『文学と教育 ニュース版』 bS (1978.3.25)
  
   典型の認識   熊谷 孝  
     
    先年の町田市・市民大学講座における熊谷氏の講演の記録の中から、春の合宿研究会での氏の報告のテーマに直接関係するかと思われるような部分を、アトランダムに拾ってみた。当日の討論の資料にしていただければ倖せである。 (ニュース編集部)  
     
   言語形象による文学の表現、文学のコミュニケーションというものは一般を対象とした訴え、呼びかけといったものではありません。文学は一般性(ジェネラリティー)に属してはおりません。ジェネラル(一般的)ではなくて、かつまた単にスペシャル(特殊性)なものでもなく、プシコ・イデオロギーというか生活感覚というか、実人生をどう生きるかという発想の面で通じ合えるものを持つ相手に対しては何らか訴えるものがあるという、そういうユニヴァーサル(普遍的)なもの、普遍性(ユニヴァーサリティー)をもつのが文学というものだと思うのです。

 ……てっとり早くいいますと、休憩前にお話した『朽助のいる谷間』の表現について思ってみてください。日本のいたる所で朽助は泣いている、と私はそう申しました。さっきは言葉が足りませんでした。その複数の朽助は、この 朽助みたいにみんな泣き寝入り しているのです。ある意味では駄々っ子みたいに、がむしゃらに相手に噛みつくこの朽助さえもが結局は泣き寝入りに終わったように、みんな泣き寝入りというのが庶民大衆にとっての 普遍的な現実なのですね。
 それがごく稀れにしか起こらないようなことでしたらまだしも、いわば日常茶飯事としてそういうことが行なわれているというのであれば……文学は、とりわけ小説は単なる特殊に対象を見つけるのではなくて、実人生にかかわる、そのような普遍的な問題を対象化して捉えようとするのですね。言語形象によるイメジャリな対象化・客観化、と言ったらいいでしょうか。
 少しく図式的な言い方をしますと、最も普遍的な性質を具えた個を、その普遍の中に探り求めて描写という表現手段によって形象的造型を行なう、ということにもなりましょうか。
 文学的発想というのは、第一義的には、この最も普遍的な性質を持った個が何でありどれなのかを、形象の眼で見きわめる、という発想のことです。こうした最も普遍的な性質を内包している個のことを、典型と、そう呼ぶわけなのですが、この場合、井伏の見つけた典型はしぐれ谷 の朽助であって、他のもろもろの朽助ではなかったわけです。休憩前に申し上げた、その内側に虚構された 朽助であるということを前提にしまして、朽助の人間とその生活場面に典型を見つけたという点に、井伏文学の固有の発想がある、と言えるわけなのであります。
 ある朽助≠ヘ迎合的な性情の持ちぬしであり、また、ある朽助≠ヘ、かなりこすっからいところのあるヤツです。ところで、しぐれ谷 のわが朽助には、みじんもずるいところはない。迎合的とか何とかいうのとは、およそ正反対の生一本な、一見 生まれっ放しに見えるぐらいに子どもっぽいところのある、八十近い老人です。
 今のこのせち辛い世の中にこんな人間が実在するだろうか? いや、実在しうるだろうか? という私たちの疑問に答えて、それ、ここに、こうして生活を営んでいるよ、ちゃんと実在してるよと、一つ一つ状況証拠をあげて証言しているのが、ナレーターである作中の「私」です。
 この「私」には、朽助のことに関して虚偽の申し立てをする必要は、自分の利害関係や心情からして全くありません。それに彼が示している状況証拠は逐一、彼自身が狂言回しとして朽助と行動を共にしての、いわばこの目で見た事実なのです。信憑度は高い、と言わなくてはなりません。
 作者が作品の中に顔を出して、自分がコメンテーターを買って出るというのじゃなくて、狂言回しでもあるナレーターの発言をそれとして書きとめて行くという発想、これが昭和四年のこの時期に井伏さんが見つけた真新しい発想だったんじゃないか、と思います。内面に虚構された朽助の形象的対象化という、先刻お話した発想と併せて、そう考えるわけです。
 
   
 
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