N さんの例会・集会リポート   2010.9.11例会  
   
   全国集会総括

文教研のNです。
先日の例会では、全国集会の総括が行なわれました。
時間的な問題で、基調報告TU「羅生門」のゼミのところまでが対象となりました。

話題は多岐に渡りましたが、前半の話し合いでは印象に残った二つの問いかけについてお知らせしたいと思います。
一つ目は、「準体験」概念の重要性が今こそ問われている、ということについてです。
“教育”という問題は“継承”の問題でもあります。
例えば“戦争体験の継承”といったとき、現在既に直接体験していない親からさらにその子へという条件の中で、どう“継承”されていくのか。
「追体験」ではない媒介の論理として、今こそこの「準体験」の概念は“文学教育の意義”を考える上でますます重要になってきています。
そして、そこにおける「感動」、伝えずにはおれないものは、どういう形でできていくのか。
全国集会で見た“E研”(益川敏英氏の所属した名古屋大学・坂田研究室)の討論、それは言葉の概念的操作による討論だが、その場合にも“継承”に欠かせない「感動」(言わずにわおれないもの)を伴っている、それはどのように生まれ、培われていくか、そこにも一つのヒントがあるのではないか……。

もう一つの問いかけは、基調報告Tでふれた「自由、平等、友愛」についてでした。
 I  さんは、古在由重「友愛について」(1975)という文章を紹介されながら、この「友愛」のイメージについてさらに話されました。
「自由、平等」は法律・制度によって保障される。しかし、「友愛」は制度によっては保障されない、むしろ、根本のエネルギーとなるものだ。
「連帯・団結」は大事だが、閉鎖的ニュアンスがまとわりつく。
「友愛」という言葉には、ベタベタしていなくて、しかし、カサカサとした相互不信の中で必要とされるものが言い表されている。
こうした古在さんの紹介する「友愛」のイメージは、今日の新自由主義がもたらしたギスギスした人間関係の中に「三者関係」という形で我々が問題にしてきたことと通じるのではないか。

後半の「羅生門」ゼミの総括で印象に残ったのは、 I w さんの「何故、自分は“ヒューマン・コメディ”ということにこだわったか」という発言でした。
これは芥川自身の目指したものであった点を確認しながら、同時に、目の前の生徒たちの要求にこたえる文体とは何か、という問いかけからうまれたこだわりであったことが話されました。「人生を楽しみたい、笑いたい」という生徒たちの要求との兼ね合いの中で、この「羅生門」にはそうした生徒たちの要求に答える“文体”があるのではないか。そうした中で、I w さんは今の生徒たちの「連帯を求めつつも、信じられない」という感覚に、どれだけ納得を勝ちうる文学として媒介できるか、そこにこの作品の教材化の視点を求めていった経緯を話されたと思います。その点については、機関誌に載るものと思いますし(次号「文学と教育」の「羅生門」は I w さん担当です。)、そこでの楽しみにしたいと思います。
これについても、色々な意見が出されましたが、“芥川文学”をこの作品一本で媒介することはできない、という基本線もあらためて確認されました。“文学意識”を育てるとは、“文学史意識”を育てることでもある、とあらためて感じました。

さて、次回例会は安部公房「赤い繭」(新潮文庫『壁』)の総括と、秋季集会へ向けて井上ひさし「握手」(講談社文庫『ナイン』)の印象の追跡です。


〈文教研メール〉2010.9.24 より

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