N さんの例会・集会リポート   2009.11.15秋季集会、11.28例会 
   
    文教研・秋季集会――太宰治『女生徒』を読む


文教研のNです。
11月15日、素晴らしくきれいな秋晴れの日、四十数名の参加を得て、文教研・秋季集会が行われました。
タイトルは「太宰治『女生徒』を読む――〈希望を失いかけている人たちへ向けての励ましの文学〉として」です。
全体として、率直な意見をきっかけに、作品アプローチへ向けての立ち位置や問題が見えてきた、という印象です。
先日、総括の例会がありましたので、それとあわせて何点か紹介させてもらいます。

会場風景
ゼミに入る前に、チューターのI さんからこの作品の素材となった有明淑(ありあけ しず)の日記を中心として、話がありました。
太宰文学の愛読者であった有明淑が、自分の思いを受け止めてくれると信じて太宰に送ったのがこの日記であること。
そこには同じ素材や言い回しがあるかないか、といった「実証主義」では解明できない文学現象の問題があること。
熊谷孝氏の指摘を整理しながら、「怒涛の葉っぱの世代」「暗い谷間の世代」そして更にそれに続く若い世代の中に対話の相手を発見していったこと、などなど、「1939年から40年段階へかけて」のこの時期の太宰文学がどういう性質のものであったか、が話されました。
あらためて熊谷理論を検証していくことの豊かさ、今日性が問題提起されたと思いました。


ゼミは、第一パート、朝起きてから家を出るまで、第二パート家から学校へ行って帰ってくるまで第三パート、帰ってからの出来事、という三つのパートわけで進みました。


会場風景第一パートはKさんが話題提供。太宰文体に入り込めなかったかつての自分の紹介から、意識の流れを追う「女生徒」の文体、そのリズムのよさやユーモア、“美しい目”にこだわること、ジャピイとカアの部分をどう読むか、など問題提起しました。
討論は「このアンブレラは、お母さんが、昔、娘さん時代に使ったもの。」という部分の「娘さん時代」という言葉の使い方に違和感がある、という発言から始まりました。幾つかの発言が続いた後、Sさんが次のような問題提起をしてくれました。


この言い方には引っかかるものがあるかもしれない。しかし、そういう少女なのだという思いで読み進めていく必要もあるのではないか。知らなかった人間の登場によって、読者として目覚めさせられるものがあるかもしれない。「文学作品の内容は生活の再組織をせまる」(Kさんが紹介した乾孝氏のことば)、それが“小説の感動”なのではないか。
そして、ここにはこういう言い方をする独特な少女、その母と娘の関係が見えてくるのではないか。


このことについてはその後時間的制約もあってあまり触れられませんでしたが、今後の課題です。
ジャピイとカアについても、その根底に「可哀想で可哀想でたまらない」思いがあること、しかし、その距離感に揺れていること、などが確認されました。総括の場面では、湯浅誠 『どんとこい、貧困!』 で指摘されるような、現実にある問題への「無関心」の態度ではないことも指摘されました。
その他、「トコロテン」式の「美しく軽く生きとおせる」生き方、矛盾なく生きていく生き方を否定する「私」の感覚の問題なども出されました。

会場風景
さて、第二パートの話題提供はNでした。
外に出て、どんなモノや大人に目が向き、何を考えるか、そんな点に注目していきたいパートです。
ここでは総括をへて、今、考えていることを少し整理して紹介させてもらおうと思います。


当日話題提供しようとしたことの軸は、「本当の自分」をつかもうとしてもがく「私」が、本の中の「マダム・キゥリイ」の生き方を“お手本”に思索していることでした。そこでの彼女のユーモア感覚にも焦点を当てたいと思い、伊藤先生のところをピックアップしました。
しかし、今思うともう少し広がりを持って問題提起したかった気がします。
例えば、手前の小杉先生のところなども含みこんで、“お手本”の問題を考えていったほうが良かった。


「『つくる』ということがなかったら、もっともっと此の先生すきなのだけれど。あまりにポオズをつけすぎる。どこか、無理がある。あれじゃ疲れることだろう。……お教室では、まえほど人気が無くなったけれど、私は、私ひとりは、まえと同様に魅かれている。……小杉先生のお話は、どうして、いつもこんなに固いのだろう。頭がわるいのじゃないかしら。悲しくなっちゃう。さっきから、愛国心について長々と説いて聞かせているのだけれど、そんなこと、わかりきっているじゃないか。どんな人にだって、自分の生まれたところを愛する気持ちはあるのに。つまらない。……人間も本当によいところがある、と思った。花の美しさを見つけたのは、人間だし、花を愛するのも人間だもの。」


「私の風呂敷みたいに綺麗」な小杉先生は、彼女の憧れの女性の部分を持っている。「美しい青色」が似合って「胸の真紅のカーネーション」が目立つ先生は、ある種ストイックな魅力を感じさせます。しかし、先生の「愛国心」の話には辟易する。会場風景
それでも、「私」はそれ以上先生を責めず、庭の隅に咲くそれぞれ色の違うバラの花に目をやって愛について考えるわけです。彼女は「愛すること」は知っている。彼女は前のところでこう言っています。「私たち、愛の表現の方針を見失っている」。「愛国」を声高に叫ぶことは「愛の表現」ではない。それなら自分の生まれたところを愛する本当の“表現”とは何なのだろうか。……


「マダム・キュリイ」に象徴される、自身の情熱と人間への使命感に従って自分の生き方を決めていく生き方、その“お手本”と対極にある生き方は「雌鳥」の生き方といえるでしょうか。
「こんな所へ来て、こっそり髪をつくってもらうなんて、すごく汚らしい一羽の雌鳥みたい」
「その女は、大きいおなかをしているのだ。ときどき、ひとりで、にやにや笑っている。雌鳥。こっそり、髪をつくりに、ハリウッドなんかへ行く私だって、ちっとも、この女のひとと変わらないのだ。」
「産めよふやせよ」という掛け声にのって何の疑いも無く卵を産み続ける「雌鳥」のイメージ、そして、そのことのために大切な青春を方向付けられる女性の生き方、自分自身の将来像として最も嫌悪し恐怖するものでしょう。


会場風景(資料コーナー) I wさんが、集会後、〈文教研メール〉で「豆の葉」にピタゴラスとピタゴラス派の問題が連想されるのではないか、という問題提起をしてくれました。そのことに関連して総括では、彼女の思索自体が哲学的である点が指摘されました。彼女は“自分の思想(実感の体系)”を構築しようとしている、そういう風に思索する少女として造形されている。「どうしたら、自分をはっきり掴めるのか」。一見取り留めなく見える彼女の意識の流れの中に、彼女の“実感の体系”を我々自身が発見していくこと、それが印象を深めていくことになる、とあらためて思ったしだいです。


(私個人は、I wさんのメールを見て、ケストナー「一杯の珈琲から」に注をつけた作業を思い出しました。分かる読者に向けて懸命にこめたメッセージ。ケストナーの時代感覚と文体感覚。集会当日にも言いましたが、外から見たらごく日常の一場面でしかない少女の内側に、どれだけ豊かな感情がひしめいているか。その心の内側に寄り添う感覚はケストナーの詩「顔の奥までは誰ものぞきこまない」を思い出します。
そして、人生には“お手本”が必要だ、と子どもたちへ向かって作品を書いた彼。
様々な点で、この「女生徒」の太宰にケストナーとつながりあう文体感覚を感じました。)


第三パートはNmさんの話題提供でした。会場風景
Nmさんは今井田の存在について、なぜ「私」がこれほどまでに嫌悪するのか、という一点に絞って話題提供されました。
総括も含めて、そこに戦時下の状況を利用して生きていく人間像、取り繕って生きていくことが身について嫌悪無く生き抜いていけるメンタリティーのことが話題になりました。それは、たとえば今日求められる“コミュニケーション能力”、「戦略的コミュニケーション」(佐貫浩)とも呼ぶべき周りと折り合いをつけて生き抜くためのコミュニケーションの問題ともつながってくるのではないのか、という指摘もありました。
こうした人間が跋扈していくのが戦争の現実であり、そういう人間たちが日常を押しつぶしていく。それに苦しむ「私」の姿が強烈に描かれていく。……


会場風景(休憩時間)長くなってしまったので、その他、触れられた話題を何点か羅列しておきます。
要所要所で思い出す、「私」のことを「中心はずれの子」といって笑っていた父親のこと。
この父親を軸に彼女の母親との関係も含めて、「私」はどういう育ち方をしてきたか。
「きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。」という言葉の中にある、少女から大人へ成長していく“生きる苦しみ”について真剣に向かっていく、作家太宰の姿勢。
「もう、ふたたびお目にかかりません。」という太宰らしい“軽み”の表現について。などなど。


まだまだ語りたい作品です。
どこかでまた話し合う機会もあるでしょう。
集会の最後に、チューターのI さんが、
[作品の結び 「もう、ふたたびお目にかかりません。」をふまえて]「そういわず、これからももっとお会いしたい。」と言っていましたが、本当にそう思います。


〈文教研メール〉2009.12.4 より



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