むかしの「文教研ニュース」記事抜粋 
 1977        *例会ごとに発行されるニュースから、部分を適宜、摘記したものです。

   
1977/2/19 126

『遙拝隊長』を読みはじめる―1月21日研究例会―
Y.A
 『多甚古村』をいちおう読み終え、1月21日例会を第一回として、三回にわたり『遙拝隊長』(S.25)を取りあげることになった。これまで共同研究してきた、井伏文学の文学史的把握に立っての作品把握の方向性(仮説)と課題を、そして第一回で論議された要点をまとめておきたい。
 
1.「'76年度研究計画」(機関誌98)からの抜き書き。
 ○戦中と戦後における日本の風土と庶民感情に即して、戦争という物質的な力による民衆疎外・人間疎外のどのようなものかを、これほど非情に酷薄に、また、リアルに描いた作品は、戦後文学の中でも少ないのではないか。そこに問われているのはむしろ人間そのものである。
 ○銃後も戦場も区別ない、国内戦の様相を呈した太平洋戦争の体験をくぐった、敗戦後の視点からの戦中への回想。戦後一時期への凝視。そこに見られる人間というもののつかみ直しが、この作品にはある。
2.作品把握の前提――熊谷先生の話を聞いて、私なりに。
 (1) これまでの研究を通して、少なくとも『多甚古村』まで〈井伏文学は倦怠の文学〉であることが確認された。そして、その倦怠に処する姿勢として、〈待つ〉(必要なまわり道をして、足場を築いてゆく)という強靱な方法精神を私たちはそこにみた。それでは『遙拝隊長』はどうなのか。私たちが手にした予備概念(key concept)=〈倦怠〉〈待つ〉を用いた時、『多甚古村』と『遙拝隊長』は連続面が主か非連続面が主か。これが第一課題であろう。
 (2) やはり、一本勝負ではだめだ。『多甚古村』から『遙拝隊長』という発想で、そこに『追剥の話』(S.21)と『犠牲』(S.26)を位置づけてみよう。『追剥の話』は戦中から戦後への人心の「変化」をみごとにとらえた作品である。『犠牲』はほとんど同時期の作品。戦争の中での〈犠牲〉ということの真実、そして、この作品に遙拝隊長が姿を見せている。
 (3) 作品把握はどう「解釈」するかではなく、どう場面規定するか(本来の読者の視座にどのようにした立つか)、にかかっている。「倦怠」という概念をひっさげて、単に、文章の部分部分をそうじゃないかと嗅ぎまわることは解釈主義に他ならない。倦怠の問題は読者の視座において問題にされなければならない。その場面において、何に倦怠を感じ、何を待つのか。
 (4) 戦中から戦後へ。疎外の根源は半封建的資本主義・絶対主義的天皇制から、占領政策・戦後的日本独占主義へと姿を変えた。太宰は「待っていたのはあなたじゃない」(『春の枯葉』)と叫び、「民主主義踊りへの反逆」の意志を表示した。石川達三の『熔岩』は? また、井伏の『追剥の話』は? そこにおける人間のつかみ方(つかみなおし)には教養的中流下層階級者の視点を持つ人たちの共軛性があるのではないか。
3.『遙拝隊長』、第一回例会の討論から。
 (1) 戦後の平穏無事なこの村も、元陸軍中尉、岡崎悠一の異常な行動によって、「こうちがめげる」。彼は気が狂っている。そのため、彼の態度は、戦中・戦後を一貫して変わらない。その「変わらない人間」(狂いっぱなしの人間)によって否応なく問われる、周囲の、そして読者の戦中と戦後。あの『多甚古村』における「非常時」がいかに「異常」であったか。
 (2) その意味で、悠一は狂言回しとしての主人公の役割を果している。 
 (3) 炭買いの青年は悠一に「軍国主義の亡霊」「ファッショの遺物」という言葉をたたきつける。が、彼の言葉を注意深く聞いてみよう。――「危急存亡のときわしの自由が……」。彼の文体に反映している戦中と戦後の同居(さすが井伏、キメの細かい文章)。勢い込んだ調子の彼の戦後民主主義とは?
 (4) この村の出来事にとどまらず、戦後一時期の日本がつかみ直されている。 
 (5) あくまで「事実」を提示し、読者と共にそれを見すえ、そこに民衆の声を聴くという、井伏の基本的発想は変わらない。しかし、新たに加わった戦後の読者へ向けても訴えかけていくための、そこへ向けての表現というモメントが、制約として働いているかもしれない。そこから過剰な媒介としての表現も部分も見られるようだ。


1977/2/19 127[ 126と同日発行]

『遙拝隊長』第二回の研究例会を終えたところで
A.H
 なんという強烈な人物形象だろうか。私は“遙拝隊長”岡崎悠一の出現に唖然としつつ、「やっぱり井伏はすごい」という感慨を胸に、浮き足立って例会に臨んだ。
 冒頭、熊谷先生から貴重な問題提起がなされた。『遙拝隊長』は“倦怠の文学”であろうか。“待つ”という姿勢はあるのだろうか。あるとすれば、『多甚古村』とは違うものを待つことになるのではないか。『多甚古村』からの連続面、非連続面どちらが目立つ作品か。『漂民宇三郎』は一本勝負的に最高におもしろい作品である。しかし、教師として系統的なおもしろさを追求する立場からすると、『多甚古村』から『遙拝隊長』への軌跡はどうなのか。その場合『追剥の話』『犠牲』が前後に位置づくのではないか。
 『山椒魚』『朽助のゐる谷間』の井伏にでなければ期待できないといった作品に、多くの戦後作品はなりえているか、等々、文字どおり頭をガツンとやられた思いだった。指摘されて気がつくのだが、『多甚古村』をじっくりと読み合ってきて迎えた『遙拝隊長』の例会である。読みの構えとして、“倦怠の文学”を切り口として用意するのは当然のことだったのだ。そうだ、“倦怠の文学”として追求しているということを忘れてはいけない。
 自己の初期の印象をつき放し、課題意識が鮮明になった上で、作品の読みに入ることができた。
 全体を三つのパートに分ける。T.戦後の部分(全集p.306,l.15前後) U.戦中の話を中心に(p.318前後) V.戦後の話。
 二回の例会(T、U)でわかってきたこと。まず、岡崎悠一という狂人を軸に周囲の人間の戦中戦後、ひいては読者の戦中戦後を問うている作品であるということ。その意味で、悠一は一種の狂言回しを演じていると言えるのではないかということ。悠一の異常な言動によって、「こうちがめげる」のだが、「こうち」だけではない、オール日本がめげるのではないかということ。新たな戦争へと傾斜していった時局にあった当時の読者にとっては、一人一人自己の八月十五日を厳しく問われる作品であったろう。疎外の根源こそ変わったかもしれない、天皇制ファッシズムをいくら非難したところで、誰も困らなかったであろうから。しかし、太平洋戦争下の遙拝隊長と友村上等兵、“山椒魚”と“蛙”の疎外状況を克明に描いてみせ、“山椒魚”の奇行にめげる村民たちのプシコイデオロギーを描いてみせているこの作品は、戦後という“銃後”の世界を描写している、ととらえられるのではないか。ただし、悠一を犠牲者と見る教養的中流下層階級者の視点に立った場合に、ということである。
 「戦争ちゅうもんは贅沢なものじゃのう」、友村はこう言ったばかりに、命を落すはめに陥るのだが、これほど戦争の本質を鋭くえぐったことばがあったろうか。「朽助」が「何たるむごたらしい池じゃろうか」と嘆く、あの庶民のプシコイデオロギーをイメージゆたかにとらえた井伏から、脈々と流れ続けているものを感じるのである。ただ、その後に、「まるで、戦争というものを瞬時に縮尺して見せてくれたようなものである。戦争は贅沢どころの騒ぎでない」となぜ書き続けなければならなかったのか、理解に苦しむところである。表現と発想の問題も含めて、まだまだこれからという感じである。


1977/3/12 128

井伏文学と倦怠――例会をとおして考えたいろいろなこと――
H.S
 最近、倦怠という概念がやっとわかりかけてきたという気がする。今までぼくの頭の中では、倦怠という問題をこういうふうに捉えていた。それは『日本人の自画像』(熊谷孝著)の中にある文章である。「人間の孤独は歴史に属している。おそらく、それは間違いのないところである。しかも、それを単に歴史的なものと考えることは私たちの実感が許さない。(中略)問題は人間のエゴが歴史の進展とともに解消され尽すものかどうか、という一点にかかっている。いや、実を言えば、私たちの思索がぎりぎりのところまで来ると常にそのことを考えざるを得ないぐらいに、絶望が私たちの心をとらえて放さない、という現実に問題があるわけなのだろう。」(絶望――山椒魚)
 この熊谷先生の文章でぼくなりに“倦怠”を実感できるのであった。つまり、人間のエゴの救い難い姿の中に、ぼくは自己の倦怠を見つめていたわけである。倦怠ということが問題にされるごとにぼくはぼく自身の倦怠をここに位置づけていたわけである。この先生の文章がぼくにとって感動的で、そして、自己の倦怠とぴったりくるのは、ぼくが永い間、芥川の『羅生門』を自己流の読みで読んできた経験があるからだろう。つまり、熊谷先生のまったく新しい評価で眼からうろこが落ちるような大きな発想の転換を受けるまで、『羅生門』をずうっと読み誤ってきたわけであった。『蜘蛛の糸』もそうなのだけど、これらの作品を自己のエゴイズムにのたうちまわる姿として読んできたわけで、そういう呪縛に苦しみ、自己の倦怠感に圧倒されていた時期がかなり永かった。それはぼくにとって出口のない精神的状況ではあったと思うが、しかし、現在のぼくは、そういう読みの誤りがぼくにとってきわめて貴重に思えるのである。これは乱暴な言い方かもしれないが、ぼくみたいに読み誤る方がより倦怠の問題を実感としてつかめるのじゃないかと思ったりする(改稿過程が知識主義的にわかっては困るという意味で)。そしてぼくにとってその当時の倦怠というより、絶望の克服の仕方はその疎外をなくす方向で社会科学にとびついたということである。いや、あの時点でぼくはぼくなりに真剣であったと思うが、しかし、国語科の教師として、それは何か自己分裂も甚だしかったように思う。
 先の例会で熊谷先生はこういうふうにおっしゃった。単に事実的であることは人間に対して誠実であるとはいえない。物的・心的の両面からくぐらなければ人間的真実からほど遠いというふうに言われた。このことばにカツンときた。ほんとにそうだと思う。翻って定時制の生徒を思うとき、彼らのおかれている現実をくぐったって、本当の意味で、彼らに対して誠実であるとはいえないと思うのだ。そして、同時に、井伏文学のすばらしさに驚嘆もした。近代主義者としての自己を越えようとする井伏のまっとうな精神のあり様を。井伏の初期の作品『幽閉』や『山椒魚』はぼくにとって、まだ身近な作品だったが、彼がプシコイデオロギーとしての民衆の意識を探ろうとしはじめたところから、井伏の文学が遠い所にいってしまったという感じをもつようになってしまった。何故だろうか。文学はあくまで自己の存在証明だと思っていたのに、井伏は何故、自己の倦怠の問題を追求するのをやめて、庶民の倦怠を問題にするのかよくわからなかった。しかし、その彼の厳しい姿勢をぼくは少しも理解していなかったようだ。つまり、倦怠は単にインテリだけの問題ではない。庶民一人ひとりの心の中にもあり、それを「自分で自覚できず、ことばで表現しえないものを的確なことばで表現することによって庶民の倦怠を語った」。それは決して、井伏自身、自己の問題を放棄したのではなくて、まさしく近代主義者としての自己を克服するために彼の選んだ最も誠実な実践だったのである。先の例会の熊谷先生のお話はきわめて感動的で、今後の井伏文学と倦怠の問題への理解に展望が開けてきた。


1977/3/12 129

「2.26」 文教研誕生日の会を開きました。
2月の26日がちょうど土曜日だったのも好都合でした。当日会場の武蔵野公会堂に三十人近くの会員が集まり、一人ひとりの“文教研の歴史”を語りながら、楽しい集い……ということも、そうだったけど、むしろ、「文教研」の大切さを確かめあいました。
[1960年2月26日に文教研が誕生しました。現在、第二・第四土曜日に研究例会を持っています。]

宮城・文教研グループからの祝電
シチニンノサムライノゴ トクダ ンケツヲカタクススミタイモノトユキノシタヨリブ ンキョウケンノタンジ ヨウビ ヲオイワイイタシマス」


1977/5/28 132

杉山映子さん逝去
元 文教研会員/熊谷先生 長女
4月29日、38歳
偲ぶ
 あの時、あなたは大学生でした。
 そのあなたと 今写真で対面しようとは。 
映子さん
 私は小金井で開かれた文教研第一回全国集会の時の
 あなたがはっきりと頭にうかびます。
 参加者への心づくし、そして、疲れ果てた私たちへのいたわりが、
 どんなにあの集会を支えてくれたことか。 
映子さん
 私は機関誌「文学と教育」に残したあなたの人となりを偲んでいます。
 あなたのデザインやカットがどんなにユーモアとうるおいを与えたか。
 苦しかった文教研創世期に果たして下さったあなたの役割は
 とても紹介しきれません。
   お許し下さい。
                               文教研委員長 福田隆義


1977/6/11 133

文教研 自費出版図書に寄せて

『文学史の中の 井伏鱒二と太宰 治』(第25回全国集会の記録)
K.K(K音大生)/昨年、全国集会参加者)
 昨年の八月、何も知らずに参加した全国集会の会場で、文教研のみなさんの熱気に圧倒されたことが、昨日のように思い出されます。一ヶ月程前に、その記録集を読んで、再び、ずっしりとした重みを感じています。
 とくに、熊谷先生の講演の記録は、先生に直接おめにかかれたような喜びを感じつつ読みました。
 実朝の「ここまで努めてスラダニモ」と、この言葉を初めて耳にしてから、もう二年は経つというのに相変わらず、胸をグサッと突かれる思いでした。このことばに向かうと、やっぱり、小さくなってしまいます。
 直接、文教研を知らない人が是非譲ってほしいと言ってきたりすることもあります。もっともっと多くの方にも読んでいただきたく、私もできる限り広めたいと思っています。

『岐路に立つ国語教育』(熊谷 孝著、国語時評集)
O.T(B学院学生/全国集会二年連続参加)
 「すこし論理がなさすぎる」という文章には考えさせられた。民族精神を大和魂や武士道と読みまちがえて批判する人がいることを知ったからだ。はらがたってしようがなかった。自分のあやまった読みを前提に、平気で人をおとしめるようなことを書ける神経なんて私には理解しにくい。恐ろしいような、悲しいような気がする。
 それでも熊谷先生は一つ一つていねいに読みまちがいを指摘しながら誤解をとく努力をされている。するどい批判をされている。先生の人間としてのやさしさと教育に対するきびしい姿勢をみるような気がした。


1977/9/10 134

A.Yさんから常任委員会へ
 常任委員会案の研究企画ありがとうございました。あの暑い八月十日の総会以来、心待ちにしておりました。――秋風のつよくなった秋田の地で、うれしさのあまり、恐るおそる開封してみました。多分、多くの会員の方々がこんな心持なのでは、と思いながら。常任委員会の真意からはずれてしまうのでは、という心配もあるのですが、研究企画についての感想を書いてみたいと思います。
 まず、九月、十月の例会に予定されているジャンル論に、少しの不安と共に、小説以外の詩・説話文学などに取り組みながら、芸術とは、を学べる機会ができる喜びを感じています。自分だけの発想では、到達し得ないところまで進めそうな課題設定で、自己の課題が明確になってきている、と思います。
 少し不安といいましたのは、「備考 2)」にも関連すると思うのですが、私自身、教材化の視点が弱かったこと――教材を発見・発掘する努力が足らなかったこと、「授業」の構造化を真剣に考えていなかったことを、小説以外のジャンルではっきりと知らされたからなのです。小説で十分だった、とも言えないのですが。
 私事を書き連ねて申し訳ありませんが、その不安というか、反省するに到った事柄を数行延べさせて下さい。
 五月末より七月末まで、失語症患者○氏と、かなり四苦八苦の毎日を過ごしておりました。二カ月の間に、日常会話のある段階まで回復できたのですが、もう一つ壁をのりこえることができず、二人でもう終わりか、と思っていたのです。ところが、私が夏休みで三週間留守の間、もう一人の先生が患者さんが得意としていた俳句の世界にとびこみ、私と○氏とでは破れなかった壁の一部をゆうゆうと越していたのです。入ろう、入ろうと思いながら、私は俳句が苦手だからと眼前の○氏の条件など全く無視していた身勝手さを思い知らされた訳でした。「授業」は成り立ちえなかったのです。
 こんなところから、不安を覚えましたが、今では、むしろ素直に力量不足を恥じて、自己の課題としたいと思うようになってきていました。――それで、小説以外のという設定が大変にうれしかったのです。自分勝手なよみとりになっているとは思いますが、これを契機に移調することを勉強し直したいと思っています。
 さらに、これまでの研究計画でも、たびたび指摘され、例会や合宿などでも励まされ続けてきたことですが、一人ひとりが、文教研会員であり、自分たちが文教研をつくっているのだということをはっきりと位置づけられた、反省と同時に、私にとっての大きな課題となりました。
 昨年度は、ほんのわずかの発言をし、しかも、そのために混乱をまねいたりしたのですが、自分自身にとっては自己の印象を確かにするための大変有効な手段であったと思っています。夏の集会で、仲間をみごろしにした冷たさを来年はなくせるようにしたい。その意味でも、今度の計画案に大変感動しています。
 詳細にわたって検討することができなくて、とても心苦しいのですが、それは私自身の課題とさせていただいて、長々しい感想を終りにしたいと思います。
 九月十日の総会が成功いたしますように。  1977.8.25


1976/9/24 135

〔総会決定事項〕
例会の時間変更  p.m.4:30〜8:10 

 今迄より40分遅く始まることになります。遠距離から参加する方々を配慮してのことです。
 夕食休憩もとりますが、今迄のように1時間はとりません。会場内で簡単にツマムという程度ですので、そのつもりで準備して参加してください。
年間各自一論文
 9月の総会では、昨年確認した事も含めて、今年度はさらに一つ、年間に一つは各自が論文をまとめる、ということが決まりました。すべてというわけにはいかないと思いますが、機関誌やニュース特別号などに発表していくつもりです。論文のテーマは福田委員長に届けることになっています。ご準備ください。

寒川道夫先生
 寒川道夫先生が、去る8月の17日亡くなられました。2月以来、半年にわたる闘病生活の末のことでした。どんな病気でも気力さえしっかりしていればなおるものだ、というのが寒川先生の持論でした。癌でした。
 寒川先生は先生独特の理解の仕方もあったようですが、文教研のチューターをされたこともあり、古くから文教研のよき理解者でありました。そして、いろいろな形で私たちを励ましてくださいました。
 みなさんと共に、先生のご冥福をお祈りしたいと思います。

児童文学研究会
 9月29日(木) p.m.6:00 於、武蔵野公会堂

第10回 大内さんのリサイタル
10月15日(土) p.m.6.30 於、安田生命ホール(新宿駅西口)


1977/10/8 136

9月例会(9/24)
 (報告のまとめが担当者からまだ届いていませんので、代わりに……)
 最初、熊谷先生から、アランの詩についての考え方(美は実用の上にしか栄えない。詩の韻は記憶するためにあった。)や「詩以外に芸術はない。」といったサルトルのジャンル論が紹介されました。ただ、この場合([サルトルの場合])「詩」といったり、、「散文」といったりしているこの言葉は、どうも彼独特の使い方をしているようだ素材主義やイデオロギー主義の文学に、彼がどんなにたたかいをいどんでいるか、そこのところを頭の中に入れた上で、彼のジャンル論はみなくてはならない。熊谷先生からはこういう指摘もされました。
 『戦場』(花森安治)『かきつばた』(井伏鱒二)の読みをとおして、詩の伝えは せまい!のか? 詩語というものは ない!のか? 詩にもナレーターは いる!のか? こんな論議がなされました。
 いずれ、まとめたかたちで報告が成されると思います。
 なるほど、と思ったことの一つ。
 “詩的体験は文学的体験であると言いうるが、文学的体験は詩的体験であるとは言いえない。”(熊谷先生)   〔文責 S〕

案内
 熊谷先生が国立音大の芸術祭で講演をされます。
〈題〉対話の回復―現代の詩精神と散文精神―
  ★国立音大本館で
  ★10月29日(土) p.m.1:30〜3:00

児童文学研究会
 前回の研究会では、佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」をとりあげました。その他にこの作品に関する批評、とくにファンタジー論についても検討しました。
 次回はいぬい・とみこの作品も加えて、ひきつづきやる予定です。


1977/10/8 137 [前号と同日発行]

対話の回復―現代の詩精神と散文精神―
 〈前号で熊谷先生の講演の案内をしましたが、次のような主旨で行なわれます。重ねてご案内いたします〉
 ●われわれは、どうして、いつも、似たり寄ったりの相手としか話し合おうとしないのだろうか? いつもいつも、どうして、あまり意味を持つとも思われないような話題の繰り返しに終始しがちなのだろう。
 あれは対話なんてものじゃない。自分のひとりごとを、何人かでわけあって、喋っているのと同じことだ。そこには自分の世界の広がりも深まりもない。若い、しかし精神の老年者のただの茶飲み話。
 われわれに向って、現代文学が訴え続けていることは、詩の場合の散文の場合も、お互い、対話する人間になろうということだ。対話の回復による、現代的人間疎外からの主体の回復ということである。
 その辺のことを、具体的な作家の場合に即して、当日に。〈熊谷 孝〉

「日本文学」10月号
 荒川有史さんの論文「文学教育論の課題」が載っています。
 ●これは、同誌3月号に載った江頭肇氏の文学教育論への反論であり、熊谷理論に対するいわれなき中傷に応えたものである。(荒川有史)


1977/10/22 138

年間、ひとり一論文を

 9月総会で決定した「ひとり一論文」のテーマと、脱稿期日はもう決めましたか。この課題の成否は、今後の文教研の発展を占う試金石だと思います。
 同じ総会で、機関誌「文学と教育」の誌友や読者の拡大が提案されました。が、せめて背文字のある体裁にまで増頁することが、前提条件のように思います。増頁、それは会員めいめいが、すぐれたライターになったとき、はじめて可能です。
 がんばりましょう。お役にたつような仕事がありましたら、いつでも常任委員に相談を持ちかけてください。  委員長 福田隆義


1977/10/29 139

会員しょうそく
 大内さんのリサイタルは10月15日、新宿で開かれましたが、450席の上なお立っている人がいたほどの盛況でした。
 また、これと一連のものとして、10月27日(木)には水戸でリサイタルを開きます。


1977/11/12 140

『戦場』
 ここのところ、何人かの方が『戦場』の実践をされました。それも、きいてみましたら、小、中、高、大にわたっているのです。たいへん、めずらしい例だと思います。授業された方々には御願いしておきましたので、これから、そのいくつかを紹介していくつもりです。
 
『戦場』―中学三年の場合 N.T
  「暮しの手帖」96号('68年)が出版された直後の文教研合宿研究会。午前の部の最後に、熊谷先生が『戦場』を朗読された。感動のあまり、「食事にしましょう」と先生に促されるまで、誰も席を立つことができなかった。それ以後、私は中学三年生を担当するたびに、この詩を持ち込んだ。今まで、たくさん教えたいことがあるように思え、欲をかきすぎていたようだが……。
 本年六月。井伏鱒二『遙拝隊長』と組んで文学体験のユニットを構成する。テキストは大乗印刷所製のしれいな写植印刷。本番は『遙拝隊長』という意識がどこかにあったことが幸いしてか、今回はあまり欲をかかない授業となった。96号(「暮しの手帖」)掲載の戦争中の暮らしの写真を手がかりに、当時の庶民の生活を紹介した後、『戦場』の音読。コメントをそえた後、印象を発表し合う。「詩はわかりにくいものと思っていたが、この詩はちがう。」ということで、印象が次々に語られる。この詩が中学生の心をどんなにとらえたのか、次の『遙拝隊長』の授業の中であらためて感じることができた。
 『遙拝隊長』第二パート「海の向うの戦場」場面。「『戦場』と『遙拝隊長』とつづけてやるからこの作品をどうしても比べてしまう。『戦場』を読むと自分がやられているような感じになってしまうし、自分まで胸をかきむしられるような気がするのだが、『遙拝隊長』は何だかのんびりしているようで、戦場を感じない。」という声が出る。似た声が何人か続く。そのうち、「のんびりなどしていない」という反論が出る。爆弾池に水牛が二頭つかっている……こんなに大きな穴があくということは……直撃されたら生命がないということだ――。やっと井伏文学の解き口がをつかむきっかけができたわけだが――。
 私の最初のねらいはこの二つの作品に共通な「庶民の立場からの戦争体験のつかみ直し」という発想に眼を向けさせたかったのだが、はからずも、この二作品の表現のありようのちがいに、生徒たちは眼を向けた。一方は詩で一方は小説であるという、今から思えばわかりきったことは、生徒に話すことができたのだが、詩とは? 小説とは? 何なのか話すことはできなかった。十月二十九日、国立音大文化祭での熊谷先生の講演を窺うことで、非情にはっきりした。六月の時点で、教師である私にその準備があったなら、『戦場』という詩、『遙拝隊長』という小説の鑑賞が深まるとともに、生徒にジャンル意識をもたせるよい機会にすることができたのに、と、自己の日頃の不勉強に恥じ入っている昨今である。


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