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 ウォーナー伝説と敦煌(続き) 
 

 今年(2002年)の3月、NHK総合テレビが現代の映像 「ウォーナー・リストの戦後」を放送した。ウォーナーがリストを作って戦禍から護った貴重な文化財が、戦後になって法隆寺金堂の壁画や金閣をはじめいくつも失われている事実を伝えるとともに、あらためてウォーナーが日本の文化財に寄せた理解と愛情を視聴者に訴える内容となっている。

 これは実は1970年5月に放送した番組の再放送である。ということは、NHKはこの番組を制作した当時も、今も、ウォーナー恩人説を肯定する立場にあることを示しているといえよう。

 そこで、ウォーナーと親交があり、テレビにも登場した美術研究家矢代幸雄の 「ウォーナーのことども」を読んでみた(『忘れ得ぬ人びと』1984年2月 岩波書店)。この中には1946年7月に『文芸春秋』に発表した「ウォーナー君と日本」が再録されている。

 それによると噂を聞いた矢代がGHQを訪ねて関係者に直接に事情を聞いた結果、「米国は開戦と共に「戦争地域における美術及び歴史遺蹟の保護救済に関する員会」を設け、連邦最高裁判所判事ロバーツ氏を委員長となし、ウォーナー君はこの委員会を通じて奈良・京都の文化価値を力説し、その救済を政治と軍部との上層部に働きかけたそうである。余は、この事は単に日本のためのみならず、文化尊重の美談として人類的意義あるを思い」1945年11月の『朝日新聞』に談話を発表したこと、また「余はウォーナー君に対する感謝の記念碑でも奈良に建てたならば如何か、と思う」とも書いている。

 そして敦煌のウォーナーについても触れているが、「その時の彼の最大なる努力と功績とは、敦煌千仏洞より美しき塑像の菩薩像一体を米国に持ち帰ったことであった」と、「稀に見る秀作」をアメリカに持ってきたウォーナーの努力を高く評価しているのである。



 6月のある日、JR鎌倉駅前にあるウォーナー記念碑を訪ねた。観光客で賑わう鶴岡八幡宮側とは反対の改札口を出ると右手に木の植えられた小さな広場があり、そこに幅70センチほど、高さ 2メートルばかりの記念碑が建っていた。

 一番上にウォーナ ーの顔の丸いレリーフをはめて、その下にやや大きな字で横書きに「文化は戦争に優先する」 と彫られている。その下に「博士は夙に日本美術および文化を研鑚し造詣すこぶる深かった。太平洋戦争の勃発に際し氏は、日本の三古都をはじめ全土にわたる 芸術的歴史的建造物には決して戦禍の及ばぬよう強く訴えた。そして日本の多くの文化財は爆撃を免れた。博士の主張の成果というべきであろう。われら鎌倉を愛する有志相計り古都保存法制定20周年を機として、ウォーナー博士が歴史と文化の保護に示した強靭な意志を永く伝え学ぶため記念碑を建てる。 1987年4月 ウォーナー博士の記念碑を建てる会」と建碑の趣旨が彫られ、英文で同様の趣旨がさらにその下に書かれている。

 どれほどの人がこの碑に足を止めているのか分からないが、古都鎌倉もまたウォーナーによって救われたと信じられているようである。

 このようにみてくると、ウォーナー伝説は今日も依然として大きな力をもっているように思われる。

 一方、敦煌におけるウォーナーの所業に関連して最近ある新聞記事が目にとまった。100年程前の大谷探検隊の収集品に関するものである(『朝日新聞』夕刊 2002年6月15 日)。敦煌などの仏教遺蹟調査のために浄土真宗本願寺派の22代宗主大谷光瑞が派遣した「探検隊が持ち帰った収集品の多くは、学術的に未整理のまま売却され、分散」。 売却を免れたものの一部と思われる9000点を所蔵する龍谷大学が電子データ化してインターネットで研究者に公開していくことになったというものである。

 この短い記事は図らずも戦前の学術調査の一端を示しているように思われる。現在ではこんなことは考えられない。「文化財所有権の不法な輸入、輸出、移転を禁止し予防する手段に関する1970年の条約」や1972年の「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」などによるユネスコの世界文化遺産保護活動が国際的に展開されているからである。

 現在東京藝術大学大学美術館で開催されている 「アフガニスタン悠久の歴史展」を見れば今の常識がよく分かる。今の常識が常識ではなかった頃の文化財の不法な持出しが咎められないならば、そして立場を持出された国の人の側に置くならば、その時の常識という今の非常識をその国の人たちが糾弾するのも当然のことと考えられる。

 ところでこの8月に『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』という題の文庫本が出版された(『朝日文庫』)。早速買い求めたが、内容をみていささかがっかりした。というのは、この本は1995年7月に『京都に原爆を投下せよ』という題で角川書店から出版されたものの再刊だったからである。著者吉田守男氏は歴史研究者で、この本に先立つ1994年7月には学会誌『日本史研究』に論文「ウォーナー伝説批判」を発表している。この吉田氏の研究は、多くの日本人に信じられているウォーナー恩人説に一石 を投じたものといえる。


 第二次世界大戦末期におけるアメリカの対日政策が、戦後におけるソ連との対立、冷戦を見通した高度の政治的判断に基づくものであったことはよく知られている。 広島・長崎への原爆投下もまたこうした事情と深く関係していたことを内外の諸研究が明らかにしている。

 原爆投下の問題とウォーナー伝説を詳しく論じた吉田守男氏によれば、1945年5月アメリカの原爆目標選定委員会は、京都・広島・横浜・小倉の4都市を目標として選定した。京都が選ばれたおもな理由は、未空襲の100万都市であること、地形的(盆地)に最大の爆撃効果を得られること、日本人にとって特別な意味を持つ京都が被爆した時の心理的ショックが抗戦意欲をなくすといった効果を生み出すだろうというものであった。 以後京都は原爆投下目標地として空襲禁止都市となった。 しかし、それ以前は決して空襲の例外とはされていなかったのである(実際に何回かの小空襲があった)

 では、京都になぜ原爆は投下されなかったのだろうか。

 それは、戦後の国際政治の中で日本をアメリカの陣営につなぎとめるには、京都の破壊は避けなければならないとするスチムソン陸軍長官の決断によるものであった(京都の代わりに目標に追加されたのが長崎である)。彼は1945年7月の日記に、もし京都が原爆の目標から除外されなければ 「日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近 させることになるだろう (中略) と私は指摘した」 と記している。

 京都が戦禍を免れたのは、こうしたアメリカの高度な政治的判断によるものであり、文化遺産を戦禍から守るといった理由からではないのである。 各地の貴重な文化財が多数戦災で失われたことは否定することのできない事実であり、奈良・鎌倉が戦災を免れたのは、人口・軍事施設などによる空爆目標の順位が下位だったからである。

 とすれば、ウォーナー伝説はなぜ生まれたのだろうか。

 戦後の日本にウォーナー恩人説を広めたのは、1945年11月11日の 『朝日新聞』 が 「京都・奈良無疵の裏、作戦国境を越えて、人類の宝を守る、米軍の陰に日本美術通」 といった見出しの記事で、美術研究家矢代幸雄の談話を添えてウォーナーの功績をたたえたことが大きいだろう。

 しかし記事にあるロバート委員会とウォーナーによる文化財リストの作成について吉田守男氏は、委員会は戦争地域の文化財に関してアメリカの学者・知識人を中心に1943年に組織され、リストは多数の国について作成した文化財のリストであり、日本のものはそのひとつに過ぎず、決して日本だけの特別なものではなかったこと、しかも、その第一の目的が貴重な文化財を戦禍から守ることにあったわけではなかったことを明らかにしている。

 また、さきの新聞記事には 「現在マックァーサー司令部の文教部長たるへンダーソン中佐が日本に進駐してはじめてウォーナー氏の並々ならぬ努力の秘話が伝えられたのである」 と書かれている。 吉田守男氏は、この辺の事情についても詳細に調べて次のように結論した。 戦後日本を占領したアメリカは、軍国主義を否定するとともに親米的な感情を作り出さねばならなかった。 そのために、民間情報教育局(CIE)の対日活動の一環として意図的に作り出されたのがこのウォーナー伝説である、と。

 さきのスチムソンも、戦後の1947年2月に発表した 「原子爆弾使用の決断」 では、京都は 「日本の旧都であり、日本の芸術と文化の聖地であった。 われわれはこの町を救うべきことを決 めた」 と、文化遺産の保護こそが第一の理由と書いている。 これはその後公刊されたアメリカ軍の戦史やトルーマン元大統領の回想録などに繰り返し引用されているそうで ある。

 日本人にとって、暑い夏は戦争と向き合う季節である。 戦後57年間、実に半世紀を越えて日本は世界のどの国とも戦争をしなかった。 このことを大切に思いながら、もし戦争が始まれば、政治的・軍事的な理由を超える判断の理由は、今後ともありえないだろうということを、このウォーナー伝説の真実は改めて感じさせてくれるのである。 


追 記 (1)
 福島県会津の古刹勝常寺を訪ねたらここにもウォーナー碑があった。ウォーナーと日本での恩師六角紫水、日本画の大家横山大観の三人が1946年7月に東京築地で会食した折、「東北では勝常寺の会津と中尊寺をリストに入れておいた」とウォーナーが語ったと碑に彫られていた。この碑は1981年夏に建てられたがそのいきさつは不明。ウォーナー伝説の根強さをあらためて感じた。(2005年6月)

追 記 (2)
 『毎日新聞』(2007年1月14日)が「個人が歴史を変えた」「回避された京都への原爆」という見出しで五百旗頭真さん(防衛大学校長)の文章を2面に掲載した。わりと大きなスペースである。
 五百旗頭さんは、原爆投下の候補地だった京都が候補地からはずれたのは、スチムソン陸軍長官の戦略的な決断によることを述べ、その決断の背景にはスチムソン夫妻の1928年秋の京都観光の経験があり、「戦前の京都と日本を愛でたスチムソンは、戦時にあって感情を排した硬派の戦略論の言葉をもって敵国日本への配慮を貫いたのであった。個人が歴史の運命をささやかに変えた一例である」と結んでいる。
 京都を原爆から救った真の恩人はスチムソンであるという新しい恩人説の登場だろうか。1947年の 「原子爆弾使用の決断」というスチムソンの一文も含めて、五百旗頭さんが説く一連の経緯は、小文で紹介した吉田守男さんがすでに明らかにしていることを出ていない。
 とすれば戦後巷間に流布したウォーナー恩人説との関係に触れなければスチムソン恩人説はあまり説得的とはいえないだろう。五百旗頭さんがウォーナーについて一言も触れていないのはなぜだろうか。(2007年1月)                        


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[ちょっと長めのエッセイの森]http://members2.jcom.home.ne.jp/mta5-8hg3yd7/
「ウォーナー伝説と敦煌」は高橋正幸著『旅の情景――心の会話』(2005年 近代文芸社刊)に収録されています。

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