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文教研秋季集会〔呼びかけ〕 (プログラム前文集) |
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1994.11.13 川崎・武蔵小杉 中小企業婦人会館
“読み”の楽しさ・むずかしさ――母国語文化との出会い <1.特別報告:『おじさんのかさ』(佐野洋子作・絵)をめぐって/2.戦後の井伏文学の展望/ 3.ゼミナール: 井伏鱒二『かきつばた』の印象の追跡>) |
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(前年と同文) |
1999.11.14 東京・世田谷 梅丘パークホール
政治と文学――なぜ、いまケストナーか <1.基調提案:なぜ、いま、ケストナーか/2.ゼミナール:ケストナー『点子ちゃんとアントン』の印象の追跡> |
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すぐれた文学は、読み返すたびに新しい発見があります。エーリッヒ・ケストナー(1899~1975)の文学も、読み返すたびに、新たな視点から自己凝視を迫り、思索を促します。ケストナーの文学は、読者をとりこにするようです。私たちは、昨年の秋季集会で『飛ぶ教室』(1933年刊)をとりあげました。今年8月の全国集会でも『飛ぶ教室』の印象の追跡をおこないまいた。それでもなお、考えてみたい課題がいくつも残され、さらに追跡することを確認しあっています。しかし、その課題には、ケストナーの他作品との対比、あるいは、ケストナー文学の全体像のなかでしか明らかにならない性質のものもあります。そこで、今年の秋季集会は『点子ちゃんとアントン』(1931年刊)をとりあげることにしました。 |
2000.11.5 東京・世田谷 梅丘パークホール
子供の心を、いつまでも――見て、考えて、仲間とともに <1.基調提案:文学教育の可能性――今、私にできること/2.ゼミナール:ケストナー『エーミールと探偵たち』の印象の追跡> |
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クラウス・コードン(『ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家』の著者)は、『エーミールと探偵たち』について次のような意味のことを述べています。 |
2001.11.25 東京・世田谷 梅丘パークホール
自立した市民とは何か――『エーミールと探偵たち』のその後 <ゼミナール:ケストナー『エーミールと三人のふたご』の印象の追跡> |
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ケストナーは、第二次大戦直後に発表したある文章で、次のような意味のことを語っています。 |
2002.11.10 東京・世田谷 梅丘パークホール
自立した市民となるために <ゼミナール:ケストナー『わたしが子どもだったころ』の印象の追跡> |
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ケストナーは、人間らしい感受性を失わないためには、「自分自身の子どものころと、破壊されることのない生き生きとした接触」を保ちつづけることが必要だ、と繰り返し語っています。彼の言う人間らしい感受性とは、「何が本物で、何がにせ物であるか、何が善く、何が悪いのかを、とっさに、長く考えずに」見分けることができる感受性です。 |
2003.11.9 東京・世田谷 梅丘パークホール
1949年、「動物会議」は開かれた――ケストナーの〈市民と戦争〉 <ゼミナール:ケストナー『動物会議』の印象の追跡> |
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象のオスカルは、動物代表たちの見まもるなか、すべての人間に向かって次のように訴えます。 |
2004.11.14 横浜・山手 神奈川近代文学館ホール
『飛ぶ教室』をふたたび――ケストナーの眼で日本の“今”を考える <ゼミナール: ケストナー『飛ぶ教室』の印象の追跡> |
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今、日本の子どもたちにとって、「人生」とはどのようなものでしょうか。「友だち」とは、そして、私たち「大人」は、彼らにとってどんな存在であるでしょう。 |
2005.11.13 東京・世田谷 三茶しゃれなあどホール
みんなで、大きな雪だるまを作ろうじゃないか! <ゼミナール:ケストナー『雪の中の三人男』の印象の追跡> |
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子どもの頃、野山を駆け回ってトンボやセミを捕って遊んだ記憶がきっとあるかと思いますが、今の子どもたちはそんな環境や条件に恵まれてはいません。学校から帰るとすぐ塾に通わなくてはならない子どもたちは、自然の中で夢中になって遊びに没頭する機会を奪われてしまっているのではないでしょうか。 |
2006.11.19 川崎・武蔵小杉 中小企業婦人会館
我慢にも限度がある――ケストナー『消え失せた密画』を読み合う <ゼミナール: ケストナー『消え失せた密画』 の印象の追跡> |
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今回も昨年につづきケストナー作品をとりあげ、『消え失せた密画』(1935年刊)を読み合います。 |
2007.11.11 東京・世田谷 梅丘パークホール
美しいものを、美しいままに――ケストナー『一杯の珈琲から』を読み合う <ゼミナール: ケストナー『一杯の珈琲から』の印象の追跡> |
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今年の秋季集会では、オーストリアがドイツに合併された1938年に、ケストナーがスイスで出版した作品『一杯の珈琲から』を取り上げます。ケストナーは、「この小さな本は1937年度のザルツブルク祝祭記念事業の期間中にわたしの頭の中で構想がまとまった」と、1949年版の「読者への序文」の中で書いています。 |
2008.11.23 千葉・館山 たてやま夕日海岸ホテル
民話に学ぶ・民話を生かす――『かさじぞう』(瀬田貞二・再話/赤羽末吉・画)の魅力 <ゼミナール: 『かさじぞう』の印象の追跡> |
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いつのころからか、何代にもわたって語り伝えられてきた、民話の数々。それらに接することで、私たちは、民話を生んだ自然的・社会的風土を想像し、庶民の喜びと悲しみ、知恵と勇気、苦しみと願いを、豊かに準体験することができます。すぐれた民話は、時と所を超えて、現代を生きる私たちの心をとらえ、より良い明日へ向けての形象的思索を促します。 |
2009.11.15 神奈川・川崎市総合自治会館
太宰治「女生徒」を読む――〈希望を失いかけている人たち一人ひとりへ向けての励ましの文学〉 <ゼミナール: 太宰治「女生徒」の印象の追跡> |
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「女生徒」は、1939年の「文学界」4月号に発表された作品です。1939年から40年へというこの時期は、太宰文学にとって大きな転換期でした。太宰文学は、〈希望を失った人の書いた文学〉から〈希望を持とうとする人の書いた文学〉へと、言い換えれば、〈希望を失いかけている人たち一人ひとりへ向けての励ましの文学〉へと、その性格を変えていきます。そして、太宰の眼は、自己の世代だけではなく、自分よりずっと若い世代に属する人々にも向けられていきます。太宰文学は、世代を超えた対話を実現する励ましの文学、心づくしの文学となっていきます。「女生徒」は、ある若い女性から送られた日記をもとに創作された作品です。太宰が、若い世代の苦悩とどのように向き合い、世代を超えた連帯・対話の場となりうるような作品を創造していったか。また、世代を超えた連帯・対話を実現するために何が必要なのか。「女生徒」を読み合いながら考えていきたいと思います。 |
2010.11.14 東京・世田谷 北沢タウンホール
<「中学国語教材」の検討> “一人一人の人間がいる”――井上ひさし「握手」 <ゼミナール: 井上ひさし「握手」の印象の追跡> |
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文学作品を読むとはどういうことだろう、と考えてみると、それは作品を楽しみながら読むことから始まるはずです。そして、その楽しみの中で問題を探り、問題を探ることに楽しみを覚えるようになっていきます。様々な人生を生きる人間への関心が掘り起こされ、胸に響く新たな人間の発見へといざなわれていくわけです。作品を読んだ後、自分の何かが少し変わっている、それが文学を読む楽しみでしょう。ですから“文学教育”というのは、作品を読む中で現実の見直しが可能になる、そんな人間への手助けをすることだと思います。
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2011.11.13 東京・世田谷 北沢タウンホール
人間信頼に賭ける文学とは?――井上ひさし「ナイン」 <ゼミナール: 井上ひさし「ナイン」の印象の追跡> |
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長い東西対立の冷戦を抜け出て、平和への明るい萌しが少し見え始めた矢先に、アメリカで無差別テロ事件が発生した。それが皮肉にも21世紀の幕開けを象徴する事件となり、その後10年が過ぎてしまったが、世界の人々は一層深い不信と不安の時代を生きようとしている。 |
2012.11.25 東京・世田谷 北沢タウンホール
思索と行為と――不可能を可能にするために <森鷗外「最後の一句」を読む> |
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大逆事件(1910~1911)は、日露戦争以降、盛んになりはじめた社会主義運動を芽のうちにつみ取り、民権を徹底的に弾圧するために、政府・検察・裁判所三者一体の共謀によって仕組まれた事件でした。この事件に深い関心を寄せた鷗外は、次のように書いています。 「無政府主義と、それと一緒に芽ざした社会主義との排斥をするために(中略学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない」(「文芸の主義」/1911<明治44>年4月) また、この時期、鷗外は、自己の文学精神を “あそび” という言葉に託して語るようになります。鷗外の言う “あそび” の精神とは、大逆事件を契機に以後ますます激しさを加えて行くであろう体制側のしめつけとそれがもたらす悪現実の中で、息切れせずにねばり強く闘っていくための精神の営為・精神のありようを意味しています。そして、そのような文学精神によって創造されたのが、鷗外の一連の歴史小説であり、「最後の一句」はその中の一篇です。 息切れせずに粘り強く闘い続ける柔軟な精神。それは、様々な<脅し文句>に惑わされず、本当に大切なものは何かを見失わない精神であり、また、対話し考え合おうという姿勢を持続的なものにしてくれる精神でもあるでしょう。 こうした <あそび> の精神(文学精神)は、今日の現実を生きる私たちにとってどういう意味をもつのか。「最後の一句」を読みながら話し合いたいと思います。 |
∥秋季集会∥秋季集会の歩み∥ |