N さんの例会・集会リポート   2009.03.27_29 春合宿 
   
    中川作一論文「自己像と平和―民主主義とファシズムのちがい」の検討

文教研のNです。

この春合宿には、乾孝氏のお弟子さんである中川作一氏の「自己像と平和――民主主義とファシズムのちがい」(心理学研究会・編『新 かたりあう青年心理学』青木書店/1999)を読み合いました。
たいへん興味深いものでしたが、概念を理解するのになかなか苦労する面もありました。
私の理解できた範囲、そして、今後の例会にとって抜かせないことを、という限定で、以下の二つのことについて報告したいと思います。

@ 対話のイメージ、二者関係と三者関係について
A 自己形成過程あるいは自己凝視におけるmeとIの関係について

まず、@についてです。
中川論文では、女優の北林谷栄さんが米・オレゴン州での二ヶ月に渡る入院生活で経験したエピソードから書き始められています。
脳外科の重病人どうし交し合う目くばせ、その他者を励まそうとして見せる暖かい動作が、彼女の眼には最も人間的な行為として映り、そういうアメリカ人にすっかり親しみを持った、(以前は嫌いだったけれど)、というのです。
そこには「生きる」という同じ目標(M)に向かって肩を並べて立つ人と人(AとB)との関係、そういう「三者関係」が成り立っている。
そのときこのMは、AとBが対等につながりあうことを保障してくれるものです。
つまり、二人の間の違いではなく共有するものを、二人の間の「競争」ではなくて「協力」を導いてくれるものになります。

こうしてAとBとがただ向き合っているのではなくMを媒介項として肩を並べる、ということは、たとえばAの側からすればこういうことになります。
Aの認知過程の中にMが新しい《意味づけの系》として編入されることで、対人認知の枠組みが再構成される。
北林さんの場合なら、長年のアメリカ人に対する偏見を払拭する、というように、この「三者関係」(Mを頂点としてABを底辺とした三角形)は生産的な機能を果たすの
です。

それに対し、「二者関係」(Mを含まないAとB)というのは、たとえば今日の「管理主義」化された社会の中で「協力」よりも「競争」を強いられているような関係です。
その場合、AとBとの間には共通に分かち合う目標Mはなく、「命令―服従」、あるいは「勝者―敗者」という「二者関係」しかありません。
そこではAとBとは対等に肩を並べるのではなく、二人の違いが強調される、Aの目標達成はBの目標喪失、という関係になります。

我々が目指すもの、民主主義的人間像は、この「三者関係」(目標あるいは媒介項、Mを持つ)の上に成り立つ人間像になるはずです。

次にAについてです。
「自己」といった場合、それはどういうものか。
中川論文では、デカルトの「われおもうゆえにわれあり」という言葉の紹介から始まります。
これはある意味では誤訳で、正確には「思うゆえにわれあり」、自己は意識の働きゆえに存在する、というほうが正しい。
つまり、意識のほうから働き始め、それによって生み出された内面世界にその対象として現れる存在が「自己」なのだ、というのです。
私たちの言い方でいえば、「自己」は第一義的に外界の反映である、ということです。

では、さらにその「自己」の中の構造はどうなっているか。
そこで中川氏はミードを紹介しながら、自己の内側はmeとIという二つの機能に別れると説明します。

meというのは、私が気づいている自己、意識している自己像、「対象としての自己」であり、
私に向かってこうあって欲しい、あるべき、と求めてくる、要求してくる自己です。
それに対して、I というのは、そのmeに対する私の反応です。
しかし、それは予測できません。I の行為はその性質について、前もって分からない何か新しいものを含んでいるのです。
そして、I が行為したのち、その新しい性質は対象化され「対象化された自己」としてmeの中に現れます。
そこには新しいme´が生まれるわけです。

中川氏はこのことをミードが引いた野球の例を使ってこう説明しています。
ピッチャーがサインを受けて球を投げる構えに入ってから投げるまでの内面の動きを想像してみて下さい。
投手は、キャッチャーだけでなく、他のポジションにいるメンバーの構えを意識の中に持って、自分が求められていることに応えるべく、自分がすべきことを考えます。
この次の行動を要求されている自分自身、これがmeです。
そして、球を投げる。これがIです。
しかし、それは必ず予想できない何かを含んでいます。
そして、投げ終わった後、そこでストライクが取れたか、ボールになったか、どうなったかで、自分の位置、自己像は変わってくるわけです。(me→me´)

つまり、この場合のmeは、試合に勝つという目標に向かって肩を並べあったチーム全体の思いを組み込んで、自分の役割を果たすために、次にどういう球を投げるべきかを要求してくる存在です。このmeがあって初めて、考え抜いた球を投げるという行為をするIが呼び出されます。
つまり、meというのは私たちの「内面のコミュニティ」の代表として、一つの反応を呼び求めます。
そして、そのコニュニティの一員として与えられた役割を果たそうとするときこそ、このmeにIが呼び出され、Iは何かしらか新しいユニークな反応をするのです。

私たちが自己凝視しながら自己形成していく、そして、自己成長していく上で、このmeとIの分化は重要なプロセスです。
この分化の過程がしっかり行われ、自己相互作用が伸びていかないと、「自己意識をもって行為する」主体にはなれません。
また、自己とは、そうしたプロセスを持つ、時間的な存在だということもできます。
過去を経験として内面に組織するmeに対して行為を選択するIは現在である、そして、その現在は経験として次のme´、未来に組み込まれる。
などなど……

だいぶ長くなってきたので、区切りにならない区切りにします。
中川論文はこうした理解の上に立って、ファシズムの精神構造について解明していきます。
さて、我々に与えられている課題は、次回の有吉佐和子『ぷえるとりこ日記』に現れる、戦後自己の問題、そして、今日の我々の問題にこれを生かしていくことです。

会田崎子の内面とは、「ジュリアさま」の内面とは。
そして、それを読む「私」とは?


〈文教研メール〉2009.4.10 より


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