『文学と教育 ニュース版』 bS (1978.3.25)
  
     
    〈文教研・冬の合宿研究会〉

   ジャンル論をふまえて『かるさん屋敷』を検討     高田正夫
 
     
    国立音大での講演が最初であったろうか。そのレジュメに「点と線」という項目があり、お話を伺う前は、誰しもが松本清張原作のベストセラーを連想したものだった。その時熊谷氏はジャンル論の一環として、小説における短編と長編の問題を提起し、短編とは呼びかけ∞訴え≠フ要素が強く、長編は点の提示ではなしに、可能な限りでの線そのものの提示だ、とのことを述べられた。「点と線」、それは詩、短編と長編小説との連続と非連続を説明する奇抜で、そして的確な、氏特有の比喩だったのである。
 その後、機関誌102号ジャンル論をふまえ、太宰の長編「津軽」をとりあげ、そしていよいよ冬合宿では井伏の長編「かるさん屋敷」「安土セミナリオ」を検討するに至った。今回の合宿の目玉≠ヘ、各自読み通した時にどこが感動点として残ったか、とのメモを提出しておくことだった。合宿前での印象を証拠≠烽オくは人質≠ニして司会者グループに握られ、その後の変革ぶりを否応なしに痛感させられるという厳しさもあったが、くり返し読み、ストーリーや人物関係図等を作成した上での参加ゆえ、従来の立ちどまり方式にはないダイナミックな読みが展開した。
 その合宿での劈頭、機関誌103号の「長編小説とは何か」(熊谷、夏目対談)の抜き刷りを読み合ったパートは、この作品に入る前の構え、読みの方法にかかわる重要な役割を果たした。最近の文壇でまかり通っている必然性なしの長編、それとの比較としての井伏作品。それは量を必要とする発想の有無ないしその性格が問題となってくる。つまり言語量の必要性は線≠ニいう発想が要求するもので、本物ニセ物との違いはここで明確になる。
 そこで長編小説としての必要性という課題意識をかかえながら「かるさん屋敷・安土セミナリオ」に即して見ていくことになった。当日熊谷氏はチューターの立場から、この作品の前提条件としてレジュメを準備された。そこでは、 一、作品構成 二、主題的発想が要求する長編小説的必然性 三、作品の筋が示す時間帯と言語量の配分、について触れられ、読みの方向性を定める絶好の指針となった。構成に関しては「史実を自明の前提としつつ、治郎作と信長に主役と狂言回しの役を交互に演じさせながら、多様な人間の相互関係を探る」という指摘で、一同目から鱗が落ちた思いがしたものだ。又、「人間として面白味のある人間の生きざま、その一貫性」を二人に見いだし、自分の生き方に「定着性を見せて来ている成人の」人間という視点から「さざなみ軍記」との比較も話題となった。治郎作、信長のつきぬ魅力に憑かれつつ読み進めると、「対極的な人物」やその「生きざまを異にする、さまざまな人間の多様な相互関係」もおのずからそこに見えてきて、長編の醍醐味を感じさせる。
 作品の読みの総括は他に譲るとして、今、確かめておくことは、こういう短編、長編という小説ジャンルを明らかにすることが、文学教育に必要欠くべからざる意識だということ。なぜならそれに対応した読みの方法が要求されるからだ。機関誌102号を再読されたし。  
 
   
 
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