N さんの例会・集会リポート 2006.01.14 例会 |
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善意も人を殺す――太宰治『新釈諸国噺』「人魚の海」 文教研のNです。
冬合宿も終わり、太宰治『新釈諸国噺』もだいぶ読み進みました。 私は家庭の事情で合宿参加ならず、先日の第一例会が初めての討論の場となりました。流れがわかっていないところもあるかと思いますが、いつものように印象に残ったところをお伝えします。 冬合宿で検討された「裸川」「貧の意地」「大力」「猿塚」に続き、1月第一例会では「人魚の海」を読み合いました。 話題はここでの主要な人物、中堂金内(ちゅどうこんない)、野田武蔵、青崎百右衛門がそれぞれどのような人物として描かれているのか、という点に絞られていきました。 金内については読者の共感を得る人物として描かれている点でみんなの意見は一致していきましたが、あとの二人については若干評価が分かれたようでした。 武蔵は確かに「善意の人」です。しかし、彼の行動がなかったら金内もこんな辱めは受けないで済んだ……、善意も人を殺す、という問いを投げかける人物です。では、たまたま彼の善意は裏目に出てしまったのでしょうか。 百右衛門がどんな人物か、武蔵はよく知っていたはずです。それでも、そのことに思いをいたすことなく、殿の御前で手柄話を報告できることは誰にとっても栄誉なこと、という思い込みの中で金内を持ち上げ誉めそやしたのです。こんな言い方をすれば、ゆがんだ根性の百右衛門がおとなしく聞いていないことは、簡単に予測できたことではないでしょうか。 金内の悲劇について、直接のきっかけとなったこの武蔵の行動とメンタリティーが、大きな問いかけとして私たちに響いてきました。 そして、百右衛門についても、その描写のされ方を含め、メンタリティーの質について話題になりました。 「世に化物なし、不思議なし、猿の面は赤し、犬の足は四本にきまっている」という彼。彼の発言は、客観的合理的なものなのでしょうか。 問いかけの一つは、昭和20年1月という発表時点において、読者に対し幻想ではなく事実を見据えることに気づかせる描写になっていないか、ということだったように思います。 しかし、討論の中で、この噺の場面規定として、人魚は実際に存在している、ということは前提になっている点、また、百右衛門は金内を笑いものにしたいがために論理を展開しているのであり、そうした誠実な人間を陥れるためのエセ合理主義なのだ、という指摘がされました。 むしろ、武蔵的なものの問題点を明らかにするために、この百右衛門の存在があるのではないか、という方向で討論は進んだように思います。 「あの人たちの思いも及ばぬ不思議な美しいもの」を見たばかりに追い詰められ、人から「気違い」といわれるようになる金内。こうした誠実な人間を孤独に追いやってしまうものとは何なのか。 「賢さ」を持たないために自分の「善意」で友人を死へ追いやってしまう武蔵のメンタリティー。そして、そうしたゆがんだ状況を支える百右衛門のような、権力に胡坐をかき強い嫉みや僻みを抱え込んだメンタリティー。彼らを覆うファナティックなもの。 太平洋戦争最末期において、太宰が読者に問いかけたものはなんだったのでしょうか。太宰の描いた武蔵は、西鶴の描いた武蔵とはずいぶん違っています。話題提供者のKさんは、最期に彼が割腹自殺した部分がない点を指摘していました。さらに読みは深まっていきそうです。 さて、次回は「破産」「義理」と読み進める予定です。 【〈文教研メール〉2006.1.26 より】 |
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