文学と教育 ミニ事典
  
文壇/文壇人/アマチュアリズム
 ○鴎外たちのことを当時の文壇の最も代表的な作家である、とする私たちの判断は改められなくてはなりません。私たちは間違っていたのです。取り違えていたのです。“文壇”ということと、“文学の世界”ということとを――。
 
文壇というのは、明治の戯作者たちや尾崎紅葉たちの硯友社の場合がすでにそうであったように、職業作家・評論家たちのギルド(同業者組合)であったわけです。文壇人というのは、このギルドの親方というか師匠というか、マイスターに対して師弟の礼をとり、それぞれに師弟・同門のよしみ を通じ合っているような人びとのことです。したがって、持ちつ持たれつの文壇ジャーナリズムが批評の対象として話題にするのは文壇人の作品であるか、文壇の潮流を意識して書かれたような作品がほとんどなわけです。アマチュアリズムの作品に対しては、そこで黙殺するか、黙殺し切れないような場合には、「見当違いに罵倒したり」というようなことにもなりかねません。文壇 作家森鴎外は、そこでまた、この『あそび』という作品の中で自分の心境を次のように述べております。(…)

 ――木村(=鴎外)はただ人がかまわずにおいてくれればいいと思う。見当違いに罵倒したりなんかせずにおいてくれればいい、と思うのである。そして少数の人がどこかで読んで、自分と同じような感じをしてくれるものがあったら、しあわせだ、と心のずっと奥の方で思っているのである、云々。

 はっきりさせておきたいと思うのは、皮肉なことに当時
文壇ジャーナリズムでもてはやされたような作品の中で一体どれだけのものが文学史の評価に堪えるものとしてそこにあったか、ということです。それと対蹠的に、漱石や鴎外たちのアマチュアリズムの作品が、〈文学創造の歴史としての文学史〉あるいは〈現代史としての文学史〉の上にどれほど大きな足跡をとどめ、したがってまたその後の、さらには今日および明日の民族文学の創造へ向けてどれほど強力な足場を用意してくれているか、というようなことをはっきり押さえておきたいと思います。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.105-106〕


 ○
アマチュアリズムは、そしてまた本来的にアマチュアリズムに根ざすところの、“あそび”の精神は決して本能的なものではありません。それは意識的な精神の行為なのです。むしろ、よりよい実践への志向(インテンション)以外のものではありません。
 “あそび”の精神が、精神の
アマチュアリズムからしか生まれ得ないというのは……いえ、これは蛇足でした。作りたいときに作る、つまり作りたいから作る、つまりまた作りたいものを作りたいように作る、というアマチュアリズムの精神と姿勢に前提されなくては、作るという行為自体が“あそび”として楽しめるものにならないのは自明のことだからです。〔1987年、熊谷孝著『増補版・太宰治――「右大臣実朝」試論』 p.109-110〕
   

〔関連項目〕
“あそび”/“あそび”の精神

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