『文学と教育 ニュース版』 bQ (1976.7.10)
  
     
    「文体づくりの国語教育」 熊谷孝氏の講演、私なりの要約      沼田朱実  
     
    去る五月一日、六十余名の参加者をむかえて鎌倉国語の会の主催で、熊谷孝氏の講演会がありました。当日配られたレジュメは、(一)国語教育の課題、(二)文体と文体論と、(三)文学教育による文体づくり、という三つの大項目から成り、それはさらに各五つの小項目において切り込まれています。多面的に深くえぐったこの講演の総タイトルは「文体づくりの国語教育」でした。

    国語教育の課題
 公教育は、各教科の分業によって営まれているが、それは本来協業を目的とし、協業によって成立するべきものである。それでは、公教育のめざす大目的は何か。――子どもたちの未来へむけての全面発達のための教育・人間づくり、である。かつ、人間としておもしろ味のある人間に、である。いわゆる「いい子」や「優等生」をつくるのでなく、欠点はたくさんあっても、どこか一点、この人でなくちゃというものがあるような人間をつくる。そのための一つの活動として国語教育がある。
 国語教育は、ことばづくり=母国語づくりの教育活動である。それは、文体づくりの国語教育活動ということである。文法教育も音韻教育も協業として母国語教育をささえるものとして構成されねばならない。
 ことばは本来、動的なもの・動態においてあるものである。文法教育は、生きたことば操作ができるために一度静態にかえすことにおいて、日本語固有の文法組織の根本を教える役割をもつ。ことばを静態において把握する文法教育や音韻指導は、ことばをあとで生かす(動態にかえす)ためにあるのである。冷蔵庫をおもってみてほしい。あれは入れるのが目的ではないもので、あとで食べる(生かす)ためのものである。その目的を忘れたとき、冷蔵庫主義(分業主義)におちいる。
 ことばは、無きもの・不在のものをあらしめるという働きをもつものである。これは他の生き物にはない人間固有の働きであり、人間の人間らしさである。思考・想像という無きものをあらしめるという働きは、言語所有者にして始めて可能なのである。
 母国語(第二信号系としての言語)の獲得は、人間が人間になるための基礎条件である。「フランス人は、フランス語を語ることによって、フランス人となる」とK.Vosslenが語ったように、日本人は母国語を身につけること――ことばを自由に操作できること・ことばを意識しないで美しい(正確な)ことば操作ができること――なしには日本人にならない。国語教育の目的は母国語づくりである。それは、すぐれた教材の選択と指導において実践される文学教育による文体づくりである。
 「今までの国語教育は文学教育的でありすぎた」というような説が諸氏によって提唱されている。文学の文章ばかりが文章ではない、説明文はむつかしいのでこれにもっと時間をかけろ、という趣旨である。これは、根本的なまちがいである。説明文体(説明という発想による文体)のどこが(何が)難解なのか。ドメニコ・ラガナ氏があるエッセイで、「論文(説明文)を書くのはやさしい。だが、書けないし読めないのは、やさしい日本語です」というようなことを語っていたが、説明文体の文章は、本来、平易なものである。簡単に言って、「何々である」と「何々でない」という文章なのではないのか。その限りことば自体としては誰もがわかり得る。説明文のむつかしいのは、その発想である。その発想によってつかまれた概念の中味である。これはもはや国語科の任務ではない。専門教科で教える問題である。
 「鑑賞上の盲人とは、赤人・人麻呂の長歌を読むことと、銀行や会社の定款を読むのと選ぶところのない人のことであります」(芥川龍之介)――。むつかしいのは、描写文体の文章である。また、ラガナ氏の言う「やさしい日本語」である。「やさしい日本語」には微妙なニュアンス、微妙な使いわけがある。その細やかさをもたない人間「鑑賞上の盲人」に、子どもたちをしてはならない。

    文体と文体論と
 ことば指導とは、文体づくりのことであった。文体概念の原点は、人間の認識過程(思考と想像)における現実把握の発想という切り口から見られた文章のあり方、である。どういう発想が要求した文章なのか、あるいはどういう発想がこの文章から見えてくるか、というように文章はその発想との関係において、発想ぐるみに考えられなければいけない。ことば指導は、そのように動態において文章のあり方が考えられる文体指導のことであり、それは子どもたち各人の発想を鍛えるということである。
 発想とは、具体的行動場面における思想の表情である。思想は、実感の体系――システムとしてまとまりをもち、持続性をもった実感のことである。思想のあらわれかたは一つではなく、場面・条件によって多様な形をとる。ことば・文章は、発想の子どもである。それゆえに一人の作家でもいくつかのスタイルを使いわけることができるのである。文体の検討・把握は、その語り口が決め手となる。
 多くの文体論者は、「文は人なり」の発想にたっている。Le style est l'homme même. これは十八世紀の人種論学者G.Buffonのことばだが、その意味は「人種によって生活様式がちがう」という人種論的見解である。それが高山樗牛によって、「文は人なり」と訳され、この誤解が日本の文体論の本拠として位置してしまっている。そこで、この発想に立つ文体論の目的は、その文章を書いた人の性格や人格や個性をつかむこと、そしてそれに同化することにある。理解するとは、主体をなくして作者と同じ気持になること、作者になりきる(同化する)という生哲学の追体験理論の発想である。例えば、太宰治=ナルシシストという図式が現在太宰論の結論となっているのも、主体抜きの追体験主義によるものである。
 私たちは文章を読むとき、作者をつかむために読むのではない。その文章のあり方から発想自体をつかむために読むのである。相手の体験を自己に媒介することで自己を生かしていく、という準体験を通してたえず自己の主体をより主体的に、より人間的に変革していくのである。国語教育は準体験によって、生徒自身の発想の変革・文体の変革をめざす文体づくりの教育である。

 熊谷氏は、この他に『羅生門』についても興味深いお話をされましたが割愛します。
 (練馬高等保育学院)
 
   
 
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