N さんの例会・集会リポート   2010.11.27例会  
   
   秋季集会総括
文教研のNです。
前回例会は、秋季集会の総括でした。
ここでは作品(井上ひさし「握手」)前半の話題提供であった自分自身の問いが更に深まったと感じた一点と、後半最後の場面について一点紹介します。

「日本人は先生にたいして、ずいぶんひどいことをしましたね。……」と言った「わたし」の言葉に「総理大臣のようなことを云ってはいけませんよ。……」というルロイ修道士、そして、「わかりました」と言って右の親指をぴんと立てる「わたし」。
そこには、三者関係としての対話が成立しているからこそ深まりがあるのだ、ということがわかってきました。
この三つのやり取りの関係を結ぶものは何なのか。
そこには課題を共有する姿勢、そして、その課題を共有することで深めていける関係があります。
「わたし」はルロイ修道士の生き方とその時の日本人のあり方について考え続けている人間です。その生き方に対するギリギリの答えがここでの謝罪のコトバになって行きます。その課題意識、つまり、自分はその生き方に対して何が出来るか、という問いに答えて、ルロイは、そのことを考えるための大切な一点はここだ、ということを
言うわけです。「日本人を代表してものを云ったりするのは傲慢です。……一人一人の人間がいる、それだけのことですから」。
I  さんから次のような発言があり、更に深まった気がしました。
八〇年代、日本に戦争責任などなかったという“自虐史観”論が勢いを得てきます。
しかし、ルロイの言葉は、その中であらためて日本人に戦争責任はないのか、という問いへ思索を促す言葉になっているのではないか。「わかりました」というのは、「自分の課題が、わかりました」ではないのか。……
“わたしには何が出来たか”“わたしは何が出来るか”これは、一人一人の人間が自分自身の人生を生きようとするとき、避けてとおれない問いです。

集会当日は、話題にしきれなかった問題として、最後の場面での「両手の人さし指を交差」させるしぐさは、どういう「わたし」の思いを表しているだろうか、ということについて意見が出ました。何人かの人から、もっと何か出来たのではないか、言いようがあったのではないか、という自戒の念だ、という発言がありました。
取り返しのつかないものを失ったときこそ、あれでよかったのか、自分は何をやっていたのか、という自責の念が生まれる、そうした中からこそ、本当の受け継ぎが生まれてくる、という発言もありました。

井上文学が取り組んでいった課題は何か、更に深めていきたいという思いを新たにした総括でした。


〈文教研メール〉2010.12.10 より


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