『文学と教育 ニュース版』 bP (1975.12.6)
  
    「大人の読書と子どもの読書」「言語と文化」――熊谷孝氏の二つの講演を聞く      井筒 満  
     
    10月28日と11月3日、二つの講演が熊谷氏によって行われた。前者は、多聞小PTA主催、演題=「大人の読書と子どもの読書」、会場=多聞小学校。後者は、国立音大芸術祭実行委員会主催、演題=「言語と文化」、会場=国立音楽大学。この二つの講演は、私たちの文学観・国語教育観を見なおす上の重要な指摘であると思われるので、井筒氏に纏めてもらった。(編)

    躾としての読書
 「大人の読書と子どもの読書」の内容紹介から始めることにしよう。この講演では、概括的に言って、<躾としての読書>という視点から、家庭教育の意義・個人と集団・今日求められているモラリティ等の問題が論じられたように思う。熊谷氏はまず、芥川の『河童』を例にとって、河童の子供とちがって人間の子供は、選択の余地が与えられずに生まれてくる存在であり、したがって親は、その子供に対して全責任を負わねばならぬ立場にあることから、話を始められた。全責任を負うとはこの場合、子どもを生みっぱなしにしないこと、逆に言えば、生まれっぱなしのただの動物でない、人間の名に値する存在に子供をはぐくんでいくことで、そのために家庭教育の果すべき役割は大きい。氏によれば、家庭教育はけっして孤立した営みになってはならないのである。親は子供の或る側面を知っているが、学校での子供の顔は知らない。それを知っているのは、教師でありまた子供の友人たちである。親は、教師や子供の友人たちに学び、集団の中に生きる存在として子供をはぐくんでいくことが必要である。したがって、マイホーム主義的な観点からでは、親は子供を真にはぐくむことはできない。子供のほんとうの幸せを願うなら、また戦争に人間を駆りたてていく現実をもたらさないためにも、わが子を育てる営みは、子供の世代をはぐくむこととのつながりの中で行われる必要があろう。
 熊谷氏はこのような前提にもとづいて、子供の「躾」の必要を強調した。躾とは、氏によれば、子供が人間になるための訓練・手つづきである。そしてその躾の中で大きな比重を占めるのが読書であり、だから家庭教育においても、読むべき時期に読むべき作品を、読む躾を意識的に行うことが要求されるのである。
 さらに氏は、この躾の中味について、芥川の『明日の道徳』を引きながら、それが、封建道徳とは無縁のもので、芥川の言う、「個の確立」の上に立った「共存主義」を一人一人の子供が身につける、そのための躾であることを明確にした。言いかえれば、太宰治の言う「己を愛するがごとく隣人を愛する」「誠実な人間」に子供をはぐくむ教育である。誤解がないように付け加えれば、隣人 とはけっして他者一般ではない。祖国を売り人類を滅亡に追い込む者たちは断じて隣人 ではない。したがって「隣人を愛する」とは、自分という個をまっとうな仕方で愛すること、つまり、個の確立を通じて、他者あるいは自己の内部に真の隣人 を発見し、自己の隣人 を真に大切にすると同時に、自己の敵に対しては厳しい抵抗の姿勢をもちつづけていく、ということなのである。そして、このような発想に基づくモラルの創造・集団のあり方こそが、今日特に求められているものなのである。
 氏はまた、安田武の紹介している、ベルツの「日本のよい家庭の一挙一動ほど見ていて美しいものはない」ということばにふれて、そのようなよき躾の伝統を、上述のような発想に基づいて再創造していく必要を力説した。最後に氏は、新しい人間関係を創造する中軸として、私たちの日常生活の中に生きている母国語を、真に美しく操作し得る人間を育てること、そこにこそ読書と国語教育の意義がある、と結んだ。

    言語魔術と主体性回復の言語
 「言語と文化」の講演内容にうつろう。この講演のテーマは、人間の手から自由をもぎとる文化剥奪者の役割を、言葉という切り口から明らかにし、それ自体文化であり文化全般の深化発展をささえるメディアとしての言葉を民衆の側にとりもどし、そのような本来の機能を言葉に回復する方向をさぐるという点にあった。またその問題は、文学は人間にとって何であるのかという問いかけと一体のものとして論及されていたと思う。言語魔術・科学的芸術的な粉飾を凝らした現代の呪文、それを操る現代の魔術師の文化剥奪者としての正体――そこには氏の鋭い批評があった。
 熊谷氏は、まず、人間と言葉との関係が、科学の言葉と、<大人のお伽噺としての文学の言葉>との双方から、どのように語られるかを考えてみるところから話を始めた。科学の言葉でいえば、人間は様々の動物の中で高次の条件反射としての第二信号系を身につけ得た唯一の存在である。文学の言葉でいえば、人間は言葉を失わなかった唯一の存在である。昔は、自然や動物たちも人間と話ができた――氏はキンダーメルヘンの世界を例にとりながら話を進めた。なぜそうだったのかというと、人間と人間、人間と自然とが対等な関係にあったからである。対話はお互いの対等な関係なしには成立しない。ところが、自然や動物が搾取の対象となった時、それらは言葉を失った。また、そうなった時、人間の言葉は対話のためのものではなく、命令と服従の手段となり、その性格を変えてしまった。氏は、太宰の随想『心の王者』を例にとりながら、太宰がシラーの詩に拠って語った「地球の分配」(つまり階級社会の成立)こそが、対話を奪いまた言語魔術を生み出すその根源であることを指摘する。では、このような言語魔術は具体的にどのような形をとって私たちの前に現われてくるのだろうか?
 氏によれば、階級社会の言語は、@飼いならす言語、A自分で自分を思いこませる言語、B主体回復の言語、の三つに分類される。@を説明する事例として、氏は「乃木日記」についての加藤周一の指摘をとりあげる。乃木将軍は過去の日本において軍人精神の鏡として讃えられ、その封建的精神主義こそが日露戦争を勝利に導いたと宣伝された。だが実は、軍部は乃木の精神主義では近代戦を戦えないことを知っており、実際の指揮は児玉源太郎に任せ、しかもその事実を隠蔽して乃木を神格化したのである、と。民衆を飼いならす言語魔術の典型をここに見ることができる。
 さらに氏は、芥川の『竜』をとりあげて、特にAの場合を中心に、言語魔術からの解放をめざす民衆の自己省察の問題に言及した。僧恵印がいたずらのつもりで立てた、「三月三日にこの池より竜昇らんずる」という立札が、噂となり、まことしやかな説明まで付け加えられ次第に真実だと思い込まれていく。恵印の同僚である恵門は証拠 を示さなければ納得しない実証主義者だが、立札が立っているという事実 を示されるとあっさり信じてしまう。(前提を吟味しない実証主義の脆弱さとして氏は語った。)このようにして、最後には恵印さえもが竜の昇天を「目撃」してしまう。このように、支配者だけでなく、被害者であるはずの民衆が、言語魔術の使い手になり得る階級社会の中で、どう民衆の主体を回復するか、それが『竜』のテーマである、と。
 Bの主体回復の言語について、氏はそれを、対話の世界の回復をめざすものとして位置づけ、その中軸に、大人のお伽話としての文学をおく。氏は、太宰の『玩具』をとりあげ、文学は、「私」が「玩具」に語りかけるとともに、「玩具」が「私」に語りかける、そのような世界を私たちの中に回復しようとする営みである、とする。言いかえれば、形象の目で自然と人間との、また人間と人間との関係をみつめ、そこに対話を回復する営みであり、またその営みこそが文学的抵抗なのである。また氏は、公害に汚された海、その海の発する怒りの声に耳を傾けられる人間はけっして公害を助長する者に手を貸すことはできない、と語った。私たちは、科学的認識とともに、海をこのような形象の目で主体的真実においてとらえる文学的認識を要するのである。
 氏は、このような文学の認識構造にかかわる問題として、「声なき対象の声に耳をすます」という井伏の発想や、死者との対話を追求する大岡昇平の発想をみつめなおすことを提起した。そして、この講演全体が、文学における唯物論・リアリズムとは何かの鋭い解明であった。 
 (法政大生)
 
   
 
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