観光地の人の動きはだいたい決まっているもので、それを外れると嘘みたいに静かだったりする。 法隆寺も例外ではない。 有名な金堂や五重塔のある西院(さいいん)も、中門を出て西へ少し歩くと人影がまばらになる。人びとはみな東へ、夢殿の方へと向かうからである。
西院の西側には回廊に平行して南北に棟の長い三経院と西室(にしむろ)が建ち、その左手奥の高台には八角形の西円堂(さいえんどう)が控えている。 両方とも鎌倉時代(13世紀)の再建であるが国宝で、西円堂の本尊薬師如来は奈良時代(8世紀)の仏像でこれも国宝に指定されている。 このご本尊には今も地元の人たちの参詣する姿が絶えず、信仰が生きているといった感じである。
石段を登ってこのお堂の前に立つと、左手の築地塀の向こう、木立の中に五輪塔を見ることが出来る。 堂守に尋ねると、「そう、あれがウォーナーさんの塔だよ」
といった返事が返ってきた。 すぐ近くだがそこへ行くにはいったん南へ戻って西大門を出て、改めて塀沿いに緩やかな坂道を登らなければならない。 物好きでないとまず訪ねては来ないところだろう。
11月も終りに近くなると、紅葉もだいぶ散って冬の気配が漂い始めるようになる。 そんな静かな樹間に塔は建っていた。 やや丈の低い五輪塔が二つ、左がウォーナーの供養塔で右は平子鐸嶺(ひらこたくれい)の供養塔である。 左はしの石柱には、表に「IN MEMORY OF LANGDON WARNER ウォーナー塔」とあり、裏には 「昭和三十三年六月九日修建」 と記されている。 そして左手前にある石碑には、1957年11月3日に除幕供養、1973年6月9日に石碑を建てたとあり、ウォーナーの略歴には、1903年に来日して岡倉天心や法隆寺の佐伯定胤の知遇を得たこと、アジア太平洋戦争の際に奈良・京都を戦禍から守ったことなどが記されている。恐らく法隆寺はこうした事情から、1955年6月9日にウォーナーが亡くなると供養塔を建てることにしたのであろう。
なお、もう一つの供養塔の平子鐸嶺は画家であるが、建築学者関野貞とともに法隆寺の再建・非再建をめぐって、非再建の立場から歴史学者喜田貞吉と論争を展開した人物である。しかし
1911年に34歳の若さで亡くなった。 鐸嶺の活躍を徳として供養塔が建てられたのであろう。(喜田貞吉との論争は1905-06年にたたかわされた。足立康編『法隆寺再建非再建論争史』1941年10月、龍吟社 に詳しい。)
「ウォーナーの努力で奈良や京都が戦災を免れた」「 ウォーナーは貴重な文化財を戦禍から守ってくれた恩人」といったウォーナーへの評価は、おそらく日本人の間に行き渡っているのではないだろうか。
たとえば立原正秋の小説 『春の鐘』(1978年)に、主人公が法隆寺で連れの女性にする話の中に次のような一節がある。
この法隆寺については一つの感動的な話がある。 いや法隆寺だけでなく奈良、京都、鎌倉がその恩恵を受けているわけだが、あの大きな戦争で日本の大都市が空襲を受けたのに、奈良や京都の寺院は空襲を受けなかった。
というのは、当時、アメリカのハーバード大学で東洋美術を研究していた人にウォーナーという博士がいた。 彼は東洋美術の学者達をあつめ、日本の文化財のうち重要な個所には爆撃を加えないよう除外すべきだ、と目録をつくった。
アメリカ軍はその目録をもとに日本の文化財に爆撃を加えなかった。 ウォーナー博士は目録の筆頭にこの法隆寺をあげていた。 文化財は単に日本だけのものではなく人類の遺産だという考えがあったのだと思う。 |
私もそう思っていた一人である。 しかし中国を旅行して驚いた。中国ではウォーナーは日本とは全く反対の評価を受けていたからである。
中国の古都洛陽に泊ったのはちょうど仲秋の名月の夜であった。 いつもにぎわっている夜店もこの夜は特別で、大きな月餅が人々の楽しみのようであった。
中国を旅していると、日本人が失った生活や風景が今も生きているといった思いを深くするが、天候に恵まれたこの名月の夜の光景は私には特に印象深かった。
洛陽の近くには有名な龍門石窟がある。 さすがに観光地のせいか土産店も見学者も多い。全体として明るい雰囲気のなかで仏像を次々と見ていて気付くのは首のない仏様が目立つことだ。
実はここに来る前に恐県で小さな石窟寺院を見学したのだが、そこでも頭部のない仏像が目立った。
管理人は、これはいずれも日本人をはじめ外国人のやったことだと怒りをおさえるように話してくれたのを忘れることができない。 それだけに龍門石窟でこのようすを見たときには
「ああ、またか」 といった思いを持ったのも無理ならぬことであったろう。 しかし、よく聞くとこうした仏像の破壊は、外国人ば かりではなく、文化大革命のときに行われたものも多いそうである。
だからといってこれまでの外国人の所業が帳消しになるものでもないだろう。 こうした心の痛む思いが極点に達したのは敦煌を見学したときだった。
数年後のことになるが、文字どおりはるばるといった感じで敦煌(とんこう)にやってきた。しかし、莫高窟の入口を入るとなぜか一切の写真が禁じられる。 石窟内はもちろんだが外観の写真もである。 そのうえ見学する石窟も案内人に従うだけで希望を出すことも出来ない。
それなりの理由があるのだろうが、何か釈然としない感じである。それでも大きな岩壁に蜂の巣のように掘られた石窟、それらをつなぐ桟(かけはし)といった、写真でおなじみの風景の中を今歩いているのだと思うとこみ上げてくるものがある。
いくつもの時代の特色を示す仏像と壁画、それもよく彩色が残っているものが多く、説明を聞きながら見るにつけてもこの厳しい自然環境の中にこれだけのものがつくられたということ、そして今日に伝えられているということが不思議としかいいようがない。
20世紀のはじめにイギリスのスタインが大量の書画経巻を持ち出してここ莫高窟が世界の注目を集めた17窟蔵経洞にまつわるエピソードをはじめ、 西域の石窟寺院をめぐっての外国人にまつわる話は尽きないが、その多くは仏像や壁画の持ち出しに関するものであった。
その最たるものは1906年のドイツのル・コック隊によるトルファン ベゼクリク千仏洞からの大量の壁画の持ち出しであろう。 ほとんどすべての壁画がはがされている石窟がいくつもあるそうである。
そしてここ莫高窟で有名なのが驚くことにあのウォーナーの所業である。
今回見学できた323窟は唐代初期のものだが、南壁の 「アショカ王金像出現伝説図」 の中央部分が四角に剥ぎ取られて痛々しい。 これについて、ウォーナーは自著『シナ古
代長行路』に次のように記しているそうである。
崩れかけた顔料を固定させる無色の液体を最初に塗り、つぎに顔料部分に熱した膠状の層を塗ることにした。 しかしここに予期せぬ難関があった。 洞窟の気温が零下だったため、私の塗った化学薬品が凍結しないで漆喰の壁に浸みとおるかどうかとても自信がなかったし、煮えたつゼリー状の液を、こわばってしまう前に垂直の表面にうまくのせるのはほとんど不可能に近かった。…
私は溶けた飴のようになって煮えたつ液体のしずくを上向いた自分の顔や頭、衣類などにたらしながら何とか塗りつけ、それからゼラチン状に固まる微妙なタイミングをできる限りの
手ざわり感覚の器用さではかり、指をそろえて塗った壁面にくっつけ剥がすのである。… 毎夜、私の行為への自責の念と暗い絶望が私をおそったが、毎朝これを克服しつゝ五日の間朝から晩まで働き、荷造りまで終えた。 |
ウォーナが調査のために莫高窟を訪れたのは1924年だが、調査の範囲を超えて、計画的に、「自責の念と暗い絶望」 と戦いながら持ち去った壁画は26種にのぼり、その他に328窟の唐代の魅力的な跪坐菩薩像のような仏像がある。
これらの多くは、ウォーナ ーの母校であり、また教鞭も取ったアメリカ ボストン郊外のハーバード大学付属フォ ッグ美術館に現在収められている。(田川純三『敦煌石窟』1982年4月、NHKブックス)
ウォーナーは、日本では恩人だが、中国では悪人・盗人として語り伝えられているのである。
さきの立原正秋の小説にあるような「文化財は単に日本だけのものではなく人類の遺産だという」高邁な精神で日本の文化財を守ったウォーナーと、美に目がくらんで自国に持ち出すことをやめられなかったウォーナーと、そのどちらが真実の彼の姿なのだろうか。それともこの矛盾した姿こそが人間のありようなのだろうか。世界の美術館や博物館の収蔵品、それに多くの個人コレクションの成り立ちを考えるならば、今日では許されることのないことも許された時代のしからしむるところと理解するしかないのだろうか。しかしその前に、京都・奈良の文化財を戦禍から守ったとする伝説を検討してみる必要がありそうである。
(続く)
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