにいうところの“文学の眼”は、“文学への眼”ではありません。文学作品を読む眼を直接意味してはおりません。そういうものがなければ文学の眼 は育たないだろうし、また、文学の眼 がなければ文学への眼 も実現しはしない、という弁証法的な関係がそこにはあるわけです。たいせつなことは、人間相互のつながり、連帯性です。自分と自分の周囲との連帯性に気づくことであります。気づかせることであります。「わたしが見ているのではない。わたしたち がみているのだ。」と若き日のマルクスは言いましたが、人間は複数にして単数、単数にして複数の存在だという――つまり第一次的には、存在が意識を決定するという――人間存在の根底、根本規定に気づかせないと、革命は自分たち前衛だけでやるんだ、大衆はオレたちについてくれがいいんだ式の、思い上がった人間をつくる「進歩的」なブンガク教育にも滑りかねません。たいせつなことは、民衆的人間相互の連帯を自覚することです。そういう自覚、自意識において真実の自分というものを見つける、自己の個性を確立する、そのような体験が、文学体験にほかなりません。
 そのような文体的発想に基づく文学体験にささえられた若い世代の主体は、必ずや、断ち切られた現在の国際的連帯性を自分自身の内側に回復し、自己内外の矛盾の実践的な解決をそこに実現していけるような、そのような人間に成長していくことでありましょう。国際的、民族的な自己の主体の形成ということです。
 このようにして、わたしの考える
文学教育は、読解指導の作業と過程的に重なり合うような面はあるとしても、しかし、それとはまったく別個の発想・構想による、まったく別個の次元の教育活動だ、ということになります。少なくとも、読解指導の一環としての詩教材や物語文の指導というのとは、全然、発想が違います。文学教育は、文学体験のための教育、文体づくりの教育だからです。
 というと、
文学教育は国語教育ではないのか、という疑問が(読解指導が国語教育だというふうに思い込まされている教育現場人の間からは)起こりうるわけですが、わたしは、“国語教育としての文学教育”ということを、つまり文学教育こそが国語教育の重要な教育側面だということを、十数年来主張し続けております。
 つまり、読解指導方式をで国語教育を、文学教育をという観念のほうが、ぶち壊されねばならない、というのが、わたしの考えかたです。いわゆる説明文だ何だというものの扱いかたが、今のようなありかたでいいのか、という疑問とつながりながら、物語文とか詩教材と称するものの扱いかたが、あれでいいのか、ということなんです。国語教育が民族の課題に奉仕する、ホンモノの母国語の教育となるためには、生涯、自分の文体、文体的発想というものを持てなくなるように子どもの人間をスポイルしている、今の読解指導とその指導の観念はぶち破らなくてはいけない、と考えるのです。〔1969年、熊谷孝著『文体づくりの国語教育』p.194-196〕
    

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