文学と教育 ミニ事典
  
場面規定(を押さえる)
 そこで、提案があるのだ。(…)西鶴とは対照的に不幸な作家である芥川を、ひとつわたしたちの手で、わたしたちの言う意味での幸せな作家にする努力をしてみないか、という提案、呼びかけなのである。作品の外側からの〈絵解き〉をやめて、作品の内側から、言表の場面規定――作者・作品の文章・読者(作品本来の読者)の三者の相互規定によって成り立つ場面・場面規定――をきっちり押えて、作品の文章に定着している(あるいは定着することを求めている)その現実把握の発想を探る足場を、わたしたちが共同研究を組む中でつくり出そうではないか、という提案である。

 よもやそんな誤解はあるまい、あるまいけれど
――である。作品をその作品の内側から読むというのは、わたしたちがただその作品の文章とにらめっこ していればいい、ということではない。先刻、西鶴文学の場合について語ったように、〈読者へ向けて用意されている視座〉を明らかにするように場面規定を押えて読む、ということこそが、わたしの言いたいことである。この場合、〈読者〉というのは〈本来の読者〉のことである。であるからして、作品の内側から読むというのは、その作品本来の読者へ向けて用意されている視座を潜って、わたしたち読者がそれを読む、ということにほかならない。
 潜る? ……しかつめらしい言いかたをしたほうが、かえって通りがいいだろうか。〈媒介する〉ということである無媒介に読んだのでは、つまり作品の文章とただにらめっこ していたのでは、その文章に託されている〈発想〉はつかめない。したがってまた、文章が文章になりきらない。言い換えれば、その文章の言葉は、第二信号系としての生産的・実践的機能における生きた言葉
――文体刺激とはなりえないのである。まことに芥川その人が語っているように、「文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。」(『侏儒の言葉』)のである。

 話を具体的なものにするために、作品理解の実際の場合について引例しておこう。
 (…)『羅生門』現行流布本の結末の一文は、周知のように、「下人の行くえは、たれも知らない。」というのである。(表記は、春陽堂版『芥川竜之介全集』本のそれに拠る。)
――読解的な意味でのその文意は自明である。読んで字のごとし、というところだろう。だが、「下人の行くえは……」という、この固有の言表、固有のこの言葉の選択において語られているその 事柄、その 発想は何なのか、ということになると無媒介にはわからない、と言うほかないのである。この作品の表現にとって本来の読者のポジションあるいはシチュエーションにいない、わたしたちにとっては、「場面の媒介なしにはわからない」「本来の読者の視座を潜ることなしにはわからない」ということになるのである。
 早い話が、たとえば吉田精一(『芥川竜之介』/一九六一年)は、(芥川はこの作品で)「一番最後に『下人の行方は、誰も知らない』と言っているだけである。この人間に対する絶望感が、やがて後年の彼を自殺にみちびいたと見られないこともない。」というふうに、この結末の文に人間に対する芥川その人の絶望感が託されている、という判断を示している。
 ところで、小堀桂一郎(「芥川竜之介の出発」/一九六八年)の場合は、「『羅生門』は全文の最後が〈下人の行方は、誰も知らない〉という一節で締め括られていて、以て強者に転身したこの下人の未来を暗示することに大きな注意がはらわれている。」というような、吉田の場合とは異なる判断
――つまり異なる文意把握になっている。(…)
 一方、三好行雄(角川文庫『羅生門・鼻・芋粥』解説)になると、その判断のしかたは一転して次のような解釈 を導く。すなわち、「老婆のさかさまの白髪と、黒洞々たる夜と、ゆくえも知らず駆け去った下人と、この一幅の構図の中であばかれるのは限界状況に露呈する人間悪であり、いわば存在そのものの負わねばならぬ痛苦であった」云々。
 引用の限り、小堀の立論の前提はやや趣きを異にしている印象だが、三好の場合、また吉田の場合は、『羅生門』のこの言表が、ほかでもない芥川その人の人間自我の表白であり、彼の心的状況の表白
――しかもかなりストレートな表白である、というつかみかたのようである。たとえば、吉田の場合で言えば、(その叙述の順序は、おそらく論理のたどりかたの順序の逆を行っているのだと思われるが)後年のこの作家の自殺が「人間に対する絶望感」によるものだとする判断がまず初めにあって、そうした絶望感は、すでに何らかの形で彼が青年時代から持ち続けていたものに違いない、という、場面の押えかた――場面規定のしかた――によるもののようである。
 問題は、このようにして把握されている場面
――場面規定――というのが、作家その人の主体(人間自我)のありかたの側からの追求によるものである点はいいとして、それが実はこの作家のこの 作品制作の時点における主体であったとは必ずしも言いがたい、という点である。わたしたちが探り当てようとして躍起になっているのは、『羅生門』の創造主体 としての芥川なのであって、死を前にした芥川ではない。また、それがたとえこの作品を書いているのと同じ時期の芥川ではあっても、知人のだれかれに宛てて手紙を書いている芥川、あるいは手紙の中の芥川は、わたしたちの探り当てようとしている、『羅生門』の創造主体としての芥川とイコールではない。
 手紙と言えば、手紙の中の自作に対する自己評価や自作案内みたいなものにしても、同じことだろう。手紙は相手あってのコミュニケイションである。この 相手(受け手)に、この 時点で納得をかちえたいことというのが、そこに言表されることになる。話は同じことなのであって、かくかくの人びと(読者)と、かくかくのことについて今は心おきなく、心ゆくまで語り合いたい、というところに、普遍
――多くの読者に共軛する普遍――を求めての特殊 の描写、すなわち、具体的な個々の形象の造型(作品の制作)ということが行なわれるわけだろう。(この、普遍を求めて、というところが、手紙=私信の言表と作品の言表が違う点だ。)で、こうした形象造型の過程において聞こえてくる、読者の側からの声なき声が、作家の想念に何べんか変革をもたらしつつ、それがやがて作品として結実していく、というわけのものだろう。
 言い換えれば、作品を書くということは、読者・鑑賞者のそのような声なき声に耳を傾けつつ、そのような読者
――それは、いわば、作者の〈内なる読者〉である――へ向けて視座を用意しつつ書く、ということである。したがって、そこに設けられた〈読者の視座〉にこそ、ゆがみない作家の創造主体が反映されているはずなのである。なぜなら、作家の側から言って、自己と読者との唯一の伝え合い の通路となりうるものは、自分自身の手で用意したこの〈視座〉以外には求めえないからである。
 このようにして、作家論は、その 作品、また別のその 作品の創造主体であるその 作家について、その連続と非連続の展開が示す文学史的意義の評価を語るものにならなければならない。言い換えれば、従来の作家論・作品論において忘れられていた読者(本来の読者・内なる読者)の失権を回復するものにならなければならない。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.204-208〕



〔関連項目〕


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