『文学と教育 ニュース版』 bQ (1976.7.10)
  
   研究例会レポート “主体性論争をめぐって”  芝崎文仁  
     
   四月例会で『唯物史観と主体性』(雑誌「世界」二十三年二月 26)をとりあげた。これは、清水幾多郎・松村一人・林健太郎・古在由重・丸山真男・真下真一・宮城音弥の七氏による座談会の記録で、その後、現代日本思想史体系34『近代主義』と『戦後文学論争史 上』に転載されている。
 この座談会は「世界」前月号にのった「ユネスコにおけるフロイトとマルクス」(マーシャル)という論文を批評しながら、そこに出されている問題に、自由に意見を述べるという形で、当時盛んに論じられていた主体性問題を中心に論じたものである。主体性論争は、敗戦後の民主化が、二・一スト以降、その方向に変化が生まれる中で、マルクス主義に対する批判としてなされてきたものである。
 この座談会の出席者は、古在の四六歳を最年長に、丸山の三四歳を最年少とする四〇歳前後の人たちであり、その後、それぞれの部門において、あるリーダーシップをとった人たちである。したがって、ここで未解決のまま出された問題は、現在にまで引きつづき論じられているわけである。私たちの研究会では、したがって、現在論じられている各種の論調を源にさかのぼって考えようとしたのである。
 さて、この座談会は、清水によるマーシャル論文の論点整理から出発している。それをうんとつめていけば、次のようになる。マーシャル論文では、マルクス対フロイトというとらえ方をしており、マルクス主義は経済的決定論であり、これでは戦争の問題などは解決しない。フロイトのいうように闘争欲など、人間の感情の根底にあるものを見なくてはならない。したがって、心理的問題を重視して教育努力によって闘争欲をなくさなくてはならない。マルクス主義は階級闘争を認めているので、結局闘争を合理化し正当化するので危険である、と。
 このあと、直接マーシャル論文にふれることなく、社会の経済的構造が他の一切を決定するという、唯物史観の考え方に対して、修正もしくは補足する二つの仕方、――
@人間における社会的・経済的・歴史的な決定し尽くされない何かを主体性という言葉であらわしている。(丸山)
A生物学的・自然科学的立場から、何か超社会的・超階級的なものをもちだしてくる。(宮城)
――があるという林の整理から話が始まっていく。そして、Aについての批判として、「結局それは客観主義に堕して、主体性の問題はでてこない。哲学の領域外のことであるので、哲学の問題としては、実践の問題を考えるべきだ」という真下意見Bが出されてくる。
 Aの宮城は次のように主張している。マルクスとフロイトの違いについて言えば、マルクスの方法は客観的な方法であり、フロイトの方法は了解心理学の方法で、現在の複雑な心理を問題にする場合は、これをとり入れなければならない。丸山・真下のいう主体性も、その能動性は認めるが、それも客観的科学的に処理できるものだ。実践とは単なる「行動」と解釈する。科学の方法は道具のようなものであるとして、マルクス主義の方法論の道具観を述べている。
 これに対して、Bの真下は、Aを批判して、弁証法的唯物論はすぐれた方法論であり、その方法と世界観は切りはなせない一本のものである。主体性の一番ラディカルな規定は階級的党派性である。そして、主観・客観の間の認識、主体・客体の間の実践という交渉が物質的客観的基礎の上に行なわれるという、媒介の論理を述べている。
 丸山は、@の立場から、「主体性は階級的党派性である」というBに対して、存在の規定という点で、普通一般の物質的社会的存在規定とかわらなく、主体の問題はかたずかないとし、「価値意識」をもち出してくる。単に不満があるだけでは社会変革はなされない。価値とは、本当の意志すべき歴史的な使命という使命感で、それは理想といってもよいとする。それは人間を人間たらしめている精神的なもの、単なる動物的生存や生理的生存から区別された人間らしさを人間性という、と言っている。
 こうして、最後に、宮城は「マルクス・アンド・フロイト」と言い、丸山は「マルクス・アンド・フロイト・アンド・エトス」と言う。真下は、主体性の問題は、心理学の問題ではなく、哲学の問題である、と指摘してこの座談会は終わっている。
 研究会では、はじめに熊谷先生にコメントいただき、「世界観と科学」ということをおさえてから検討をはじめた。
 科学とは、自己の現実観をまともな現実観にしていくための方法。遠近法によって、世界観を補いながら、まともな世界像にいたる方法である。弁証法からいえば、ある世界観にはある方法が伴っており、ある方法にはある世界観が伴っている。その世界観とは事物観のことであり、それぞれの主観をもった主体に属することで、世界はそれぞれの主観に反映する。したがって、具体的には世界観は、言語に対しては言語観、文学に対しては文学観などと現われてくる。
 こうした立場からみていくと、座談会の制約上、真下発言に不十分さはあるけれども、これを肯定する方向で、宮城のフロイト的、プラグマティズム的な主張を批判し、また、丸山のエトスとか人間らしさをもちこんでくる観念論を批判した。
 そして、世界観と方法、主体性と実践などについて討論を深めた。また、このような概念を、私たちが唯物論の立場において実在のあり方に即して発展させていくことの意義が語られ、そこであらためて、文教研の文体論・準体験理論・世代論が画期的なものであることが確認された。
 (横浜市立篠崎中学校)
 
   
 
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