文教研・秋季集会――井上ひさし「ナイン」の印象の追跡
文教研のNです。11月13日、文教研秋季集会が行なわれました。
《人間信頼に賭ける文学とは?――井上ひさし「ナイン」》というタイトルのもと、井上ひさし「ナイン」(講談社文庫『ナイン』所収)の印象の追跡が行なわれました。
最初に、チューターのI さんからこの作品の舞台となっている1980年代(発表時点は1983年)について場面規定がありました。
80年代、経済大国としての「豊かさ」は、実は70年代半ばのオイル・ショック以後、徹底したリストラにより「企業国家」(宮本憲一)となることによって実現されてきた。同時に急速に社会問題化した「過労死」と「豊かさ」は同根で、この大企業優先の経済国家の確立こそが今日の格差社会へとつながっている。この時期、都市再開発による内需拡大で街の様子は一変した。――こうしたことが基本軸であったかと思います。
チューター提案では「握手」との対比などいくつも重要な点が指摘されましたが、ここではこの時期に培われたメンタリティーについて、非常に印象的だった資料を一つご紹介します。
《ある学生による“青年の主張”/『朝日新聞』1987年5月10日の投書欄》
どこかの国で原発事故があって一年とかいうけど、どうでもいいさ。おれって忙しいわけ。親に新車かってもらったしさ、メンズノンノで研究して服だってブランドでキメたのよ。/第一、デートで原発がどうのなんてさ、カッコ悪いじゃん。いいじゃねえの、勝手にやれば。原発だろうが地下核実験だろうがさ。おれが止めろっつったってやめるわけねぇべ。それより、おれ、ムースで頭キメたばっかりなわけよ。ムースにフロンガス入ってオゾン層を破壊するけど、おれは使うわけ。髪の毛ビシッとせにゃ、ギャルにモテないわけよ。オゾンがなくなると皮膚ガンになるとか言ってるけど、おれ一人のせいでもないし。要するに女の子の方が大事なわけ。/おれってグルメだから、彼女とフランス料理とか食べるの。そういう食べ物の材料ってわりと輸入物が多いらしいね。でも税関で放射線検査しているし、みんな食べてるんだから大丈夫と思うの。日本の原発はソ連の原発とは型が違うから大丈夫だってことぐらい、おれだって知ってんの。結局、人生を楽しまないと損だし、女の子のことしか頭にないわけ。/最近よくある“青年の主張”です。(心理科学研究会編『かたりあう青年心理学』/青木書店/1988年刊/より)
話題提供と討論は、前半後半に分けて行なわれましたが、全体を通して以下の三つのことが大きくクローズアップされてきたと思います。
@ かつての「新道」は生活に根ざした文化のある街であったが、それが破壊されていったこと。
A 語り手の「わたし」を通して見えてくる中村畳店の主人と息子の人間像。
B 英夫や常雄たちにとっての正太郎はどのような存在であるか。
@ はチューターによって語られた場面規定とともに、多くの参加者にとって実際に経験してきた時代感覚を伴ってイメージされていきました。
そうした中、変わらずにある中村畳店。「わたし」にとって、中村さんのところへ行くと「第二の故郷」のような感じがするのではないか、という意見も出て、さりげない小さな店構えだが仕事場は大きいこの畳店のイメージと、職人気質な中村さんのイメージが重なりながら、その魅力が明らかになっていきました。
そして、その中村さんを継いでいく英夫くん。この親子についても、ステキな親子だ、という意見が続きました。
B の問題は、この秋季集会へ向けての例会を含め、最も深まって行った問題でした。
これほどに深くつながっている中村親子でも、父には分からない、と言わせる正太郎の存在とはどういうものか。
英夫も常雄も正太郎に騙されながら、「感謝している」というような言葉が出るのはどういうことなのか。
正太郎は、夫婦喧嘩の絶えない家庭にいたたまれず、何度も家出を繰り返していたと言います。
ナインといるときだけが彼の居場所であったに違いありませんが、それも大人たちが土地を手放す中、バラバラになって行きます。
社会人になり詐欺まがいのことを繰り返す正太郎。競争と損得勘定の中で人も街も解体されてしまっています。
しかし英夫や常雄はひどい目にあいながら、それは正太郎の責任だ、とはならない。
正太郎のことについて自分自身にも責任を感じ、そのことについて考え続けるメンタリティーがそこにあります。
正太郎は加害者、英夫や常雄は被害者という二項対立ではない関係がそこにある、という指摘もありました。
印象的だったのは、チューターのI さんが指摘した、正太郎の問題を見て見ぬ振りはしない課題意識、俺たちの問題として考え続ける姿勢がそこにはある、という指摘でした。その課題意識を仲立ちに、あの夏だけではなく、この苦しい80年代を生き抜く“新たなナイン”として、「三者関係」(中川作一)を作り出している、という指摘でもありました。そして、そのことを語り手である「わたし」は聞き取って書きとどめていくわけです。
この“見て見ぬ振り”をしない課題意識。“見て見ぬ振り”をする近代主義的見方と訣別し、本当にダメ人間として切り捨てていけるのか、と問い続ける姿は、井上ひさしが太宰的世界を追求していったことともかかわっていくだろう、というSさんの指摘もありました。
《ある学生による“青年の主張”》の発想が一般的な中で、この作品の持つひたむきな主張に改めて驚きます。
そして、新自由主義の嵐が吹き荒れてきた今を生きる私たちには、もっとストレートに響いてくるように思います。
以上、少人数ながら活気ある集会の、ほんの一部をご紹介しました。
【〈文教研メール〉2011.11.24 より】
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