4月第一例会報告――全国集会へ向けて
文教研のNです。
先週の土曜、震災後初めての例会が行なわれました。
全国集会へ向けどういう共通の課題意識で望むか、その方向性が話し合われました。
企画部からの問題提起は「常任委員会報告」(3/31)で概略お知らせしましたが、それに沿ってあらためて内容を確認したいと思います。
統一テーマは未定ですが、内容としては「井上ひさしと太宰治」、取り上げる作品は、井上ひさし「父と暮せば」、太宰治「眉山」(「如是我聞」を射程に入れて)ということになりました。
これからの例会での検討の大きな軸は、次の二点かと思います。
@ 井上ひさしを異端の系譜に連なる作家として位置づけていく
A 東日本大震災後の現実を受け、今、文学の課題は何かを考えていく
@ に関しては、井上文学の展開として、中期以降に質的な深まりがあるのではないかということが指摘されています。
特にSさんが指摘したのは、宮沢賢治との取り組みの中で深まり、さらに太宰文学への取り組みが転機になって行ったのではないかという指摘です。太宰とのつながりの中で見逃せない作品は「闇に咲く花」、転機の問題としてはエッセイ「ボローニャ紀行」がはずせないのではないか、という話もありました。
そこで掴まれていった「平凡な人」「普通の人」の生活の中にある視点、そこへの賛歌は、我々が“異端の文学”の系譜の中に発見してきた“教養的中流下層階級者の視点”に連なるものではないか。 “教養的中流下層階級者の視点”は文学的課題を深めていく座標軸として、さらに我々自身の手で深めて行く必要がある。云々。
Aに関連して、原爆という人災の極みに向き合った「父と暮せば」はきわめてタイムリー性のある作品だ、という点で皆さん一致したように思いました。
また、「眉山」に関しては、まだ掴みきれない点もあるがこの組み合わせで自分自身の課題を見詰めていくことに意味がありそうだ、という方向で一致したと思います。
この印象の追跡を行なう中で、今求められる“教養的中流下層階級者の視点”の具体像を明らかにしていきたいものです。
私個人としては、先日の大江健三郎さんの言葉も考える糸口になりそうに思いました。
大江さんは「父と暮らせば」を語りながら、木下順二の「取り返しのつかないものを取り返す」という言葉を問題にされました。「眉山」にも「取り返しのつかないもの」という課題意識があると思いました。
私たちが共通して学ぶべきは 「文学と教育」210号(2009・11)掲載の論文佐藤嗣男「太宰文学を語る――『眉山』を取り上げて」で、お読みいただけばいい訳ですが、きっかけになるよう一部分だけ紹介します。
まず、この作品は、回想形式をとって語られています。前に話したとおりです。語り手の「僕」は既に結末をもう知っているわけです。どんでん返しをしっているわけですよ。その既知の結末を何でそうなったのか、必至的・必然的にした、「僕たち」の、「僕」の過去が洗い直されて語られてくる。……
本当に知ったかぶりで高みに立って、かえって弱い者いじめみたいな、軽佻浮薄な戦後の文化状況、あるいは戦後の文化人たち、これを徹底的に太宰はきらいましたけれども、「馬の背中に狐の乗って」なんて、戦後の文化状況を太宰は痛烈に批判しましたが、そう言いながらも自分のほうを振り返ってみて、この「僕たち」と同じように、自分の中にもそういった要素があるのではないか。太宰の徹底した自己批判、自己検証の眼が本当に活きているなと、すごい人だなと思いますね。自分は高みに立って見るのではなくて、自分の中は一体どうなのだと絶えず自分に返して見ている作家だったのではないでしょうか。
文学、文学教育、文学研究が、本当に意味あるものとなるように、頑張りましょう。
【〈文教研メール〉2011.4.26より】
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