N さんの例会・集会リポート   2009.08.05-07全国集会 
   
    〈私〉の中の〈私たち〉を考える
※末尾に[全国集会参加者の声]を紹介

文教研のNです。
今年も夏の全国集会が無事に終わりました。
着実に一歩一歩前に進んでいる文教研の研究活動に、あらためて自信を深めることのできた集会だったと思います。
月が変わってしまいましたが、集会の様子を少しでもお伝えできたらと思います。

会場風景1
最初のあいさつは、次に基調報告T「いま、なぜ有吉文学か」を話す委員長の I さんが、
「どこからがあいさつでどこからか基調報告か分からなくなってしまうが」と断りながら、今夏のプログラム前文にある「三者関係」という言葉にふれて話されました。

心理学者・中川作一さんのいう「三者関係」。
「三者」というのが三人の人間を表しているような印象があるために、少々混乱する向きもあるようです。
しかし、一般に「対話」といったとき二人の人間が対面して言葉を交わすというイメージが強いけれど、はたしてそれが<対話>の本質を本当に言い当てるものなのだろうか。

「三者関係」というのは、中川さんの場合は先生である乾孝氏の理論を継承しての問題提起であり、私たちにとっては熊谷理論、乾理論から学んだ<対話>理論の切り口による問題提起です。それは一般的な二者関係の「対話」イメージに対して、根本的なイメージの転換を要求します。
私たちが課題とする<対話>、それは、人(A)と人(B)とが解決しなければならない問題(C)を挟んで、それを共有するイメージ(A−C−B)です。
また、それを一つの単位とし、その問題(C)を中心として、それら(A−C−B、A’−C−B’……)が集まってフォーラムを作るイメージです。

今、世の中で問題にされるコミュニケーション力は、こうした「三者関係」を内外に作ることは求めていません。
本当の意味でのコミュニケーション力を付けるには、こうした理解のうえに文学作品を読む授業が展開される必要があるのではないか。
このあいさつの方向が、その後の基調報告、ゼミの討論を一貫して流れるものとなりました。
「感動中心の文学教育では、論理的力がつかない」などといわれますが、そうした論議に足をすくわれず、自らの感情体験と必要とされるべき論理とで思索し続ける文学教育が必要だと思いました。

会場風景2
二つの基調報告に関しては、基本的に準備合宿で話された方向でしたので、ここでは二つのゼミの中で出された印象的な話題についてご紹介したいと思います。
まず、有吉佐和子「ぷえるとりこ日記」のゼミからです。
二日にわたる長丁場のゼミで様々なことが話し合われましたが、ここでは二点紹介します。

一つはジュリアと崎子の「生きている」ということに対する感覚のあり方についてです。
例えばジュリアはヒューマニストとして発言をするけれど、しかし、目の前の汚れた子どもを抱きしめはしない。
彼女の感覚は文明の中で生きるのが人間であり、「清潔な棲家」に住んでいないものは「人間」ではないのです。
それはある意味でアメリカ人的アメリカ人の典型、“自分たちこそ世界で一番”と考えるグローバリズムの考え方の典型といえます。

しかし、崎子はその子どもを抱き上げる。「私にはとても穢くて触れないようなボロをまとった子供たちを、崎子は平気で抱き上げたり頬ずりしたちしている。私は呆れてしまった。日本の子供たちも、あんなに穢いのかしらん。」(ジュリアの日記)
一生懸命生きる姿をいつくしむ気持ち。
それは最後の崎子の姿、「どの国も大変なのねえ」と涙を一筋流す崎子の姿ともつながっていきます。

もう一つは、チューター総括で触れられたジュリアと崎子の問題意識の違いについてです。
二人とも同じ場所で同じスケジュールをこなしている。しかし、そこでの体験は同じではない。
ジュリアは「学ぶところはなかった」といい、崎子は大きな課題を発見するわけです。
ジュリアは優秀な学生ではあるけれど、しかし、そこにはプエルトリコの人々とともに課題を共有するという意識はない。
私たちに求められているのは、崎子的な<対話>のあり方、体験をまとめる力なのではないか。
それこそが「自己責任論」と対決していくために求められるものなのではないか。……


長くなってきたので、太宰治「燈籠」のゼミナールは最後のチューター総括でSチューターがまとめた一点だけ紹介しようと思います。

最初、さき子は「誰にも顔を見られたくない」と世間体を気にしている。しかし、それが「ああ、覗くなら覗け、私たち親子は、美しいのだ」と変わっていく。ギリギリのところまで追いつめられて、それでも希望をもって生きようとする人間。
そこに発見される「家庭」。
「葉」の最後、「どうにか、なる。」とは違う、守るべきものがある。
国防という最重要課題の前には家庭などないほうが良い、「生めよふやせよ」「銃後も戦場だ」という中、
「家庭」の団欒、「家庭」の幸せにこそ守るべきものがある。
女性たちへ向けて、何をこそ、守るべきなのかを語っていく。
人間疎外が進行する中で、どうやって生きて行くのか。
「燈籠」はそこへ踏み出した、太宰文学第三期のスタートとなる作品ではないのか。……

終始、「燈籠」の作品論をリードしてくれたSチューターのまとめは、秋の集会で取り上げる予定の「女生徒」にもつながる、大きな問いかけを私たちにしてくれました。


さて、集会後、 I さんが強く推薦した湯浅誠『どんとこい貧困!』(理論社/2009・6刊)を読みました。
湯浅さんのメンタリティーやこの本の持つ課題意識が、今回の集会と強いパイプでつながっているということを実感しました。
多くの方に是非読んでいただきたいので、最後の頁を紹介します。

<谷川俊太郎さんからの四つの質問への湯浅誠さんのこたえ>

「何がいちばん大切ですか?」
   言葉。言葉がなければ説得できない。言葉がなければ活動できない。言葉がなければわからない。
「誰がいちばん好きですか?」   
生きようとする人。そこに人間の尊厳の根幹を感じる。死にたい人、死んでもいいと感じる人に、素朴に「なんで?」と聞ける社会にしたい。
生きつづけることに重い負担がかからない社会。
「何がいちばんいやですか?」  
ごうまんな考え方。ごうまんな生き方をする人。他人を批判していい気になっている人。他の連中はバカで、自分は頭がいいと勘違いしている人。
   徹底的にやりこめてやりたくなる。
「死んだらどこへ行きますか?」
   どこにもいかない。そのまま消滅する。何も残らない。無になる。

〈文教研メール〉2009.9.3 より




【全国集会参加者の声より】

 去年はモーツァルトで、今年はバーンスタイン。文教研にまぎれこんでいると音楽も楽しめるし、ちょっと違った視点も教えてもらえるし、毎年、とっても楽しみにしています。私の場合はすごーい収獲があっても一晩寝ると全部忘れてしまうので、成長するということはないのですが、一時的にでも何かがわったような気分に浸れるのは気持ちの良いものです。皆さんのお話を聞いたり、書いたものを読んだりしていると、なんとなくわかるけれど……という言葉や表現がでてきてとまどうことも多々ありますが、それ以上に共感できる部分、納得できる部分がたくさんあり、八月の八王子が私を魅きつける大きな原動力はここにあるのだろうと思っています。(女性・M.Yさん)

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