吉野源三郎 よむ年表

 【主な参考文献】 を付した文献は小出陽子氏の探索・提供による)

  吉野源三郎『石だんの思い出』(ポプラ社 1963)所収「年譜」)
  吉野源三郎『同時代のこと―ヴェトナム戦争を忘れるな』(岩波新書青版 岩波書店 1974)
  吉野源三郎『職業としての編集者』(岩波新書新赤版 岩波書店 1989)
  吉野源三郎『平和への意志 「世界」編集後記 一九四六-五五年』(岩波書店 1995)
  吉野源三郎『「戦後」への訣別 「世界」編集後記 一九五六 - 六〇年』(岩波書店 1995)
  吉野源三郎『人間を信じる』(岩波現代文庫 岩波書店 2011)
  
  堀尾輝久×吉野源三郎(対談)「思想・文化・教育」(新日本出版社『季刊科学と思想』1972.4)
   〈→堀尾輝久『教育と人間をめぐる対話』(新日本出版社 1977)に収録〉  
   
※1931  1932  1935  1946  1970  1977に記事補充(2019.9.29  2019.12.15)
  小林 勇『一本の道』(岩波書店 1975)  ※1945 1946 に記事補充(2018.9.14)
  富士晴英「吉野源三郎と『世界』」(歴史科学協議会『歴史評論』 1996)
  富士晴英「戦前・戦中期の吉野源三郎」(宝仙学園中学・高等学校『学園紀要』 1997)
  永野朋子『いいものを少し、山本有三の事ども』(独歩書林 1998)   
※1931-1932 1937 1939に記事補充(2018.9.14)
    佐藤卓己「管制高地に立つ編集者・吉野源三郎 ― 平和運動における軍事的リーダーシップ」
       (千倉書房 2014 『近代日本のリーダーシップ――岐路に立つ指導者たち』第12章) 
        
※佐藤論文により、1942.5 1942.10 1949 1955.5 1969.3 1976.1 に記事補充(2019.6.24)

  『岩波書店五十年』(岩波書店 1963)
  『日本史年表』(岩波書店 1966)
  『近代日本総合年表』(岩波書店 1968)
  『総合現代史年表』(立命館大学人文科学研究所 1999)
  中村政則他 編『年表昭和・平成史』(岩波ブックレット 岩波書店 2012)
 ( 最終更新日 2019.12.15)
1899年
(明治32)
 0歳 ・4月9日、父源吉・母くめの三男として、東京市牛込区新小川町一丁目五番地に生まれた。源吉は明治初年の両替商を経て、東京株式取引所の仲買人。
・兄二人、姉一人。翌年妹が生まれ、五人兄弟の下から二番目として育つ。
《明治から大正にかけての兜町というのは、江戸の町人の趣味や文化がまだ生き生きと残っていて、洗練された都会人の神経を誇りとしていた土地です。安政生まれの私の父などはその典型的な男で、自分自身一中節なんかを長くやっていて、芸事が人一倍好きだったものですから、私の家にはしじゅう芸人とか芸者が出入りしていました。育った環境からいうと、私は江戸音曲や歌舞伎の世界を身近なものとして、その古い伝統のなかにいたわけで、そのままいけば、角帯をしめて白足袋をはいていたはずの人間だったのです。/父から受けた教育は、一口でいえば、都会人としての神経です。》(吉野「編集者の仕事――私の歩んだ道」『職業としての編集者』1989 所収 原題:「出版の仕事がしたい――編集者」1969/以下、吉野「編集者の仕事」)

《こんな都会人気質から抜け出すのに、後年、かなり苦労したことも事実です。これを抜け出せなかったら、現代での肝心な問題を理解することはできなかったからです。》(吉野「編集者の仕事」)           
1900年
(明治33)
 1歳


1901年
(明治34)
 2歳


1902年
(明治35)
 3歳


1903年
(明治36)
 4歳


1904年
(明治37)
 5歳


1905年
(明治38)
 6歳 ・4月、麹町区富士見幼稚園に入園。  《読書は幼稚園のころからはじめていましたが、いまだに心に残っているものといえば、三国志とか漢楚軍談、太平記の類で、家庭的環境には西欧の文化につながるものはほとんどなかったのです。》 (吉野「編集者の仕事」)
1906年
(明治39)
 7歳 ・4月、東京高等師範附属小学校に入学。当時附属小学校は神田一ツ橋(現、岩波書店の所)にあり、四年生のとき大塚に移転した。
1907年
(明治40)
8歳 〇足尾銅山暴動、軍隊出動(2月、6月)  
1908年
(明治41)
9歳   
1909年
(明治42)
 10歳 〇新聞紙法公布(5月) 
1910年
(明治43)
11歳 〇大逆事件の検挙開始(5月)
〇韓国併合(8月)
 
1911年
(明治44)
12歳 ・1月、妹の死にあう。

〇大逆事件に判決下る(1月)
〇辛亥革命(10月)  
1912年
(明治45/
大正元)
13歳 ・4月、東京高等師範附属中学校に進学。
・中学時代は柔道と野球に熱中して、四年生まで両方の選手だった。
五年生になってから、野球の主将となり、柔道からは遠ざかる。


〇明治天皇没(7月30日)


《母方の祖父がアマチュアの漢学者で、…そんなこともあってか、論語とか孟子は、中学一、二年のころの私の愛読書でした。いまの私にモラリストの側面があるとすれば、このころの儒教的な影響によるものではないでしょうか。》(吉野「編集者の仕事」)

《私の父方の祖母が、どういう風のふきまわしか、晩年にロシア正教の信者になったものですから、私の家には古い聖書や聖書関係の本がたくさん残っていました。/このようにして育った私がガラリと変わるようになったのは、中学生になって、祖母の遺品だった新約聖書を手にしてからです。》(吉野「編集者の仕事」)

《一朝にしてだれからも口をきいてもらえない孤立の中に落とされて、私は十五歳でしたが、はじめて孤独のなかで本を読むことを知りました。そのとき偶然手にしたのが聖書であって、私は四つの福音書を読み、そこにいままで全く知らなかった世界があることを教えられました。》(吉野「編集者の仕事」)

《やがて聖書から『聖書の研究』を手にするようになり、私は内村鑑三さんの存在を知るようになりました。》(吉野「編集者の仕事」)
          
1913年
(大正2)
14歳 〇護憲運動(大正政変)

        
1914年
(大正3)
15歳 ・孤独の中で読書することに目覚める。

〇第一次世界大戦始まる(7月28日)










             
1915年
(大正4)
16歳 〇対華21ヵ条要求(1月18日)   《中学の四年、五年、高校へかけて、私はトルストイに心酔してすごしました。…( 『わが懺悔』『人生論』『何をなすべきか』『光あるうちに光の中を歩め』など)…つぎつぎに読んで、私は深い影響を受けました。社会問題に私が目を向けるようになったのも、このような思想からでした。》 (吉野「編集者の仕事」)

《いわゆる大正デモクラシーの時代で、私もその時代の動きの中で社会というものに眼を開かれたのですが、社会の現実を知るとともに、私の心にかかる問題となったのは、現実がけっして正しい世の中ではないということ、自分の責任でもないのに不幸な目にあっている人がいかに多いか、ということでした。》(吉野「編集者の仕事」)

《時代はちょうど第一次世界大戦の終った直後の時期にあたり、大戦中に輩出した成金たちの眼にあまる贅沢や愚行も耳にしていたし、未曾有の物価の高騰で多くの人たちが苦しんだことも、その矛盾から一九一八年に米騒動が勃発したことも、まだ生々しい記憶であった。その上に私の家自身が大戦直後の恐慌で没落した多くの商家の中の一つであった。…/私は、ストリンドベリイに熱中するかたわら河上肇さんの「社会問題研究」や、クロポトキンの「青年に訴う」を読み、当時漸く台頭して来た労働運動や無産者解放運動に共感を抱いていた。そんなわけで、『ヨブ記』にはじめて接したとき、私は未熟ではあったが、そこに取りあげられている弁神論の問題を、私なりの経験に結びつけて理解することはできた。》(吉野「ヨブ記」1966.4)

《『ヨブ記』から、若い私は、魂をゆすぶるような感動を受けた。それは、まるで夜の荒野に立って、大地をとどろかせて吹いて来る烈風をまともから顔に受けているような感じであった。(吉野「ヨブ記」》

《高校時代の私は、キリスト教から哲学へつながる側面と、社会問題へつながる側面と、両方の傾向をもっていました上に、トルストイが手がかりとなって、北欧やロシアの近代文学を、手あたり次第といっていいほど読むようになり、その影響も強く受けていましたので、高校から大学へ進むときにも、実は、文学をやろうか、哲学をやろうか、それとも経済学をやろうか、と、だいぶ迷いました。…文学も哲学も社会科学も、人生の探求のための三つの途と考えられていたわけです。》 (吉野「編集者の仕事」) 
1916年
(大正5)
17歳 〇吉野作造「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を『中央公論』に発表(1月)
〇夏目漱石没(12月9日)
    
1917年
(大正6)
18歳 ・1月から3月まで肋膜炎で病臥。この年一年間療養した。

〇ロシア 二月革命(3月)、十月革命(11月)
1918年
(大正7)
19歳 ・9月、第一高等学校の文科へ入学。成績は首席だった。同級に村山知義や片岡良一がいた。
・野球部に入ったが、同年暮れ退部。
・この頃より近代北欧文学に熱中する。  

〇シベリア出兵宣言(8月2日)
〇米騒動(8月3日~)

〇原敬内閣成立(9月29日)



1919年
(大正8)
 20歳 〇ワイマール憲法発布(8月14)
〇総合雑誌『改造』創刊(4月) 
1920年
(大正9)
 21歳 ・二年に入ってから恋愛と文学研究とでほとんど学校に出席せず、もっぱら図書館と劇場とに通っていた。その結果、9月に落第。一高中退を希望したが、母に乞われて翻意。
・この頃、クロポトキンの「青年に訴う」、河上肇の「社会問題研究」と同時に、西田幾多郎や倉田百三のものなども読む。

〇日本最初のメーデー(5月2日)

 
1921年
(大正10)
22歳 ・「ストリンドベルグの悲劇 上」 (校友会雑誌 6月) 

〇ヒトラー、ナチス党党首に就任(7月)

〇原敬、東京駅頭で刺殺される(11月4日)

1922年
(大正11)
23歳  ・3月、第一高等学校文科卒業(留年二年に及ぶ)。
・4月、東京大学入学(経済学部、転じて文学部哲学科へ)。
 

・「ストリンドベルグの悲劇 下」 (校友会雑誌 2月)


〇全国水平社創立大会(3月3日)
〇森鷗外没(7月9日)
〇日本共産党非合法に結成(7月15日)
 
《私の念頭にあったのは、日本で学問らしい学問をやるとすればやはり東大でやるよりほかはない、そこで自分に必要なものを勉強し吸収して、いい先生がいればその指導を乞おう、ということで、それ以上のことは求めませんでした。》(吉野「編集者の仕事」)

《この三人
[桑木厳翼、伊藤吉之介、得能文] の方の講義だけはきくことにして、あとはできるだけサボって、勝手に勉強していました。/世の中には、すぐれた才能をもちながら、家庭が貧しかったばかりに、小学校を出ただけで、早くから社会の荒波にさらされて働いている人がたくさんあるのに、こうして学問などに専心していていいのだろうか、という不安は絶えませんでしたけれど、当時の私としては、いつかはそれに酬いられる日もあろうと考えて、とにかく一つの専門を身につけることに専心していたわけです。》(吉野「編集者の仕事」)  
1923年
(大正12)
 24歳  ・4月、大学二年生に進学。
・9月、大震災の結果、老父母は千葉県長者町に転居。次兄とともに小石川雑ガ谷の酒屋に下宿する(卒業まで)。


〇関東大震災(9月1日)
 

1924年
(大正13)
25歳  〇第二次護憲運動開始(1月10日)  
1925年
(大正14)
26歳  ・3月、東京大学文学部哲学科卒業。卒業論文の題目は、「カントにおけるモダリテートの範疇について」。
・4月~12月、岩波茂雄氏の好意で、粟田賢三、古在由重等とともに毎月学費を供されて勉強を続けた。上記の両氏とフォールレンデルの哲学史を翻訳(1929年出版)。
・12月、近衛野砲兵連隊に一年志願兵として入隊。軍事学、特に戦術に興味を抱き、士官学校の教科書等を入手して勉強した。術科の成績も悪くはなかった。

〇東京放送局試験放送開始(3月1日)
〇治安維持法議会通過(3月19日)
〇普通選挙法議会通過(3月29日)

 
《さうかと思ふと、二宮金次郎か、塩原多助その儘といふ様な人物がゐる。一日十五銭の俸給の一部を貯めて、弟を高等小学校にやつてゐる上等兵がゐる。面会所の片隅で、自分の小遣ひから五十銭銀貨をお婆さんにやつてゐる、貧しさうな二等卒がゐる。烈しく苦しい労働を少しも怠けずに、厭な顔もしないで、実直にやつてゆく人物がどんなに沢山ゐる事か。/かういふ中で見ると、一年志願兵といふ存在が、時に甚だしく、僕の感情に触つていけない。》(吉野「若き日の手紙―― 一九二六年、軍隊から」1981.8/以下「若き日の手紙」)

《ただ、その無邪気な心をかすめて暗い影を投ずるのは、自分の生活のコンティニュイティーに対する関心と、どこにいつても、おそらく、人間の集まりには必ずついて廻るに違ひない、対人関係から来る不快だ。然しその事について語るのは止めよう。唯、猥雑で粗暴な兵隊生活が、尚、幾つかのよいものを僕に与へてゐてくれる事丈を伝へればいい。その猥雑さ。時間があっても本も読めず、下等な冗談と、罵詈との中に、煙草の煙丈を無暗に吐いてゐる事が、何んなに多いだらう。冗談も、低劣な、愚にもつかない漫語に過ぎないし、罵詈も、只声の大きな、才気の影さへもない、悪口を出でない。かういふものを我慢することは頭を腐らす。》(吉野「若き日の手紙」)

《然し、大きな粗末な木造建築の前にしやがんで、靴を磨いてゐる初年兵の姿に、放馬した馬の奔放な運動に、砂煙の中を突進してゆく野砲の姿と、砲身に光る暑い五月の日光に、日に焼け、埃にまみれた、男の顔に流れる汗に、都会生活や、所謂田園生活に見られない兵隊独特の「美」がある。…/非現実的な美が、不思議にも、現実的なもののすぐ裏に、透き徹る様に湛えられてゐる。さういふものを見る眼が、少しでも、自分に開けてゐる事がなかつたなら、此の雑漠な兵隊生活を、僕は、恐らく堪えられないに違ひない。》(吉野「若き日の手紙」)
   
1926年
(大正15)
(昭和1)
27歳  ・12月、現役より引続き予備見習士官となる。

〇日本労働組合総連合創立(1月17日)
〇労働農民党結成(3月5日)
〇全日本農民組合同盟結成(4月11日)
〇小作争議(新潟県木崎村)(5月5日~)
〇大正天皇没(12月25日)










 
1927年
(昭和2)
28歳 ・3月、軍隊を出る。卒業のときの成績がたいへんよく、軍人になればよかったと言われた。
・4月、友人松本慎一の世話で三省堂編集部に入り、『大英和辞典』の編集にあたる。
・小石川の駕籠町に下宿する。

〇第一次山東出兵(5月28)
〇芥川龍之介自殺(7月24日)
  
《就職はどうなるか、今日きまらない位だからどうせ順調にはいかないだらう。…/岩波も大分景気が悪いといふ話だから、入営前の通りにはやつてゆけないらしい。…/僕は既に大学の頃から防御戦を余儀なくされてゐる。退却せずに現地を死守する丈でも、随分激しい戦ひを必要とする。くやしくとも、未だ、気持よい攻勢移転は出来ない。兵隊が済んでも、此の情況が、急に変はるとは思へない。辛抱して運命に対抗し続けなければならないだらう。》(吉野「若き日の手紙」)  
1928年
(昭和3)
29歳 ・1月頃より、蒲田の三省堂の印刷所に日参、夜遅くまで校正をする。
・4月、『大英和辞典』が完成。続いて『和英中辞典』の編集を手伝う。
・11月、山田珠樹の世話で、東京大学図書館の目録編纂係となる。
・哲学の勉強も続けながら、しだいにマルクス主義に近づく。

・吉野訳『マールブルク学派に於ける認識主観論』(マルック著 岩波書店 哲学論叢5 11月)

〇三・一五事件(3月15日)
〇第二次山東出兵(4月19日)
〇関東軍 列車爆破で張作霖を爆殺(6月4日)
〇治安維持法改悪、死刑・無期を追加(6月29日)
  
  
1929年
(昭和4)
 30歳 ・この年より、マルクス主義の哲学、史的唯物論を、腰を入れて勉強し始める。

・吉野他訳『フォールレンデル 西洋哲学史第一巻』(岩波書店 5月)

〇四・一六事件(4月16日)
〇(米)株式市場暴落、世界恐慌に拡大(10月24日)
  
《一九二九年の世界恐慌につづく不況のどん底の時期だった。失業者が街にあふれ、農村の娘たちの身売りが新聞にしばしば報道されていたころである。マルクスの『ヘーゲル法哲学の批判』を読んでいたとき、もう一度、『ヨブ記』が私の記憶によみがえってきたのである。ここでは、人間の苦悩の宗教的解決ではなく、それの現実的止揚が説かれる。…/そしてその歴史的事業の遂行者として挙げられているものは、ほかならぬ、この嘆きの谷の中に投げこまれている民衆自身なのである。…罪に対する罰とは絶対にみなしがたい人間の苦悩から人間を救済するものはここに至って苦悩そのものを通じて苦悩の中から生まれて来ることになる。》(吉野「ヨブ記」) 
1930年
(昭和5)
 31歳 〇金解禁実施(1月11日)
〇浜口首相、東京駅で狙撃され重傷(11月14日)
〇都下15新聞社、政府の言論弾圧に共同声明(12月15日)
  
1931年
(昭和6)
 32歳 ・12月、父、千葉長者町で死去。
・この年、非合法政治行動にシンパサイザーとして関わり、治安維持法違反で逮捕される。同時に失職。
・7月、兵役中(予備将校)であったため軍法会議に付され、一年半にわたり代々木の陸軍刑務所に収監される。


・吉野・粟田・古在訳『フォールレンデル 西洋哲学史第三巻』(岩波書店 5月)


〇関東軍、軍事行動開始(満州事変)(9月18日)
〇北海道・東北で大飢饉(10月)
《三一年、『満州事変の勃発の当時、私は治安維持法にかかって、翌三二年の暮まで一年半ばかり陸軍の衛戌刑務所にいくことになりました。私は予備将校で召集中だったものですから、軍人の身分として扱われ、軍法会議にかけられたのです。このおかげで、三二年刑務所から出てはきましたが、どこにも勤める口がなく、完全に失業してしまいました。左翼の政治運動も弾圧につぐ弾圧で壊滅しかけていましたし、私の友人たちもほとんどみなつかまってしまって、私は、全く孤立無援、手も足も出ない状態でした。それから三年ばかり、失業をつづけながら、とにかく飢え死にしないですんだのは、姉の世話と、山本有三さんの特別な援助のおかげでした。山本さんは調べものの手伝いという仕事を私に与えて、それに対する謝礼という形で、私に小遣いの金を心配してくださったのです。この時代に私が山本さんから受けた深い厚意は、今日でも比べるものがないように思っています。》(吉野「思想・文化・教育」『季刊科学と思想』 1972.4)

《心身疲労のため、不覚に同士を裏切るようなことをもらすのを恐れて、自殺を計った。》(高橋健二『 山本有三全集4』「編集後記」)

《神保さんは昭和の初期にも、有能な青年の生命を救っている
[神保信彦中佐について山本有三は「陸軍における、わたくしのただ一人の親友である。彼は西洋画をたしなみ、文学を愛し、考古学に趣味を持っている、軍人ばなれのした将校である」と書いている]。救われたのは、『日本少国民文庫』編纂者の一人であり、『君たちはどう生きるか』を執筆された吉野源三郎さんである。戦後は岩波の雑誌『世界』の編集長として名を挙げられた。/軍務に服していた吉野さんが、当時非合法活動といわれていた左翼活動をして軍法会議に付せられたとき、担当だった神保さんは、こんなに見どころのある有能な人物を何とか救いたいと考えた。吉野さんは電球のかけらで頸を切って自殺をはかったが、未遂に終わったのである。/神保さんは誰か身元保証人になってくれる人がいれば吉野さんを助けられると思い、「誰か尊敬する人物がいるか」と尋ねたところ、吉野さんは父[山本有三]の名前を挙げたらしい。神保さんは早速、そのころ吉祥寺に住んでいた父を訪ねて来られた。これが父と神保さんの最初の出会いだった。当時、左翼の人間の身元保証人を引き受けるなどということは、並の人にはとてもできることではなかったと思うが、私は子供だったので詳しい経緯は何も知らない。》(永野朋子『いいものを少し、山本有三の事ども』)
1932年
(昭和7)
 33歳 ・12月、懲役二年執行猶予四年の判決を受ける。
・出獄後、失職状態で二年半を過ごす(~1935年5月)。その間、山本有三の好意で小遣いとりの翻訳や、外国作品のレジュメ等を作る。この頃より十九世紀の小説を改めて読み直す。トルストイ、バルザック、スタンダール等の長編を、この間に読むことができた。史的唯物論についての検討をそれと並行して続ける。

〇日本ファシズム連盟創立(1月20日)
〇血盟団事件(2月9日~3月9日)
〇満州国建国宣言(3月1日)
〇陸海軍将校ら首相官邸などを襲撃、犬養首相を射殺(五・一五事件)(5月15日)
〇警視庁に特別高等警察部設置、各府県にも特高課を置く(6月29日)
〇(独)総選挙、ナチス第一党となる(7月31日)
〇文部省、農村漁村の欠食児童20万人突破と発表(7月27日)
〇戸坂潤ら唯物論研究会創立(10月23日)
〇在京右翼30余団体、国体擁護連合会を結成(12月7日)
《ただ、父が神保さんの申し入れを受け入れ、吉野さんの才能を見抜いて、ふさわしい仕事をしてもらい、吉野さんも父の信頼にこたえて、一生懸命働いて下さったのは事実である。》(永野朋子『いいものを少し、山本有三の事ども』)

《山本さんは、新潮社と交渉して、少年向けの双書の出版を計画し、その編集の仕事を私に与えてくださったのです。それが「日本少国民文庫」十六巻でした。この十六巻の本の構成については、私もだいぶその計画に参加したのですが、いよいよ着手することになって、じゃあ、きみ、これやってくれないか、といわれたときには、実をいうと私はたいへん迷ったのでした。失業中で仕事の選り好みなどいっていられない身でしたが、まだ、学問その他、志すところもありましたから、こういう編集出版の仕事、まして少年向けのものにたずさわって何年かすごすことには、ためらいがあったのです。しかし結局、引き受けることに決心して、それから二年あまり、これに没頭しました。引き受けたとはいっても、それは編集の仕事で、自分が書くなどとは、その時には考えていませんでした。ところが、そのときちょうど、山本さんが眼を悪くされて、しかも網膜剥離の危険があって、執筆ができなくなってしまいました。それで山本さん書くことに予定されていた『君たちはどう生きるか』という一巻を、私が書くことになりました。私は元来、文学が好きで、大学にゆくときにも、文学を選ぶか、哲学を選ぶかに迷った末に哲学にいった人間でしたが、しかし、こんな事情からにせよ、少年向けの読みものを書くことになろうとは、全く思ってもみなかったことでした。/しかし、、それをやってみようと決心したのには、もう一つ理由がありました。そもそも、山本さんが少年向けの双書を計画されたということが、深く、一九三〇年代という、その当時の時代とかかわりをもっていたのです。ひどい反動に時代でした。山本さんのようなリベラルな立場の作家まで、朝日新聞に連載中の作品について、憲兵隊からいろいろと文句がくるというくらいで、言論・出版の自由は年ごとに、というよりも、日ごとにといってよういほど、急速にせばめられてきていました。出版物についての、削除や発売禁止は日常のことになり、反共的、国粋的な言論だけが横行するようになっていました。山本さんは、ちょうど子どもさんが中学生で、その関係で中学生ぐらいの少年に適切な本のないことに気づき、その欠落を痛感されたのきっかけで、子どもの双書を思い立たれたのでしたが、実はそればかりでなく、当時の時勢を考えて、子どもたちをあのころのファシズムの中にほっておくことの恐ろしさを痛切に心配されるとともに、まだ今なら、子どもたちには本当のことが伝えられるのではないかと考えられたのです。表現の自由は極度にせばめられてきたとはいっても、まだ子どものものなら、本当のことがいえるんじゃないか、というのが、山本さんの「日本少国民文庫」刊行のモティーフだったわけです。それで、私にも、せめて、つぎの世代を背負う少年たちに今のうちに伝えるべきことだけは伝えておこうじゃないか、と誘われたのです。/当時、ご存じのように講談社がいろいろ少年ものを出していたんですが、「満州事変」以来の軍国主義に全く同調して、ヒトラーやんムッソリーニを英雄として謳いあげていました。おとなたちが弾圧されるだけでなく、少年たちまでが知らないで、このように育てられておとなになってゆく、ということは恐るべきことでした。私は、先に申しあげたような事情で名前を出して社会的に働く余地が全くなかったのですが、山本さんのお考えには全く賛成でした。そこで、今われわれにできるだけのことは、やはり、しておかなければならないと思い、子どもの本も一生懸命書いてみる気になったというわけです。
》(吉野「思想・文化・教育」『季刊科学と思想』 1972.4)

《この頃、思想上の問題を自分の死活の問題として、考え…、その思想的格闘によって少しは思想のねばり強さを学んだ。》(吉野「わたしの戦中・戦後」1961.1)
1933年
(昭和8)
 34歳 〇(独)ヒトラー内閣成立(1月30日)
〇小林多喜二、築地署に検挙、虐殺される(2月20日)

〇(独)議会、ヒトラー独裁承認(3月23日)
〇国際連盟脱退の詔書発布(3月27日)
〇鳩山文相の京大滝川教授休職要求に端を発する滝川事件(5月26日)
〇共産党幹部佐野学・鍋山貞親、獄中で転向声明(6月9日)
 
1934年
(昭和9)
 35歳 〇文部省に思想局設置(6月1日)
〇改正出版法および出版法施行規則公布(7月18日)
〇(独)ヒトラー総統となる(8月2日)
〇陸軍青年将校のクーデター計画摘発(士官学校事件)(11月20日)
  
1935年
(昭和10)
 36歳 ・5月、山本有三の配慮により新潮社『日本少国民文庫』の編集主任となり、ようやく定収を得る。(~1937年7月)
・夏、父の死後、福井県福井高工の教授であった兄のもとに暮していた母を迎え、牛込の赤木下町に一家を構えた。
・この年『心に太陽をもて』の中の数編、『人類の進歩につくした人々』の中の「リンカーン伝」及び『君たちはどう生きるか』を執筆した。
・11月、『日本少国民文庫』刊行開始。(~1937.8)


・吉野・粟田・古在訳『フォールレンデル 西洋哲学史第二巻』(岩波書店 9月)
・「波涛を越えて」(山本有三『日本少国民文庫12 心に太陽を持て』 11月)

〇天皇機関説事件 菊池武夫、貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を攻撃(2月18) 美濃部達吉反駁演説(2月25日) 
〇美濃部達吉著『憲法撮要』など発禁、文部省、国体明徴を訓令(4月9日)
〇美濃部、不敬罪で告発される(4月17日) 貴族院議員を辞任、起訴猶予となる(9月18日)
〇政府、国体明徴・機関説排撃声明(8月3日) 第二次声明(10月15日) 
《実際にあのときの私たち――いや、私の――気持を言えば、嵐の中で顔を伏せて堪えているようなものでした。支えてくれているのは、ただいつかは、いつかは……という未来への期待でした。歴史はここで終わるはずがないんだ、いつかはこの歴史的状況が変わるときがくる、変えられるときがくる、それに備えて今は……と、そればかり念じていました。子どもへの期待というものも、私の場合、つぎの時代への期待だったのですね。二年間ばかり、この仕事[『日本少国民文庫』の編集]を没頭的にやりました。十六巻が終わったときには、子どもの本はもう二度とやりたくない、と思ったくらい全力をつぎこんじゃったんです。》(吉野「思想・文化・教育」『季刊科学と思想』 1972.4)

[「波涛を越えて」は]「日本人最初の太平洋横断」という副題が示すように、勝海舟や福沢諭吉らの咸臨丸による太平洋横断を扱ったものである。…あえて修身に取り上げられてきた題材を用いるところに、三〇年代の国家による教育に正面から向き合う中で、児童に科学的精神を尊重するというメッセージを送る吉野の気概が感じられる。》(富士晴秀「戦前・戦中期の吉野源三郎」)
1936年
(昭和11)
 37歳 〇美濃部達吉、田口十壮に狙撃され負傷(2月21日)
〇二・ニ六事件(2月26日) 東京市に戒厳令(2月27日) 
1937年
(昭和12)
 38歳 ・4月、明治大学文芸科長を務めていた山本有三の配慮により同科講師となる。
・明大では論理学と近代思想史の講義をした。
・7月、「少国民文庫」の完結後、岩波茂雄の希望で岩波書店に入社、明治大学講師と兼務。
・秋、「岩波新書」創刊計画に中心的にかかわる。
・12月、村山智恵子と結婚。


・「正義を求めて」(山本有三『日本少国民文庫8 人類の進歩につくした人々』 1月)
・『日本少国民文庫5  君たちはどう生きるか』(8月 同文庫全16巻完結 【注1】)


〇文部省『国体の本義』出版(3月30日)
〇日中戦争始まる(7月7日)

〇政府、国民精神総動員計画実施要項を発表(八紘一宇・東亜新秩序等を強調)(9月9日)
〇国民精神総動員中央連盟創立(10月12日)
〇東大教授矢内原忠雄、筆禍事件で辞表提出(12月1日)

〇山川均ら労農派検挙(第1次人民戦線事件)(12月15日)
[正義を求めて」は]エイヴ・リンカーンの伝記である。…大統領に就任するまでのリンカーンを描いているが、その最大の特徴は、リンカーンの思想と行動のよりどころを、勤労民衆の精神においていることである。…現実の民衆がかかえる苦悩への感応力の深化と、解放の政治的プログラムについての成熟した眼の獲得とは、…自身の政治行動を省みる中から実現したのではないだろうか。》(富士晴秀「戦前・戦中期の吉野源三郎」)

[『君たちはどう生きるか』]、吉野がこの作品を執筆することは、初めから予定されていたことではなかった。「日本少国民文庫」全一六巻の締め括りとなるこの作品のテーマは倫理であり、叢書の計画の段階では、執筆は責任編集者である山本の予定だった。ところが、山本が目を患ったため、吉野が代役を務めることになったのである。…そして、この作品を世に出した当時の吉野は、…自らがどう生きていくかという思想上の模索を重ねている途上にあった。…吉野は、この作品を構想・執筆した際、前半生を省みつつ、三〇年代後半の時代状況のなかで主体性をいかに立て直してゆくかという、他ならぬ自身の課題に正面から向き合うことになったはずである。その思索が、この児童向けの倫理書を著した時のバックボーンとなっている。》(富士晴秀「戦前・戦中期の吉野源三郎」)

《『君たちはどう生きるか』は吉野さんの原稿に父
[山本有三]が手を入れ、共著の形で出すしかなかったが、戦後は吉野さんの著書として出せるようになり、現在も出版されているのだから大したものである。》(永野朋子『いいものを少し、山本有三の事ども』)

《一九三七年の秋といえば、その年の七月に盧溝橋の衝突から中日事変が勃発し、やがて日本政府当初の不拡大方針が維持し切れなくなると共に、戦争は上海から南京へと、恐ろしい勢いで拡大してゆく最中でした。あとからふりかえってみると、これが日本にとっては、あの惨憺たる敗戦に至る運命の道への決定的な一歩だったわけですが、その頃それを見抜いていた人物は数えるほどもいなかったと思います。世論は、これをきっかけに、はっきりと軍国主義の波にさらわれてゆきました。/…中日事変で浮き足だった新聞の記事を毎日見ながら、私は日本の行く末に暗澹たるものを感じずにはいられませんでした。》(吉野「赤版時代―編集者の思い出」1963) 
1938年
(昭和13)
 39歳 ・11月、「岩波新書」創刊。 【注2】

〇大内兵衛ら教授グループ検挙(第2次人民戦線事件)(2月1日)
〇唯物論研究会解散(2月12日)
〇『中央公論』3月号、石川達三「生きてゐる兵隊」のため発禁(3月)
〇国家総動員法公布(4月1日)
〇近衛首相、東亜新秩序建設を声明(11月3日)
〇唯物論研究会関係者検挙(11月)
《岩波新書は、開店二五年記念の出版として発表されたが、これは、吉野が「いわば自分から作り出した仕事」…であった。》(富士晴秀「戦前・戦中期の吉野源三郎」)

《新書の創刊の辞としては、吉野の企画を容れた岩波茂雄の「岩波新書を刊行するに際して」という文章があるが、これに先立ち、この年九月に書かれた次の草稿は、吉野によるものである。「岩波新書の企図する所は、学究的立場を離れ、古典の制限を脱し、今日この時代に生くる人々の要求により自由に即応しつゝ、現代人としての一般的教養に資すべき良書を、時代の流れに従って提供して行くことにある。」(吉野「赤版時代――編集者の思い出」)》(富士晴秀「戦前・戦中期の吉野源三郎」)
1939年
(昭和14)
 40歳 ・明治大学文芸科教授となる。
・11月(~1941年2月)『山本有三全集』全10巻の編集。

〇ノモンハン事件(5月11~9月15日)
〇国民徴用令公布(7月8日)
〇第二次世界大戦始まる(9月1日)
《吉野は三九年秋、「新書がひとまず地盤を得た」…ことから、「休業」…していた学問を再開するため、書店を退職して明大教授を専業としたい希望を岩波に申し出たことがあったが、岩波の懇望によって翻意したという。そこには、岩波の時局認識への一定の信頼と、岩波書店の編集者としてなしうる仕事への手応えがあったのだろう。》(富士晴秀「戦前・戦中期の吉野源三郎」)

《『日本少国民文庫』十六巻が完成
[1937年]してから、吉野さんは岩波書店に籍を置き、父[山本有三]の最初の全集を手がけて下さった。そのころ私は何度か岩波に使いに行かされたが、吉野さんは喫茶店でアイスクリームをご馳走して下さったり、チョコレートをおみやげに下さったりした。私が女学校に入学したときには、赤いケース入りの万年筆とシャープペンシルを贈っていただいて、とてもうれしかった。そのケースだけは今も大事に保存している。》(永野朋子『いいものを少し、山本有三の事ども』)
1940年
(昭和15)
 41歳 ・12月、長女まがね 生まれる。

・吉野訳『わが人生観』(F・ナンゼン、アインシュタイン他)(岩波新書 赤版77 11月)

〇津田左右吉著『神代史の研究』など発禁(2月12日) 出版法違反で起訴(3月8日)
〇近衛文麿、新体制運動推進の決意を表明(6月24日)
〇大本営政府連絡会議、武力行使を含む南進政策を決定(7月27日)
〇日独伊三国同盟条約調印(9月27日)
〇大政翼賛会発会式(10月12日)
〇政府・大政翼賛会、文化思想団体の政治活動禁止を決定(10月23日)
〇紀元2600年記念式典、皇居前で挙行(11月10日)
〇大日本産業報国会創立(11月23日)

〇内閣情報局発足 日本出版文化協会設立(12月19日)
[敗戦に至るまでの約十五年にわたる長い暗黒の時代]この間、私たちは、秘匿されている真実を、管理された報道の裏に読みとろうとして、どれほど苦心したことか。もはや、オーソドックスな方法によって情勢を分析し、状況を判断することは、その資料の不足からいっても不可能であった。もちろん、この現実を理論的にいろいろと解釈してすましてなどはいられなかった。私たちは、なんとかして真の現実をつかもうとして、乏しい情報や断片的な知識を集めて推理し、その間隙は直観によって埋めてゆかなければならなかった。噂の真偽、流言の源泉、すべて思考の届きかねるところを、或いは構想力で補い、或いは直覚的な勘を働かせて飛び越えてゆかなければならなかった。この努力は、実戦における状況判断に似ていた。しかも、敵に包囲され、友軍との連絡を絶たれた状況の中での判断に酷似していた。たとえ、不完全であっても、私たちは、この努力を放棄することはできなかった。今日でこそ、ナチスに関しても、日本軍国主義についても、両者の敗北の結果暴露された大量の資料に基づいて、精細な研究が出揃っているけれど、彼等の猛威のつづいている時期には、もちろん、そんな知識は全く入手できず、資本主義の危機におけるファシズムの演じる役割についても、出来合いの理論はなかったのである。私たちは、そのすべてを、直面している苦しい現実の中から汲み出すほかはなかった。また、実際に、弾圧下にあるという現実を審(つぶ)さに観察すれば、少なくとも弾圧を加えざるをえない権力者の状況をつかむことは、必ずしも不可能ではなかった。》(吉野『同時代のこと』「同時代のこと――序に代えて」1974.10)

《三〇年代前半に再形成した思想は、戦中の弾圧と統制下においても揺らぐことはなかったと言えよう。そして、限られた表現範囲の中で児童図書のあり方を通して語った子供への期待は、おそらくは次の時代への期待でもあった。》(富士晴秀「戦前・戦中期の吉野源三郎」)

創造の仕事を受持つてゐる者は――書く者も出版する者も――たゞ自己の仕事の成果にすべてを賭くべきであって口舌を事としてはならない点では戦場に立つ将士と同じである。指導精神は生かしつゞけても、指導者精神に陥ることは警めねばならない。私の見るところでは、現在のところでは、指導精神を語る者の多い割に、黙々と自己の仕事に打込んでその精神を生かす人物が少ないのではないかと思はれる。…ひとの鼻息をうかゞふやうな卑屈な精神のあるところに、期待されてゐるやうな気宇の広潤な逞しい児童文化が生まれるとは思へぬ。》(吉野「子どもものの出版について――その現状と指導とについて」1942.5)

《大東亜戦の真只中に立つてゐるわが国のつぎの時代を担当する少年たちに今日正しい科学的知識を与へ、その頭脳に科学的訓練を与へておくことがどんなに肝腎なことか――これについての自覚が、子供達のための教科書の書かれる直接のモティーフになるならば、初歩的な事柄を説くといふ、専門家としての熱心になりにくい仕事に対して、新たな源泉から新たな情熱が湧いて来る筈だからであります。》(吉野「少国民のための教科書について」1942.10)    
1941年
(昭和16)
 42歳 ・1月、母くめ死去。

〇日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲空爆空襲、マレー半島上陸、対米英蘭宣戦布告 太平洋戦争始まる(12月8日)
〇日本少国民文化協会発足(12月23日)
1942年
(昭和17)
 43歳 ・『改訂 日本少国民文庫』全十六巻(うち第七、十、十五、十六は未完。「君たちはどう生きるか」の刊行なし。吉野の関与の有無は不明)(~1944.12)

・「子供ものの出版について」(岩波書店『教育』 5月)
・「少国民のための科学書について」(『少国民文化』10月)

〇戦時大増税案発表(1月16日)
〇大日本婦人会結成(2月2日)
〇米空軍機、日本本土初空襲(東京・名古屋・神戸)(4月18日)
〇日本文学報国会結成(5月26日)
〇情報局、1県1紙の新聞社統合を発表(7月24日)
〇情報局、米英楽曲約1000曲の演奏禁止(12月)
1943年
(昭和18)
 44歳 ・2月、長男源太郎生まれる。
・12月、明治大学を辞職。


〇英米語の雑誌名禁止(2月)
〇大日本言論報国会結成(3月7日)
〇神宮外苑で出陣学徒壮行大会(10月21日)
 
1944年
(昭和19)
 45歳 ・春、小林勇とともに「航空叢書」を計画したが、終戦のため実現しなかった。

〇『中央公論』『改造』等の編集者検挙(横浜事件)(1月29日)
〇『中央公論』『改造』に廃刊命令(7月10日)

〇大都市の学童集団疎開実施(8月~)
〇学徒勤労令・女子挺身隊勤労令公布(8月23日)
〇神風特別攻撃隊編成(10月19日)
〇防空壕強制建造命令、竹槍訓練実施(この年)
1945年
(昭和20)
 46歳 ・4月、家族を茨城県新治村に疎開させ、世田谷の妻の実家に身を寄せる。
・5月~8月、岩波書店の紙型や資材を疎開させる。そのため8月中は長野県に出張して、紙かつぎなどの労働をする。
・8月、岩波書店の業務再開に参加、編集全般の責任者を引き受ける。 

〇戦争指導会議、本土決戦断行と決定(6月6日)
〇広島に原爆投下(8月6日) 長崎に原爆投下(8月9日)
〇ポツダム宣言受諾(8月14日) 
〇天皇、「終戦」詔勅放送(8月15日)
〇マッカーサー連合軍総司令官、厚木到着(8月30日)
〇ミズーリ号上で降伏調印(9月2日)
〇プレスコード指令(9月19日)

〇戸坂潤獄死(8月9日) 三木清獄死(9月26日)
[5月9日]神奈川県特高の者だと名乗った男たちは、山根という検事の逮捕状を持っていた。治安維持法違反の嫌疑であった。彼等はどやどやと上がり、まず部屋部屋をのぞいて歩いた。…私は登山服を着、身の廻り品をリュックに入れて背負った。…東神奈川署の前だった。…一服する間もなく私は、道場に連れてゆかれた。そして彼らは物もいわずにいきなり竹刀でなぐった。「この野郎いやに落ちつきやがって」などといった。…/夕方、私はぼろきれのようになって留置場に投げ込まれた。…/翌日から毎日引出されて、せめられた。…/その署の特高の一人が、私をしらべている刑事に電話がかかって来たとしらせて来た。彼は舌打ちして二階へ下りていった。私ははその間に彼の置いていった鞄の中から書類を引出した。大急ぎで見ると、一綴りの調書があった。…パラパラと繰ると終りの方に「小林勇を検挙して、岩波書店の内にある左翼の組織を摑むべきだ。」という意味のところが見つかった。口述者は、前に岩波書店にいた藤川という男だった。…警察は藤川に無理にもこういわせて、中央公論社や改造社のように、岩波書店をつぶす理由を作り上げようとしたのだろう。そして私にそれを「白状」させようというのであろう。…/私の取調べは、どうやら「岩波新書」のことにひとまず集中して来た。そして刑事たちは、どんなにお前ががん張っても必ず岩波書店は方針通りつぶすとしばしば口走った。…/特高は、岩波書店で一緒に働いている吉野源三郎や粟田賢三のことをしきりに聞き、きゃつらはもうしょっぴいてあるのだ、お前のこともみんなきいた、などといった。私はその調子から、かまをかけているのだなと思っていた。》(小林 勇『一本の道』)

《8.22 今後の出版活動方針を協議、ただちに実施に移すこととなる――岩波[茂雄]は、この敗戦をむしろ日本にとっての天恵と考え、再び本来の出版に帰り、その正道をゆくことができるのを喜んで意気揚がっていた。》(『岩波書店五十年』1963.11)

《この帰り途
[亡くなった三木清氏の通夜からの帰り途]私は大内[兵衛]先生とポツリポツリ話しながら中野の駅へ歩いていった。街にはまだ電燈が乏しく、夜は暗かった。途々、先生は私にこういわれた――「吉野君、こんどの雑誌は、あまり威勢のいいものにしないようにしようじゃないか。調子の高いラディカルなものばかり並べないで、僕ぐらいな年輩の者が書いてもおかしくない、落着いたものにした方がいい。それでいて、何年かたってみると、戦後の日本の進歩や思潮の本流がちゃんと辿れるようにするんだな。」/私はこのとき、自分が先日来くり返し考えて探し求めていた、新しい雑誌の基調を、先生が私のために示唆していると思った。…いま、私たちが迎えようとしている時代は、なまやさしい時代ではなかった。そこに待ちかまえているのは、容赦を知らない冷酷な現実であった。道は険しく、私たちの背中にかかる負担は恐らく背骨を折りかねない〉ほど重いのである。解決をまって山積している問題は、どれをとっても、けっして一気に駆け抜けられるような問題ではない。新しい時代の到来を声高く叫ぶだけでは、それは、何ひとつ解決されないのだ。たしかに大内先生のいわれたように、「何年かたってみると――」というくらいな、息の意長い努力がいるし、軽快な足どりよりもむしろ重い足どりが必要であった。語り出すなら、低い声で語り出すのがふさわしいのであった。私は、先生に「私もそうするつもりです。」と答えた。》(吉野「創刊まで―『世界』編集二十年」1966.1)      
1946年
(昭和21)
 47歳 ・1月、『世界』創刊。初代編集長となる(~1958年6月 創刊号から150号まで)
・4月、岩波茂雄死去。
・4月、設立された日本出版印刷労働組合の中央委員となる。
・10月、家族が疎開先より帰京。

〇天皇、神格否定宣言(人間宣言)(1月1日)
〇『中央公論』『改造』復刊、『世界』のほか『展望』『近代文学』『人間』等創刊(1月)
〇メーデー復活(5月1日)
〇極東国際軍事裁判開廷(5月3日)
〇日本国憲法公布(11月3日)
《岩波書店は、戦後一寸出おくれたと思う。岩波が病気をし、支配人夫婦も十分に仕事の出来ない状態であった。しかし病気の岩波[茂雄]は、雑誌「世界」の創刊を決意し、店内では吉野源三郎がその仕事に奮闘していた。昭和二十一年一月号が発行された。六十四頁の小さな雑誌であった。「世界」の編集の責任は最初安倍能成がとったが、のち安倍が文部大臣になった時[1月]辞して、以後吉野が編集長となった。》(小林 勇『一本の道』)

《日本には優れた知性が存在しながら、祖国が亡国の途へ進むことを阻止し得なかったということは、岩波
[茂雄]が敗戦に関して最大の痛恨事と考えたことであって、今後再びこの過ちを犯さないためには、広汎な国民と文化との結びつきに努めねばならぬといい、岩波書店も在来のアカデミックな出版から、進んで大衆のための出版に進出する必要があると説いた。終戦直後総合雑誌の発刊を提案したのは、この理由からであった。》(『岩波書店五十年』)

《総合雑誌の編集の場合には、問題の整理ということが編集者の責任でしょうね。それぞれの時代には、それぞれの解決をまつ課題があります。いろいろな問題がつぎつぎに起こって、それが関連してその時代の課題を登場させてくるのですが、その時代の人びとの意識にそれが課題としてはっきりと意識して受け取られているとはかぎりません。また、それぞれの問題が、その重要さに応じて正しくとらえられているとはかぎりません。そのズレを正して、問題を整理し、時代の課題の客観的な構造をできるかぎり解明してゆく――それが、総合雑誌として情報を提供したり、主張を紹介したりしてゆく際の、選択に基準でなければならないと思っています。そして、解決の答えは、読者自身がその中から見出すようにもってゆく。ジャーナリズムの最大の責任もそこにあるのですが、しかし、そう考えるとジャーナリズムの仕事も、ずいぶんつらい仕事になります。自分自身が、時代の課題がなんであるか、どこに中心があるか、どのような問題連関をもっているか、ということについて、思想的に対決しないでそれを明らかにすることは望めませんからね。》吉野「思想・文化・教育」『季刊科学と思想』 1972.4)
   
1947年
(昭和22)
 48歳 ・6月、日本出版印刷労働組合の書記長となる。
・8月、凸版印刷、大日本印刷、共同印刷等五社の労働組合が共同争議に入り、これの団体交渉に当たる。
・11月、同労働組合の書記長を辞す。
・11月、片山内閣の経済安定本部顧問となる。


・「知識人の地位」(『新潮』12月)

〇総司令部、2・1ゼネスト中止を命令(1月31日)
〇教育基本法・学校教育法施行(3月31日)
〇6・3制実施 新制中学校発足(4月1日)
〇日本国憲法施行(5月3日)
  
    
1948年
(昭和23)
 49歳 ・3月、経済安定本部顧問を辞す。
・『日本少国民文庫』十五冊(第三は未完。吉野の関与の有無は不明)(~1952.5)
・秋、平和問題討議会設立、その組織に当たる。12月、総会。 


・吉野他「唯物史観と主体性」(座談会『世界』 2月)
・「叔父さんへの手紙」(鳳文書林『少年文庫』11(2) 3月)
・「読書研究会のもちかた」(『青年文化』 9月)
・(山本直太郎『脚本 君たちはどう生きるか―コペル君とその仲間』東京生活社 11月)
・『人間の尊さを守ろう』(山の木書店 11月)

〇新制高等学校発足(4月1日)
〇極東国際軍事裁判判決(11月12日)
《もし、世の中はどうなるだろう、とだれもかれもが、ただ心配するだけで、指一本動かさなかったら、世の中は少しもよくならないでしょう。ところが、みんなが、「どうなるだろう。」ではなくて、「どうしよう。」と考え、「こうすればよくなる。」と思い、そのように心をあわせて動いたらどうでしょう。世の中は、それでもよくならないでしょうか。世の中といい、時勢といっても、私たちの外にあるのではなく、私たちみんながつくっているものです。もちろん、ひとりの力ではどうなるものではありませんけれど、みんなが右にいこうと考えれば、それは右にいき、みんなが左にいこうと思えば、それは左にいくものなのです。かんじんなことは、「どうなるだろう。」ではなくて、「どうしよう。」にある。そして、その点では、じつは、世の中も、ひとりひとりの人間も、かわりのない共通のところを持っているのです。
 原子力時代のこれからについても、やはり、同じことがいえましょう。暗い面と明るい面、希望と不安、この二つがからみあっている現在の問題では、――そこでのかんじんな問題は、やはり、「どうなるか。」ではなくて、「どうするか。」です。
 そこで、これからの時代をつくりあげていく、君たちのひとりひとりが、今の暗い面をどう考えるか、それをとりのぞいて明るい面を生かそうと思うか、どうか。そう考えて生活し、そう考えてものを判断し、また、そう考えて行動していくか、いかないか。――それこそが問題です。「原子力の時代がこれからどうなるか。」という、これからは、まさに、これからの君たちの意志と力しだいで、明るくもなれば暗くもなるのです。》(吉野『人間の尊さを守ろう』1948 「原子力と平和」)
    
1949年
(昭和24)
 50歳 ・3月、平和問題談話会(←平討会)(~1960年)。
・4月、株式会社岩波書店発足に際して取締役、編集長となる。
・4月、「岩波新書」再刊(青版)開始。 【注3】
・8月、本郷の曙町に移転。


・「教育に於ける使命感の回復について」(『教育研究』 5月)
・吉野他「平和のための教育」(座談会『世界』 7月)
・「実存哲学の多弁」(『理想』 9月)

〇下山事件(7月5日)
〇三鷹事件(7月15日)
〇松川事件(8月17日)
〇湯川秀樹博士ノーベル物理学賞を受賞(11月3日)
《岩波の吉野源三郎の肝煎りで、平和問題談話会を開いたときには、学者と名のつくほどの人々は、かつての近衛公の新党運動の場合のように、われもわれもと馳せ参じた。》(大宅壮一『仮面と素顔――日本を動かす人々』1952)

《3.5 『世界』4月号特集〈世界平和と講和の問題〉発売――付録のパンフレット〈三つの声明〉は、〈ユネスコ発表8社会学者の声明〉、〈戦争と平和に関する日本の科学者の声明〉および〈講和に関する平和問題談話会の声明〉を英訳と共に収録。とくに講和に関して日本の中立化と軍事基地反対を主張した声明は、占領軍および政府の注目するところとなり、警視庁・特審局・占領軍当局より平和問題談話会について厳しい追究があり、政治団体として団体等規正令による届出が要求された。この件は1ヶ月折衝の結果、研究団体と認められ、届出不要と決した。》(『岩波書店五十年』)   
1950年
(昭和25)
 51歳 ・岩波書店常務取締役に就任
・5月、次女まこと生まれる。


・吉野他「日本の運命(一)回顧五十年―日露戦争前後」(座談会『世界』 2月)
・「伝記の生命」(森田屋書店『児童図書室』3(2) 2月)
・吉野他「日本の運命(二)興敗の岐路―半生記を決算する」(座談会『世界』 3月)
・(吉野)「平和問題談話会声明」(『新日本文学』 5月)
・吉野他「芸術・文化・世相・国のうちそと」(座談会『新日本文学』 6月)
・「平和問題と教育」(『教育研究』 6月)
・「あなたはこの夏になにをよみますか」(アンケート『Books』Booksの会 8月)
・「岩波全書の想い出」(『図書』 9月)
・吉野他「国難の外交―幕末の外交を担った人々」(座談会『世界』 10月)
・吉野他「文学・道徳・社会」(鼎談『世界』 11月)
・「最近の出版界より」(『郵政』 12月)

〇朝鮮戦争勃発(6月25日)
〇警察予備隊令公布(8月10日)
〇レッドパージ方針閣議決定(9月1日)
〇旧軍人初の追放解除(3250名)(11月10日)
 
 《…われわれはあの日[一九四五年八月十五日]を思い起そう。廃墟の町にはじめて電燈の覆いを取り払つた夕べの、あの解放感、あの気の遠くなるような安堵感を、もう一度思いかえそう。…/
 われわれは、また、あの八月十五日以後今日に至る四年八カ月の間に、われわれがどうにか築きあげて来た一切のものを思い起そう。灰燼のまだ残つている街に、小さな家が無数に立ち並びはじめた。その小さな家の一つ一つに、どれだけの労苦が注ぎこまれていることか。どれだけの切ない思いや辛抱が畳みこまれていることか。…われわれは日本の社会に、それこそ建国以来はじめて公然と民主主義の原則――人間尊重の原則――をうちたてた。人民ひとりひとりに譲渡しがたい権利のあること、そのひとりひとりの自由が何ものにもまさつて貴重でありいかなる権威もこれを侵しがたいことが、われわれの社会生活の原理としてはじめて制度としてうちたてられた。この原理がわれわれの現実をくまなく支配するまでには、まだほど遠いとはいえ、また、そのための努力においてわれわれが多くの過誤を犯したとはいえ、しかし、われわれは民族の最大の希望をここに見出し、とにかく激しい挫折から立ち直つて来たのである。…/
 これらの一切を、われわれは改めて思いかえそう。そして、われわれがいま置かれている状況を見直そうではないか。戦争の黒い影がまたも地球を脅しはじめている。不吉な予感が全世界の民衆の胸を、またも暗く圧しはじめている。戦争への準備――各国の軍備は、人間の科学的知識の精髄と、史上前例なき巨大な生産力とを動員して、またも唸りをたてて前進しはじめた。われわれは、これをいわゆる「世界の大勢」として、抗しがたいものとして、ただ受け入れるほかはないのであろうか。かつてわれわれの多くは、日本が満洲に浸出し、中国を侵し、太平洋戦争に突入してゆくのを、やはり抗しがたい大勢として見逃さなかつたろうか。われわれは再びあの大きな過失を犯したくない。われわれは、むしろ戦争と平和とに対するわれわれのあの実感を、素朴に信じようではないか。そして、その実感の上に立つて、われわれが極度にみじめな状態の中から漸くにして築きあげて来たものを再び戦火の中に投じるかも知れない一切の危険に対し、大胆に問いかけようではないか――「何故か何のためか」と。…》(「読者に訴う」 『世界』別冊附録「三つの声明―世界平和と講和の問題―」 1950.4 署名は「編輯者」
    
1951年
(昭和26)
 52歳 ・吉野他「近代戦と日本の戦略的地位」(鼎談『世界』 7月)
・「ジャーナリズムの反省」(『読書家』 10月)
・吉野訳『あらしの前』(ドラ・ド・ヨング 岩波少年文庫22 12月) 

〇児童憲章制定(5月5日)
〇民間ラジオ放送始まる(9月1日)
〇サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約調印(9月8日)
《9.1 『世界』10月号特集〈講和問題〉発売、即日売切れ――サンフランシスコで講和条約が調印される段階になって、世論は全面講和か、片面講和かをめぐって両分し、国民の一部には、この条約に対する強い反対があった。この特集号は、特に発行を早めて、講和会議直前にまにあわせたものであったが、雑誌として前後に例のない大きな反響を呼びおこし、数回増刷を重ねて約15万部を売切った。》(『岩波書店五十年』)    
1952年
(昭和27)
 53歳 ・「隠れた値打ち」(『図書』 2月)
・吉野訳『あらしのあと』(ドラ・ド・ヨング 岩波少年文庫29 3月)
・「残暑」(『図書』 11月)
・吉野他「今日の戦略思想―政略と戦略の関係」(『世界』 11月)

〇サンフランシスコ平条約・日米安全保障条約発効(4月28日)
〇メーデー流血事件(5月1日)
〇破壊活動防止法案可決成立(7月4日)
〇警察予備隊を保安隊に改組(10月15日)

〇米、エニウェトク環礁で初の水爆実験(11月1日)  
《9.5 『世界』10月号特集〈総選挙〉発売――講和以後、日本の再軍備が日程にのぼり、憲法第9条をめぐる論争が国会の内外で激しくなった結果、この頃から総選挙において保守派が3分の2以上の議席を獲得するか否かが重大な争点になるに至った。国民の関心がここに集中していた際なので、この特集号は異常な売行きを示し、発売後直ちに増刷を行わねばならなかった。》(『岩波書店五十年』)    
1953年
(昭和28)
 54歳 ・吉野他「民主主義をめぐるイデオロギーの対立と日本」(座談会『世界』 1月)
・吉野他「日本の外交―三国軍事同盟秘史」(座談会『世界』 2月)
・「東京の屋根の下」(『美しい暮しの手帖』 3月 暮しの手帖社)
・「文化の交流について―アメリカより帰りて」(安倍能成との対談『世界』 4月)
・吉野他「論壇のうつりかわり―戦前・戦後のジャーナリズム」(座談会『世界』 12月)

〇NHKテレビ本放送開始(2月1日)  
〇ソ連、「初の」水爆実験(8月12日)
〇民間テレビ放送開始(8月28日)
《9.5 『世界』10月号特集〈MSAと再軍備〉発売――この特集も反響が大きく、増刷となった。》(『岩波書店五十年』)     
1954年
(昭和29)
 55歳 ・10月~11月、中国を訪問。

・吉野他「児島惟謙の功績―大津事件と司法権の独立について」(座談会『世界』 1月)
・(大木直太郎脚色「君たちはどう生きるか」未来劇場№15 2月)
・吉野編『危機はここまで来ている』(厚文社 3月)
・「放送ジャーナリズムに望む」(『放送文化』 5月)
・吉野他「どこに道を拓くか」(座談会 『世界』 6月)
・吉野他「時代と新聞―大阪朝日筆禍事件回顧」(座談会『世界』 7月)
・「中学生との往復書簡」(『現代哲学読本』河出書房 8月)
・吉野他「田中正造」(座談会『世界』 9月)
・吉野他「平和地域論」(座談会 『世界』10月)
・吉野他「外の声・内の声」(『新聞研究』日本新聞協会 10月)
・「『週刊朝日』」(『新聞論調』 11月)
・「中国の言論と自由」(『新聞研究』日本新聞協会 12月)
・「新中国の本について」(座談会 『図書』 12月)


〇憲法擁護国民連合結成(1月15日)
〇ビキニ水爆実験で第五福竜丸被災(3月1日)

〇自衛隊法公布(6月9日)
〇防衛庁・陸海空自衛隊発足(7月1日)
〇自由党憲法調査会「日本国憲法改正案要綱」を発表(11月5日)
 
《百号を迎えて改めて考えるまでもなく、いまのような時勢に綜合雑誌はどんな任務を負つているか、したがつてそれはどんなものでなければならないか、ということは絶えず私たちの念頭に去来する問題である。しかし、それにも拘らず私たちは、「かくあるべき綜合雑誌」を心に描いて、それにならつて「世界」を編輯したことは一度もないのである。まして、綜合雑誌というものは私たちの雑誌のようなものでなければならないなどとは、かりそめにも考えたことはない。実際のところは、日本の今日のジャーナリズムの中で私たちの雑誌のような雑誌も一つくらいあつていいはずだ、というのが私たち自身の正直な気持であり、言わせてもらえば、それが私たちのささやかな自信でもあつた。全体としての日本のジャーナリズムの中で欠けているもの、見逃がされているもの、もしくは故意に無視されていることで、しかも補わねばならず、軽視することを許されない事柄が、私たちの雑誌によつて少しでも補われたら――という願望が実際の編輯にあたつては一番の眼目であつたし、私たちを仕事に駆りたてる動機であつた。》(『世界』創刊百号記念「編集後記」 1954.4)    
1955年
(昭和30)
 56歳 ・2月、日本ジャーナリスト会議(JCJ)初代議長(~1959)

・吉野他「中国の新しい姿―中国訪問報告講演会」(『世界』 1月)
・吉野他「吉野作造」(座談会『世界』 4月)
・吉野他「新しい時代の新しい思想」(座談会『世界』 5月、7月)
・吉野他「木下尚江」(座談会『世界』 6月)
・吉野他「開戦から終戦まで―日本外交の回顧」(座談会『世界』 8月)
・吉野他「原田日記が世に出るまで」(対談『世界』 9月)
・吉野他「堺枯川」(座談会『世界』 10月、11月)
・「ジャーナリストとして」(池島信平他著『ジャーナリスト―その喜びと悲しみ』大蔵出版)

〇国民文化会議発足(7月17日)
〇砂川町の強制測量開始、労組・学生と警官が正面衝突(9月13日)
〇左・右社会党統一(10月13日)
〇保守合同、自由民主党結成(11月15日) 
 
《JCJは、1955年2月、「ふたたび戦争のためにペンを取らない」を合言葉に新聞、放送、出版など全国の企業、フリーのジャーナリストによって結成されました。/昭和の最初の20年間、日本の国民は、真実を伝えられることがないまま、「物言えば唇寒し」の状況が進行し、侵略戦争に動員され、協力させられていきました。「なぜジャーナリズムは真実を伝えられなかったのか。なぜ戦争に反対できなかったのか」その問いを課題としてJCJは、国際ジャーナリスト大会への代表派遣を契機に、企業の枠を越えたジャーナリストの職能的連帯を求めて結成されたのです。初代議長は、当時雑誌「世界」の編集長だった吉野源三郎氏でした。/戦後の日本の基礎となった日本国憲法は、その直後から、朝鮮戦争を理由とした警察予備隊(のちに保安隊-自衛隊)の創設、日米安保条約の締結・改定、破壊活動防止法の成立、など、「逆コース」の攻撃にさらされました。…(JCJ〈日本ジャーナリスト会議〉HPより)

《日本の言論が、十分にその説得力によって勝敗を決することができるように、言論機関の衡平を守ることが必要なんだ。もしこういう態度がいよいよやり切れなくなつたら、自分が飛び出して選手になつて勝つか、負けるか、やつて見るよりしようがない。》(吉野、他「綜合雑誌について――編集者座談会」『中央公論』1955.5) 
  
1956年
(昭和31)
 57歳 ・山本有三編『新編・日本少国民文庫』十ニ巻(吉野の関与の有無は不明)(~1957.3)
・8月、「リンカーン伝」(大統領の部)を執筆。


・吉野他「現代文明の展望(一)」(座談会『世界』 1月)

・吉野他「現代文明の展望(二)―原子力時代とは」(座談会『世界』 3月)
・「君たちはどう生きるか」( 『新編・日本少国民文庫 6』 新潮社 6月)
・吉野他「『話のわかるわからない』話」(座談会『世界』 10月)
・「よく似た話」(『文芸春秋』 10月)


〇原子力委員会発足(1月1日)
〇砂川町第2次強制測量開始(10月4日~14日)
〇ハンガリー事件(10月23日)
  
    
1957年
(昭和32)
 58歳 ・吉野他「現代文明の展望」(座談会『世界』 1月)
・吉野他「栗本鋤雲―埋もれた先覚者-1-」(座談会 『世界』 10月)
・吉野訳「議会制民主主義」(S.ラダクリシュナン著 『岩波講座現代思想 別巻』 12月)
・「新聞の理想像を求めて」(『真実自由な報道で民主主義守れ:第1回新聞研究集会議事録』日本新聞労働組合連合 12月)

〇(英)クリスマス島で最初の水爆実験(5月15日)
〇憲法調査会、社会党不参加のまま発足(8月13日)
〇文部省、勤務評定実施を通達(8月13日)
  
《4.5 『世界』5月号特集〈クリスマス島水爆実験に抗議する〉発売》(『岩波書店五十年』)    
1958年
(昭和33)
 59歳 ・5月、『世界』の編集長を辞める。
・6月、憲法問題研究会結成(~1976年4月)


・吉野他「日中国交回復の現段階」(対談『世界』 2月)
・「山川均先生のこと」(『図書』 4月)
・「やくそくの いぬごや」(『こころに光を 2年生』(日本児童文学者協会 6月)
・吉野他「『世界』への注文」(座談会『世界』 6月)
・『吉野源三郎集』(シリーズ「私たちはどう生きるか1」ポプラ社 9月)
・吉野他「話題の口絵」(対談『アサヒカメラ』 11月)
・『エイブ・リンカーン』(岩波少年文庫178 12月)

〇文部省、学習指導要領改正を発表(7月31日)
〇安保条約改定交渉開始(10月4日)
〇警職法改正案国会提出(10月8日)
〇岸首相、憲法第9条廃止の時と明言したとNBC放送で語り、問題となる(10月14日)
〇警職法改悪反対闘争(11月5日) 
 
《11.5 『世界』12月号特集〈民主主義への挑戦――警職法改定と岸政権〉発売》(『岩波書店五十年』)  
1959年
(昭和34)
 60歳 ・国際問題談話会結成(5月~1968年)
・5月、『エイブ・リンカーン』により、産経児童出版文化賞を受賞。


・吉野他「『新聞の中立性』について」(『新聞学評論』 3月)
・吉野他「チベット問題と中印関係」(座談会『世界』 7月)
・吉野他「あなたも批評家(船山克『交差点』)(『アサヒカメラ』 7月)
・『ぼくも人間きみも人間』(牧書店 8月)

〇日本原子力学会創立(2月14日)
〇安保改定阻止国民会議結成(3月28日)
〇安保問題研究会結成(7月7日)
《3.5 『世界』4月号特集〈日米安保条約改定問題〉発売》(『岩波書店五十年』)

《10.5 『世界』11月号特集〈安保体制からの脱却〉発売》(『岩波書店五十年』)

《そもそも岸内閣による改憲のもくろみは、五八年に国会に提出された警職法改正案とともに、安保改定の地ならしという点にもあった。院外での反対運動も高揚し警職法は廃案となったが、吉野は『世界』編集部に安保改定の問題に組織的に取り組む必要を説いていた。そうした時期に結成された国際問題談話会…は、この年末に一〇周年を迎えた平談会
[平和問題談話会]の精神を継承し、若手研究者(福田歓一・坂本義一・石田雄など)平談会結成時の“ニュー・リベラリスト”からなる二〇余名の研究組織である。吉野は、国談会には組織者としてかかわったばかりではなく、最年長の会員としても参加した。》(富士晴秀「吉野源三郎と『世界』」)

《『世界』の平和問題への取り組みは、持続的かつ多面的であった。その平和論は、いわば体系性を持って展開されたとも言えよう。そして、その論調をプロデュースしてきたのが、一五〇ヵ月編集責任者を続けた吉野だった。》(富士晴秀「吉野源三郎と『世界』」) 
 
1960年
(昭和35)
 61歳 ・吉野他「黎明期の日本外交― 明治外交史上の政治家群像」(座談会『世界』 1月)
・「梅さんのこと」(『追悼:梅徳を偲びて』梅震刊 謄写版 7月)
・吉野他「現代革命の展望」(共同討議 『現代教養全集27 -現代の課題-』 12月)


〇新日米安保条約調印(1月19日)

〇政府与党、警官隊を導入し、衆院で新安保条約承認・会期延長を単独強行採決(5月19日)
〇全国の大学・研究機関の学者1500人、「民主主義を守る全国学者研究者の会」結成(6月2日)
〇安保阻止統一行動、全国で560万人参加(6月4日)
〇米大統領新聞係秘書ハガティー、羽田でデモ隊に包囲される(6月10日)
〇右翼、国会周辺でデモ隊を襲撃 全学連、国会内に入り女子学生樺美智子死亡(6月15日)
〇33万の国会包囲デモ 新安保条約自然成立(6月19日) 岸内閣総辞職(7月15日)
〇池田内閣、所得倍増・高度成長政策発表(9月6日)
〇浅沼社会党委員長、立会演説中に刺殺される(10月12日)
 
《4.5 『世界』5月号特集〈沈黙は許されるか〉発売――1958年後半から、日米安全保障条約の改定が日米両国政府の間に準備されその交渉が進んで終にこの年1月に調印、その間、世論は次第に高まり、賛否をめぐって激しい議論が交わされていた。『世界』はこの問題を講和以後における最大の全国民的問題と見なして、1年以上にわたって経過を追いつつ識者の批判を紹介して来たが、いよいよ国会の審議を経る段階に至って、読者から、すでに国会の議席数が定まっている以上、国民は果して何を為しうるのか、という疑問がしきりに寄せられて来たので、それに答えるため、この特集号は請願権の問題をとりあげ、これについての学者の解説と、今日それを行使する意味についての評論とを集めて紹介、当時全国的な国民運動が起ろうとしていた際であったため、この特集号は異常な反響を呼び、増刷してもなお需要に応じ切れなかった。》(『岩波書店五十年』)

《六〇年の安保闘争は、“平和と民主主義”思想と運動の総決算であり、『世界』も講和問題同様、総力を結集して臨んだ。吉野はすでに『世界』の編集現場から離れてはいたが、岩波書店の編集長として、『世界』の編集に助言を与えた。とくに、国会に対する請願運動というかたちで、未組織市民が闘争に参加する方法を 教唆した
[安江良介の言]ことは、…吉野の『世界』編集生活の集大成ともいうべき意味を持っていたように思われる。》(富士晴秀「吉野源三郎と『世界』」) 
1961年
(昭和36)
 62歳 ・「わたしの戦中・戦後」(『図書新聞』  1月1日)
・「一・一五―成人の日」(『総合教育技術』 4月)
・吉野他「国力を分析する・世界の中の日本」(放送再録『放送文化』 10月) 
・「就職大学」(『茶の間 毎日新聞随筆欄 昭和三十四年五月掲載』)
・「経験のさか立ち」(『茶の間 毎日新聞随筆欄 昭和三十六年と九月掲載』)

〇風流夢譚事件 右翼少年、中央公論社社長〉嶋中社長邸を襲い、家人2人を殺傷(2月1日)
〇朝永振一郎ら七人委員会を結成、平和アピール発表(6月14日)
〇ベルリンの壁構築(8月13日)
 
1962年
(昭和37)
 63歳 ・「『波』の誕生」(『現代日本文学講座:鑑賞と研究 5』三省堂) 

〇原研の国産第1号原子炉に点火(9月12日)
〇キューバ危機(10月22日)
《5.5 『世界』6月号特集〈憲法問題〉発売》(『岩波書店五十年』) 

《7.3 『世界』200号〈8月号〉特集〈戦後17年と日本の将来〉発売》(『岩波書店五十年』

1963年
(昭和38)
 64歳 ・「赤版時代―編集者の思い出」(『激動の中で―岩波新書の25年』 4月)
・『石だんの思い出』(ポプラ社 1963年8月 『吉野源三郎集』1958年9月 とほぼ同内容)
・「たいした仕事」(『学燈』 10月 丸善出版)

〇原子力科学者154人、原子力潜水艦寄港反対を声明(3月27日)
〇ケネディ米大統領暗殺(11月22日) 
  
1964年
(昭和39)
 65歳 ・吉野他「現代の対話(9)原水禁運動と日本の平和思想」(『現代の理論』 10月)

〇憲法問題研究会、憲法調査会の多数意見や、伝統と自由の名による憲法改悪に反対声明(5月3日)
〇オリンピック東京大会開会(10月10日)
 
1965年
(昭和40)
 66歳 ・岩波書店の役員を辞任、以後、終生、編集顧問として後見役を務める。

・「比留間さんの本を読んで」(『花のように―父母と教師への書』東洋館出版社 2月)
・「看護婦さんへの手紙 感想」(『看護学雑誌』 5月)
・「ヴェトナムの民衆について」(『月刊社会党』 8月)
・「日本の民衆としての責任―戦争の危機のなかで迎えた八月一五日」(『国民文化』 9月)
・「一編集者として」(『山麓集―大内兵衛先生喜寿紀念随想集』大内会 10月)
・「『あきらめ』と『見切り』」(『現代の眼』 12月)

〇米機等、北ベトナム爆撃開始(2月7日)
〇日韓基本条約等調印(6月22日)
 《少なくとも戦争に関する限り、自分たちの政府の戦争行為や戦争協力をしっかりと抑制してゆくこと、そのために努力すること、それが、今日、日本として最も肝心な点だと私は考えます。この努力によって私たちは世界平和に寄与することができます。同時に、日本にほんものの民主主義を根づかすことができます。そして、日本人が他国にひきずられることなく、自分の運命を自分の責任において決定したという、独立の自信をも、これを通じてもつことになりましょう。……/八月十五日を迎えて、私は、私たちがこのような努力を決意することこそ、この日を最もよく記念することになるのではないかと考えます。》(吉野「終戦の意義とヴェトナム戦争―八・一五記念国民集会に臨んで」 8.15)
1966年
(昭和41)
 67歳 ・「創刊まで―『世界』編集二十年(一)」(『世界』 1月)
・「1970年問題について―素人の戦略談義」(『現代の理論』 1月)
・「『七〇年問題』への姿勢―革新の立遅れを懸念する」(『エコノミスト』 1月)
・吉野他「幼年期・少年期・青年期―『家庭の教育』の刊行に際して」(『図書』 2月)
・吉野他「前進 後進」(『朝日ジャーナル』 2月)
・「私の古典『ヨブ記』」(『エコノミスト』  4月)
・「小和田次郎『続デスク日記』」(『みすず』 5月)
・吉野他「安倍先生と平和問題談話会」(丸山真男との対談『世界』 8月)
・吉野他「ハノイ・ハイフォン爆撃と日本の労働組合」(座談会『現代の理論』 9月)
・「ベトナム反戦ストの意義―ストは行動による説得である」(『現代の理論』 12月)
・「ベトナム反戦ストの意義」(『新日本文学』 12月)
・「岩波文化の再出発・GHQの検閲など」(語る人:吉野 『昭和経済史への証言 下』毎日新聞社 8月)

〇中国、文化大革命始まる(4月)
〇建国記念の日〈2月11日〉決定(12月8日)
 
《なによりも忘れてならないことは、私どもの政府がアメリカに協力しているということです。現在アメリカがとっているアジア政策全般、アメリカの軍部のとっている軍事計画の全体は、日本の協力を前提としています。いまヴェトナムで遂行されている非道な軍事介入は、この土台の上で行われているのです。もし日本の協力が頼めないということになったとき、それは極東における重大な状況の変化であって、アメリカのアジア政策は大きな変更を必要とされるでしょう。アメリカの軍事計画は根本的手直しを必要とするに至るでしょう。この点を考えますと、ヴェトナムの現在の事態に対して、私たちはけっして責任がないとはいえない。対米協力はもちろん現在の政府がとっている政策です。しかし、この政府はわれわれ日本人を代表してこの政策を進めているのです。かつて私たち日本人は、非常に残念なことですが、政府や軍部にひきずられて中国を侵略しました。アジアの諸民族にいいようのない大きな惨害をもたらすような軍事行動をいたしました。しかし、あのときには、あれは政府のやったことで、われわれ民衆がやったことじゃないんだ、といえる要素がまだありました。民衆に自由はほとんどすべて奪われていましたし、国民は天皇の臣民でした。しかし、いまはちがいます。私たちの憲法は、国民主権の上にできています。私たち国民は主権者としていま日本に生きているのです。かつての臣民ではないのです。われわれの政府が日本の名においてやっている行動に対して、私たちは責任がないとはいえない。政府の現在の対米協力にも、私たちは責任を負わねばならない。そうとすれば、私たちが平和を愛する限り、私たちがヴェトナム民衆のあの惨苦をなんとかしたいと考える限り、私たち国民は、われわれの政府のこの行動をやめさせなければならない。われわれの政府の対米協力をやめさせなければなりません。》(吉野「ヴェトナム反戦ストライキの意義―ヴェトナム反戦ストライキ支援国民集会での挨拶」  10.20)
1967年
(昭和42)
 68歳 ・『ジュニア版吉野源三郎全集1 エイブ・リンカーン』 (ポプラ社 ) 
・『ジュニア版吉野源三郎全集2 人間の尊さを守ろう』 (ポプラ社) 
・『ジュニア版吉野源三郎全集3 君たちはどう生きるか』 (ポプラ社) 
・「原田文書をめぐって」(『みすず』 1月~2月)
・「終戦直後の津田先生」(『みすず』 4月~6月)
・「終戦直後の津田先生 追記―思い出すこと(五)」(『みすず』 6月)
・吉野他「八月一五日を迎えるにあたって」(『国民文化』 6月)

〇灘尾文相、国防意識育成の教育が必要と強調(12月28日)
 《「人間はこんな馬鹿なことをやるのだ。こんな醜悪なこともやるのだ。こんな悪魔のようなこともやるのだ。それでも、おまえは人間を信頼するかね。」という問いかけを受けて、「そうだ、信頼する。」と答えるか、「いや、できない。」と答えるかは、理由や証明にもとづいての帰結ではなくて、私の決意による選択の問題なのです。ソクラテスは、死ななければならないと考えたとき、決意して毒盃を傾けました。私たちにも、決意して傾けなければならない盃があるのでした。それは、死ぬためではなく、おそらく人間として生きぬくために避けられない盃だと、私には思われました。/…「人間に対する信頼」も、一つの大きな賭です。そしてすべての賭と同じように、ここにも危険はついてまわります。しかし、この賭なしには、人間の世界は死人のようなつめたさにひえてゆくほかはない。歴史の時計も、そのときには振り子の動きを止めるでしょう。》(吉野「ヒューマニズムについて」 『ジュニア版吉野源三郎全集2』1967 所収)
1968年
(昭和43)
 69歳 ・「悼辞」(『追悼斎藤正躬』 3月 斎藤正躬追悼文集編集委員会)
・「思い出すこと―日の丸の話」(『学燈』 11月号)
・「亡びない記憶」(『信濃教育』 11月)

〇チェコ自由化問題で、ソ連・東欧軍介入(8月20日)
 
1969年
(昭和44)
 70歳 ・「出版の仕事がしたい―編集者」(松田道雄編『君たちを生かす職業(2)』筑摩書房)
・「山本〔義隆東大全額闘争会議議長〕君に言いたかったこと」(『世界』 3月)
(※ かつて山本隆義は娘の家庭教師だった)
・吉野編『日本の運命 「世界」座談会集Ⅰ』(初復文庫6 評論社 4月)
・吉野編『日本における自由のための闘い 「世界」座談会集Ⅱ』(初復文庫7 評論社 6月)
・「歴史としての戦後民主主義」(『世界』 6月)
・「八・一五と戦後民主主義について」(『現代の理論』 9月)
・吉野、藤田省三「戦後民主主義の原理を考える」(『現代の理論』 9月)
・吉野、小田実「70年闘争における連帯の原理と構想―みのりあるたたかいの展開のために」(『現代の理論』 11月)
・吉野、高沢寅男「中国問題を考える」(『月刊社会党』 11月)
・「自らの運命を自らの責任において―八・一五記念国民集会に臨んで(一九六五年)」(『原点―「戦後」とその問題』 12月)(『同時代のこと』1974年10月 収録時の標題は「終戦の意義とヴェトナム戦争」)
・吉野編『原点―「戦後」とその問題 「世界」座談会集Ⅲ』(初復文庫8 評論社 12月)
・『君たちはどう生きるか』(新潮社 12月)

〇東大安田講堂封鎖解除(1月18日) 
《軍隊のように平素厳重な規律の下に行動することを訓練されている集団の場合でさえ、実践となると部下の逸脱した行為を抑制することがむずかしいとされている。まして、そのような訓練を欠いた学生の集団であって、整然と統制された行動や規律を戦闘的行動の中に期待することは、ほとんど不可能に近いと思われる。どんな欲しもしなかった事態が生じて、全体の計画を齟齬させないとも限らないし、また関係のない市民に予期しえなかった障害や迷惑を及ぼさないとも限らない。そして、一切が代表たる山本君の責任――山本君ばかりではないにしても――に帰って来るのである。》(吉野「山本君に言いたかったこと」1969.3)

《人間は、与えられた社会的条件の下で単に受動的に情感するだけの存在ではなく、本来は歴史的に与えられた条件の中で、その条件をも動かしながら新しい歴史的条件を作り出して来た行動的存在なのである。そこには移り気な主観的興味や感情などは受けつけない手強(ごわ)い相手として現実がある。片づけなければならないものとして私たちの前に立ちはだかる現実的課題というものがある。個人としてもそうだし、集団としてもそうである。それが人間の現実的な生活というものなのであろう。/…問題の根が今日の時代の社会的・政治的・思想的状況につながっている以上、部分的と思える問題でも、少し突っこめば、私たちが現在その中にいる転換期の全体的な、矛盾に満ちた状況を私たちに突きつけずにはいないのである。したがって、この状況を、どのようにして、どんな方向に切りひらいてゆくか、それが私たちにとっての根本的な課題であって、個々の問題は、そこに想定された方向にそって解決されたり、処理されたりしてゆかねばならないのである。――客観的に今日の現実が私たちに課している問題は、たしかにいままでのどんな時代にもなかったほど、たいへんな問題である。》(吉野「まえがき」『日本の運命 「世界」座談会集Ⅰ』 1969.4) 
1970年
(昭和45)
 71歳 ・『七〇年問題のために闘っている諸君へ』により、日本ジャーナリスト会議特別賞を受賞。

・『七〇年問題のために闘っている諸君へ』(現代の理論社 1月)
・「問題のすりかえ」(『マスコミ市民』マスコミ市民フォーラム 1月)
・吉野他「沖縄全軍労の闘いを支援するカンパのお願い」(『国民文化』 2月)
・「言論の自由とジャーナリズム」(インタビュー 『展望』 4月)
・吉野、岩井章「70年代の闘いの出発点」(事務局長対談『月刊総評』 5月)
・「教育の本義を誤るな」(『動向』 6月)

〇大阪万国博覧会開幕(3月14日) 
〇よど号ハイジャック事件(3月31日)
 《人間を見るときに、私は、その人がどんな思想をもっているか、どんな主義を信じているかという、その人に担われている思想だけを見ていては、まちがうと思っています。同じ思想がどんな人によって、どのように担われているか、主義や信仰がどのようにその人のものになっているか、ということが、非常に大切な問題だと思います。聖書にも「主よ、主よ」というものが真の自分の弟子ではない、十字架を負って自分についてくるものが、自分の真の弟子だ、とイエスがいっておりますね。/思想というものは、生きた人間に担われて実在性をもつ。それによって、思想が現実に食いこみ、現実の中で現実を動かす力ともなるわけです。それは、思想の真理性とか、客観性とか、論理的斉合性などとは別な、いわば思想のリアリティーともいうべき事柄で、思想のおびている内延量、あるいわ強度といってもいいでしょう。それを支えているのは、人間の人格的なインテグリティー、一言にしていえば誠実ですね。聖書に書かれてあるイエスの言葉も、軽薄な牧師さんの口から出る聖書の文句も、文字で書きあらわせば全く同一だという場合があります。しかし、そこには明らかに、大きな違いがある。思想は、それを口にする人、あるいはそれを担っている人から独立に、文章の意味のように取り扱うことも出来ますし、理論としての正しさは、そういう検証に堪えなければならないのですけれど、思想には、また、それだけで尽きない一面がある。ある人に担われて、歴史的な現実の中にどれだけ生きて存在しているか、という一面です。/そして、こういう面から見ると、独りひとりの人間について、簡単にあれは自由主義者だとか、あれは共産主義者だとか、あれは社会民主主義者だとか、というレッテルをはりつけてすますことが、いかに危険なことかということがわかります。同じ社会主義者でも、Aはまだ理論的に幼稚であり、Bのほうがはるかに進んでいても、それだけでBのほうが本当の社会主義者だとはいい切れませんね。社会主義についての理解の点で、たとえばAがプラス三であり、Bがプラス一〇だったとしても、Aのほうは実は社会主義を信ずるまでに、非常な苦悩を経てきて、理論的にもさんざん迷った末にやっと三という確信に到達したのに、Bのほうはなんの抵抗もなく社会主義を受け入れ、スラスラと一〇の理解をもつようになったのだという場合、どっちが本物かとことになると、簡単にBのほうだとはいえないのです。Aのほうはプラス三だとしても、それはマイナス一〇、あるいはマイナス一〇〇を克服したプラス三であるのに、Bのほうは、全く単なるプラス一〇で、なにも克服したものがない。克服してきた量を加算すれば、実はAのほうがプラス一三、あるいは一〇三なのだ、ともいえるのです。算術的な数量で例をとるのは、あまり適切とはいえませんがけれど、とにかく、ある人に担われている思想が、どれだけ否定的なものを否定しかえしてきた結果であるか、ということは、思想の現実のあり方に関しては、見落としてはならないことだと、私は考えています。今日では、社会主義者だと自ら名のることにはなんの危険もありませんから、社会主義を信奉するにしても、こういう内面的な葛藤抜きでできるわけです。しかし、もしも、ふたたび弾圧の嵐がやってきたとき、どれだけの抵抗が出来るか、と考えてみると、私は文句なしに、Aのほうがたよりになると思います。/道徳についても同じことがいえましょう。心身ともに虚弱で道徳律を破るほどの欲望が最初からない人間が、道徳律に反しない生活をしているのと、たとえばトルストイのように、強烈な肉欲と熾烈な求道心とをあわせもって、その相克に悩んで一生を過ごした人と、どちらが立派な人間といえるでしょうか。私は、トルストイのほうが人間として立派だと思いますね。道徳的であるかないかも、ただ道徳律をものさし(、、、、)にして測るわけにはいかないものがある。なにを、どれだけ否定しているかが、常に問われなければならないと思います。矛盾をもちながら生きているというのが、現実のすべての人間の、まぬかれない条件で、だからこそ生きているのだともいえるのですね。こういうことを見落とすと、人間同士の人間らしい交流というものは出来なくなりますし、人間として肝心なことのわからない官僚的な人物や、粗笨(そほん)な活動家になってしまうことも多いと思います。そういう人たちの口からは、人間の内奥に訴えるような言葉は出てきません。しかし、マルクスは、理論が現実の力になるためには大衆をとらえなければならず、そして、理論は人に訴えて(アド・ホミネム)自ら証明することによって大衆を捉えるのだ、といっているのではありませんか。》(吉野「思想・文化・教育」『季刊科学と思想』 1972.4)
1971年
(昭和46) 
 72歳 ・「明日をひらくことば」(『学習の友』 4月 労働者教育協会)
・「私の思い出の著書」(『出版ニュース』 4月)
・「70年代を展望する眼―編集者の基本的条件は何か」(『農業協同組合』 5月)
・「『世界』と志賀さん」(志賀直哉氏の逝去を悼んで 『世界』 12月)

〇沖縄返還協定調印(6月17日) 
《一つの時代が終わろうとしているが、次の時代は、未だ姿を見せていない。/もともと、歴史認識における一つの時代と次の時代との区分は、それぞれの時代の全面的な開花期と開花期とをふりかえって、その対比の中に捉えられるのであろう。その中間には、或いは長く、或いは短い過渡期と呼ばれる時代があるだけで、むろん、線で引いたような境界などはない。まして、未来の時代にかかわって明確な線を引くことなどできるはずはない。今日のような時代には、特に先進国対後進国の問題の今後の発展を考慮すれば、偽りの予言者でもない限り、来るべき次の時代について断言的に語ることができないのは、できない方が当然であるといえよう。》(吉野「ヴェトナムを忘れるな(一九七一年十一月)― 『ニクソン・ショック』以後について」 『世界』 1972.1)

《およそ、大衆の中に潜み、大衆の中から噴出し、彼等に私的利害を越えさせるほどの激情の目覚めなしに、生命の危険を伴うような事業に大衆を赴かせることは不可能である。また、高貴な激情なしに為しとげられた高貴な事業などというものは存在しない。これが歴史の教えてくれる大きな真実である。「現実政治
[レアルポリティーク]」は現実政治のワクの中に留まる限り、永遠に「天道、是か非か」の嘆を私たちに繰り返させるであろう。だが「現実政治」の現実は、やがて現実主義のワクを越える批判を呼びおこす。道義的な激情が大衆を捉える。そして、そのエネルギーが、重い現実政治の現実を逆転させるときが来る。ナチスの時代がそれを教え、いま、ヴェトナム人の英雄的闘争がそれを証明しようとしている。》(吉野「モスクワ会議と現実主義」 『世界』 1972.7)   
1972年
(昭和47)
 73歳 ・「ヴェトナムを忘れるな―『ニクソン・ショック』以後について」(『世界』 1月)
・「私のリンカーン」(『子どもの本棚』  3月)
・吉野、堀尾輝久「思想・文化・教育」(対談 『季刊科学と思想』 4月)
・吉野、中野好夫「暗黒時代への警告」(対談 『マスコミ市民』5月 マスコミ市民フォーラム )
・「モスクワ会談と現実主義」(『世界』 7月)
・「一九七二年三月三十日以後―ヴェトナム戦争の理解のために」(『世界』 11月)

〇田中角栄、「日本列島改造論」構想発表(6月11日)
1973年
(昭和48)
 74歳 ・詩(『部落解放』 3月)
・「一粒の麦―ヴェトナム再論」」(『世界』 5月)
・「津田先生と天皇制の問題―臼井吉見の誤解を糺す」(『世界』 12月)

〇金大中事件(8月8日) 
〇第一次石油危機(10月25日)
 《ホー・チーミンと彼の弟子たちにとって、政治とは最初から倫理的問題であり、最後まで倫理的な問題なのである。人間性が否定されている現実を拒否し否定するという倫理的批判の立場が、政治的現実に対する最も根底的な、しかも直接的な批判の立場を形成していた。したがって、彼らの倫理性は、単なる社会的不正の告発者をもって自ら任じ自分を正義の立場におくことだけで済ませるような、稀薄な倫理性ではなかった。何百年、何十年の過去をもつ重い歴史的現実そのものが、彼らには倫理的課題であり、その重い現実の変革を追求せずにはいられない、熾烈な倫理性であった。こうして、倫理的主張が政治的主張に転化し、歴史を動かす運動に展開していったのであった。――アメリカでも、リンカーンの時代までは、政治は明らかに倫理との連りを失ってはいなかったのに、いま、国際政治においてアメリカを代表しているのは、キッシンジャーという「交渉の天才」である。》(吉野「一粒の麦(一九七三年四月)―ヴェトナム再論」 『世界』 1973.5)

《元来、民族といい階級といっても、現実に痛みを感じ涙を流すのは、肉体を備えた一人一人の人間のほかにはない。民族の問題、階級の問題も、それが問題として追究されるのは、一人一人の人間の頭脳の中においてである。問題の捨ておけぬ重要さが、誰かある一人の人間によって受けとめられ、彼自身の捨ておけない関心事とならなければ、その解決を求める努力も、現実のこととはならないであろう。もしも、自分一個に留まらない問題が一人の人間を捉え、そこに座を占め、しばしば彼の個人的な関心をも圧倒する、ということがなかったなら、およそ普遍的な意味をもつ問題が、理論的にせよ、実践的にせよ、――芸術においてすら――、解決を見出すことはありえない。》(吉野「一粒の麦(一九七三年四月)―ヴェトナム再論」 『世界』 1973.5)

1974年
(昭和49)
 75歳 ・『同時代のこと―ヴェトナム戦争を忘れるな』(岩波新書青版861 10月) 

〇三菱重工ビル爆破事件(8月30日)
《観念ではなく現実が彼[『世界をゆるがした十日間』の著者ジョン・リード]説得し、彼の価値観を変えた。民衆の味方という立場以外には、特定な政治的活動によって拘束されず、イデオロギーによる固定的な見方にも捉えられなかったことが、却って彼を重要な真実に近づけたのであった。…リードが、当時の私などに比べても、マルクスをそれほど読んでいたとは思えなかっただけに、この話は、私の心に深く残ったのである。肝要なのは現実であった。現実を明晰な光の中に照らし出し、現実を捉え、現実を変えてゆくためにこそ、理論は欠くことができないのであった。同時に理論は、それに耐えるか否かを、絶えず現実によって検証されねばならないのであった。》(吉野『同時代のこと』「同時代のこと――序に代えて」1974.10)
1975年
(昭和50)
 76歳 ・吉野、関寛治「戦後詩の中のベトナム」(『世界』 6月) 

〇南ベトナム、サイゴン政府降伏(4月30日)
 
1976年
(昭和51)
 77歳 ・吉野、世界編集部「戦後の三十年と『世界』の三十年―平和の問題を中心に」(『世界』  1月)
・吉野他編『核廃絶か破滅か 被爆30年広島国際フォーラムの記録』(時事通信社)

〇天安門事件(第一次天安門事件)(4月5日) 
 《現実には、敗北の連続だったと言えます。このことは、私たちとしては確認しておかなければいけないことでしょうね。雑誌としてどれほど反響を呼び起こそうとも、これはやはり残念なことで、その残念さを忘れて自画自賛するわけには行かない。しかし、このような敗北から何が帰結されるか、それが問題です。…正義の戦争だって負けることがあるというのが現実で、正しい主張だって条件が揃わなければ現実には通らない。それを貫徹するにはどうしなければならないか、それは政治的運動の問題であり、政党その他の政治団体の任務に属する事であり、具体的には組織論や戦略・戦術の問題となってゆきます。》(吉野「戦後の三十年と『世界』の三十年」1976.1)

1977年
(昭和52)
 78歳 ・「一九三〇年代―岩波新書とペリカン・ブックス」(『図書』 5月)
・「社会党機関紙への注文への注文」(『月刊社会党』 6月)
・吉野、世界編集部「原水禁運動―新しい転換の時機」(『世界』 8月)
・堀尾輝久『教育と人間をめぐる対話』(新日本出版社 9月)に吉野源三郎×堀尾輝久の対談「思想・文化・教育」(『季刊科学と思想』 1972.4)を収録

・「死者をして死者を葬らしめよ―原水禁問題の基本について安部一成氏への書翰」(『世界』 11月)

〇ダッカ日航機ハイジャック事件(9月28日) 
 《没頭的になってやったことも、冷静に今日ふりかえってみると、客観的にはほとんどこれというだけの効果を残していません。戦後のジャーナリストとしての仕事も、それにとりかかるときには、長い間執着をもってつづけていた学問の勉強も思いきり、心に描いていた著述のことも断念し、他の一切のことを捨てて、戦後の世論の形成に力をつくしてみようと思ったのは事実ですが、とうとうたいしたこともなしに終わってしまいました。/編集の仕事というのは、自分一人の力でその成果をあげるわけにはいきません。おおぜいの思想家、学者、作家の協力を得て、はじめて具体的なものとなる仕事です。自分の熱意だけで思ったとおりの雑誌が作れるわけではありません。編集者としてはこういう意図で、こういう考慮のもとに、この雑誌を編集したのだなどと、自分の意図をのべたててみたところで、肝心の雑誌そのものがその計画どおりになっておらず、また、期待しただけの効果をあげない以上、それは空しい泣言にすぎません。意図はもちろん、よくなければいけませんけれど、意図で勝負するわけではありません。元来、編集者の仕事というものは、そんな弁解を許されない仕事なのですね。……/戦後の二十数年に、私の編集した雑誌に多少とも功績があったとしたら、その功績の九九パーセントまでは、私に協力してくださったすぐれた学者たちのおかげなのです。幸いに、戦争直後から安保改定反対闘争のあった一九六〇年頃まで、私は実によい協力が得られました。今日、回顧してみると、あれ以降、日本の状況は急速に変化してきて、戦後の十年間のような広範な、活気に満ちた協力関係は、しだいに困難になってきています。それは、一つには、学界の状況によると思います。学問の専門的分化が激しく進化して、アカデミックな先端をゆく研究者は、ますます細分化された専門家になっていきますそして、その人びとは、専門家としての立場に忠実であればあるほど、専門外の一般的な政治問題や社会問題に対して、発言を慎むという傾向が顕著になっています。以前のように政治的問題や社会的問題をめぐって広範な協力を組織することは、容易ではありません。しかし、それよりもなによりも、日本の社会経済的事情や政治事情が、全体として、ちょっとやそっとでは打開されそうにもない、一種の梗塞状態に陥ってきて、政治的にも思想的にも、この梗塞状態を打破するという、明るい希望を約束する勢力が、少なくとも現在のところ、まだ顕在していないということが、根本的な大きな問題だと思いますね。こういう状態の中で、さまざなな人を結集することは、非常に困難な仕事です。/これは根本では、堀尾さんが……はっきりと指摘しておられる今日の社会経済的条件に根ざしていることであって、労働組合や革新的政党までが体制化されてきつつあるという、今日の高度に工業化された日本では、まぬかれがたい傾向の一つだと思います。ただ欲をいえば、情況がそうであればあるほど、この梗塞を突き抜ける思想が待たれているわけで、専門によって局限されないインテリゲンチャの出現――それこそが本来のインテリゲンチャだとサルトルもいっていますが――、そういうインテリゲンチャの出現を切望せずにはいられませんね。(吉野「思想・文化・教育」『季刊科学と思想』 1972.4)
1978年
(昭和53)
 79歳 〇日中平和友好条約発効(10月23日)   
1979年
(昭和54)
 80歳 〇米、スリーマイル島で原発事故(3月28日)
〇ソ連、アフガニスタン侵攻(12月24日) 
 
1980年
(昭和55)
 81歳 〇イラン・イラク本格交戦(9月22日)   
1981年
(昭和56)
 82歳 ・5月23日、没。 

・「ドキュメント」(『みすず』 6月)
・「若き日の手紙― 一九二六年、軍隊から」(『世界』  8月)

〇中国残留孤児47人初の正式来日(3月2日)
〇原電敦賀に放射能漏れ頻発(4月18日)
 
---以下没後---   
 1982年
 
  ・11月、『君たちはどう生きるか』が、初出当時(1937.8)の本文に復する形で、岩波文庫に収録される。

〇英・アルゼンチン、フォークランド紛争(4月2日)
 
《むつかしい議論はぬきにして、この作品[『君たちはどう生きるか』]はこれなりに、昭和十年代の東京と日本と世界の姿を実に忠実に映し出しています。しかもちょっと想像力と応用能力を働かせれば、ここに少年向きに描かれている「貧乏物語」が、今日でも世界的規模で考えてそのまま生きていることを見抜くのは、そんなに困難ではありません。いや、第三世界まで話をひろげずとも、この日本だけをとっても、果して「貧乏」の問題が表面でアッサリ片づけられているほど、過ぎ去った物語であるかどうかには疑問があります。いずれにせよ、『君たちはどう生きるか』の素晴らしさは、深くその 時代を語りながら、いやむしろその 時代を語ることを通じて、その時代をこえたテーマを、認識の問題としても、モラル論としても提起しているところにあるのではないでしょうか。》 (丸山真男「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想―吉野さんの霊にささげる―」  岩波文庫版『君たちはどう生きるか』所収) 
1983年
  ・「思想のリアリティと同時代」(1976年5月26日の講義 芝田進午監修復元 専修大学社会科学研究所『社会科学年報7』 合同出版 1983年)
・吉野他「唇さむし―文学と芸について―」(里見弴対談集『唇さむし-文学と芸について-』かまくら春秋社 2月)

〇東京ディズニーランド開園(4月15日)
〇ソ連、大韓航空機を撃墜(9月1日)
 
1984年
  〇スペースシャトル、ディスカバリー打ち上げ成功(8月30日)   
1985年
  〇改正男女雇用機会均等法成立(6月1日)
〇レーガン、ゴルバチョフによる米ソ首脳会談(11月19日-21日)
 
 
1986年
  〇チェルノブイリ原発事故(4月26日)
〇労働者派遣法施行(7月1日)
 
1987年
  〇ニューヨーク株価暴落(ブラック・マンデー)(10月19日)
〇大韓航空機爆破事件(11月29日)
 
1988年
  〇リクルート事件、政界首脳に広がる(6月18日~)
〇昭和天皇重態、自粛ムード展開(9月19日~)
 
 
1989年
  ・『職業としての編集者』(岩波新書 新赤版65 3月)

〇昭和天皇没(1月7日)
〇消費税法施行、税率3%(4月1日)
〇中国天安門事件(6月4日)

〇ベルリンの壁撤去始まる(11月9日) 
 
1990年
 
  〇東証株価2万円割れ、バブル経済破綻(10月1日)
〇東西両ドイツ、国家統一(10月3日) 
 
1991年
 
  〇湾岸戦争始まる(1月17日)
〇自衛隊ペルシャ湾へ、初の海外派遣(4月26日)
〇ソビエト連邦崩壊(12月26日)
 
1992年
  〇関西電力美浜原発で大規模な事故(2月9日)
〇PKO法案成立(6月15日)、自衛隊カンボジア派遣(9月17日)
 
 
1993年
  〇日本プロサッカー・Jリーグ開幕(5月15日)
〇細川・非自民連立内閣成立(8月9日) 
 
1994年
 
  〇衆院、政治改革四法(小選挙区制導入を含む)可決(3月4日)
〇松本サリン事件(6月27日)
〇自・社・さ連立で村山政権成立(6月30日)
〇ロシア軍、チェチェン侵攻、首都制圧(12月)
 
 
1995年
 
  ・『平和への意志 「世界」編集後記1946-55』(岩波書店 2月)
・『「戦後」への訣別 「世界」編集後記1956-60』(岩波書店 2月)

〇阪神・淡路大震災(1月17日)
〇地下鉄サリン事件(3月20日) 
 
1996年
  〇総選挙、初の小選挙区比例代表並立制(10月20日)   
1997年
  〇消費税5%に引き上げ(4月1日)
〇地球温暖化防止京都議定書調印(12月11日) 
 
1998年
  〇自殺者、3万人越える   
1999年
 
  〇国旗・国歌法成立(8月9日)
〇東海村JCO臨界事故(9月30日)
 
2000年
  〇介護保険制度スタート(4月1日)  
2001年
  〇ITバブル崩壊(3月)
〇米、同時多発テロ(9月11日)
〇米、アフガニスタン空爆(10月7日) 
 
2002年
  〇日朝首脳会談で金正日総書記、日本人拉致問題を認める(9月17日) 拉致された5人帰国(10月15日)   
2003年
  〇イラク戦争開始(3月20日)   
2004年
  〇九条の会結成(6月10日)  
2005年
  〇郵政民営化法成立(10月14日)
〇自民党、初の新憲法草案を発表(10月28日)
 
 
2006年
  〇改正教育基本法成立(12月15日)
〇ワーキング・プア問題浮上
 
 
2007年
  〇防衛省発足(1月9日) 
〇サブプライム・ショック(8月9日)
 
2008年
  ・『星空は何を教えたか あるおじさんの話したこと』(ポプラ社 赤木かん子編 4月)
・「岩波新書創刊の頃―編集者の回想」(『図書』臨増 11月)

〇リーマン・ショック(9月15日)
〇「年越し派遣村」設置(12月31日-翌年1月5日)
 
 
2009年
  〇鳩山由紀夫内閣発足(9月16日)   
2010年
  〇ギリシャ債務破綻、ユーロ危機へ(1月)
〇普天間問題で、沖縄県内移設反対9万人集会(4月25日)
 
 
2011年
  ・『人間を信じる』(岩波現代文庫S223 5月)

〇東日本大震災、福島第一原発事故(3月11日)
〇NYウォール街占拠運動始まる(9月17日)
 
 
2012年
  〇原発再稼働反対・官邸前行動に20万人(6月29日)   
2013年
  〇特定秘密保護法成立(12月6日)   
2014年
 
  ・『丸山眞男文庫所蔵未発表資料翻刻:吉野源三郎書簡 丸山眞男宛 三六点』(東京女子大比較文化研究所丸山眞男紀念比較思想研究センター報告 3月)

〇消費税8%に引き上げ(4月1日)
〇大飯原発差止め判決(5月21日)
 
 
2015年
 
  〇SEALDs結成(5月3日)
〇安保法制関連法、衆議院強行採決(7月16日)
〇川内原発再稼働(8月11日)
〇戦争法案反対デモ(8月30日)
〇中東、アフリカから難民流出 
 
2016年
  〇北朝鮮2回の核実験(1月6日、9月9日)
〇熊本地震、死者150人超(4月14日)

〇オバマ米大統領、広島訪問(5月27日)
〇参院選で改憲勢力3分の2に(6月22日)
〇相模原市の知的障害者施設で19人刺殺(7月26日)
〇ロナルド・トランプ、次期米大統領に決まる(11月8日)
 
2017年
  ・吉野源三郎 原作/羽賀翔一 漫画
漫画 君たちはどう生きるか』 (マガジンハウス 8月)

PKO日報・森友・加計問題、政権を揺るがす(1月~)
〇欧州テロ、選挙で右派伸長(3月~)
〇「共謀罪」法成立(6月15日)
〇国連、核禁止条約採択(7月7日)
〇衆院選、自民党大勝(10月22日) 
   
《削るよりも、原作にない部分を足すことの方が難しかったですね。原作にない場面で、なおかつ、原作の世界観を壊さない演出や表現を考える方が大変でした。たとえば、おじさんを編集者という設定に変えたんですが、これは著者の吉野源三郎さんの背景をモチーフにしながら描くことで、違和感なくまとめられるようにしていきました。原作にある強さは壊さないように、と。》

《読みたくなったら読んで、考えてもらえたらいいなと思います。この本は、即効性があるわけではないと思うんですよね。読んで考えて、また読んで、と繰り返す感じがします。物事に対する答えが書いてあるわけではないですから。》

(ともに、羽賀翔一の発言:TSUTAYA web「『君たちはどう生きるか』インタビュー」2017.12.11配信)

 【注1】 『日本少国民文庫』新潮社、菊版、紙装、300頁、定価1円、全16巻 (〇付番号は発行順)

1  恒藤恭           人間はどれだけの事をして来たか(一)  1936.9  ⑨
2  石原純          人間はどれだけの事をして来たか(二)  1937.3  ⑭
3  西村真次         日本人はどれだけの事をしてきたか    1936.10 ⑩
4  下村宏          これからの日本、これからの世界      1936.6  ⑥
5  山本有三、吉野源三郎   君たちはどう生きるか          1937.8  ⑯
6  水上滝太郎        人生案内                1937.2  ⑬
7  菊池寛           日本の偉人               1936.3  ④
8  山本有三         人類の進歩につくした人々        1937.1  
9  広瀬基           発明物語と科学手工            1935.12 ②
10  石原純           世界の謎                1936.5  ⑤
11 飛田穂洲、豊島与志雄   スポーツと冒険物語            1936.8  ⑧
12  山本有三          心に太陽を持て              1935.11 ①
13  里見弴          文章の話                 1937.4  ⑮
14  山本有三選        世界名作選(一)            1936.2  ③
15  山本有三選        世界名作選(二)            1936.12 ⑪
16  山本有三選        日本名作選               1936.7  ⑦
 
     

【注2】「岩波新書」刊行の辞 岩波茂雄「岩波新書を刊行するに際して」

 天地の義を輔相
(ほそう)して人類に平和を与へ王道楽土を建設することは東洋精神の精髄にして、東亜民族の指導者を以て任ずる日本に課せられたる世界的義務である。日支事変の目標も亦(また)(ここ)にあらねばならぬ。世界は白人の跳梁に委(まか)すべく神によつて造られたるものにあらざると共に、日本の行動も亦(また)飽くまで公明正大、東洋道義の精神に則(のっと)らざるべからず。東海の君子国は白人に道義の尊きを誨(おし)ふべきで、断じて彼等が世界を蹂躙(じゅうりん)せし暴虐なる跡を学ぶべきでない。
 今や世界混乱、列強競争の中に立つて日本国民は果して此
(こ)の大任を完(まっと)うする用意ありや。吾人は社会の実情を審(つまびら)かにせざるも現下政党は健在なりや、官僚は独善の傾きなきか、財界は奉公の精神に欠くるところなきか、また頼みとする武人に高邁(こうまい)なる卓見と一糸乱れざる統制ありや。思想に生きて社会の先覚たるべき学徒が真理を慕ふこと果して鹿の渓水を慕ふが如きものありや。吾人は非常時に於ける挙国一致国民総動員の現状に少からぬ不安を抱く者である。
 明治維新五ヶ条の御誓文は啻
(ただ)に開国の指標たるに止らず、興隆日本の国是として永遠に輝く理念である。之(これ)を遵奉(じゅんぽう)してこそ国体の明徴も八紘一宇の理想も完(まった)きを得るのである。然るに現今の情勢は如何(いかん)。批判的精神と良心的行動に乏しく、やゝともすれば世に阿(おもね)り権勢に媚びる風なきか。偏狭なる思想を以て進歩的なる忠誠の士を排し、国策の線に沿はざるとなして言論の統制に民意の暢達(ちょうたつ)を妨ぐる嫌ひなきか。これ実に我国文化の昂揚に微力を尽さんとする吾人の竊(ひそか)に憂ふる所である。吾人は欧米功利の風潮を排して東洋道義の精神を高調する点に於て決して人後に落つる者でないが、驕慢なる態度を以て徒(いたずら)に欧米の文物を排撃して忠君愛国となす者の如き徒に与(くみ)することは出来ない。近代文化の欧米に学ぶべきものは寸尺と雖(いえど)も謙虚なる態度を以て之を学び、皇国の発展に資する心こそ大和魂の本質であり、日本精神の骨髄であると信ずる者である。
 吾人は明治に生まれ、明治に育ち来
(きた)れる者である。今、空前の事変に際会し、世の風潮を顧み、新たに明治時代を追慕し、維新の志士の風格を回想するの情切なるものがある。皇軍が今日威武を四海に輝かすことかくの如くなるを見るにつけても、武力日本と相並んで文化日本を世界に躍進せしむべく努力せねばならぬことを痛感する。これを文化に関与する者の銃後の実務であり、戦線に身命を曝(さら)す将兵の志に報ゆる所以(ゆえん)でもある。吾人市井の一町人に過ぎずと雖(いえど)も、文化建設の一兵卒として涓滴(けんてき)の誠を致して君恩の万一に報いんことを念願とする。
 曩
(さき)に学術振興のため岩波講座岩波全書を企図したるが、今茲(ここ)に現代人の現代的教養を目的として岩波新書を刊行せんとする。これ一(いつ)に御誓文の遺訓を体して、島国的根性より我が同胞を解放し、優秀なる我が民族性にあらゆる発展の機会を与へ、躍進日本の要求する新知識を提供し、岩波文庫の古典的知識と相俟(あいま)つて大国民としての教養に遺憾なきを期せんとするに外ならない。古今を貫く原理と東西に通ずる道念によつてのみ東洋民族の先覚者としての大使命は果されるであらう。岩波新書を刊行するに際し茲(ここ)に所懐の一端を述ぶ。   昭和十三年十月靖国神社大祭の日



【注3】岩波新書の再出発に際して

 岩波新書百冊が刊行されたのは中日事変の始まった直後から太平洋戦争のたけなわな頃におよぶ、かの忘れえない不幸の時期においてであった。日々につのってゆく言論弾圧のもとにあって、偏狭にして神秘的な国粋思想の圧制に抵抗し、偽りなき現実認識、広い世界的観点、冷静なる科学的精神を大衆の間に普及し、その自主的態度の形成に資することこそ、この叢書の使命であった。
 われわれは、かの不幸な時期ののちに、いまだかつてない崩潰を経験し、あらゆる面における荒廃のなかから、いまや新しい時代の夜明けを迎えて立ちあがりつつある。しかも、当面する危機はきわめて深く、状況はあくまで困難である。世界は大いなる転換の時期を歩んでおり、歴史の車輪は対立と闘争とを孕みながら地響きをたてて進行しつつある。平和にして自立的な民主主義日本建設の道はまことにけわしい。現実の状況を恐るることなく直視し、確信と希望と勇気とをもってこれに処する自主的な態度の必要は、今日われわれにとって一層切実である。ここに岩波新書を続刊し、新たなる装いのもとに読者諸君に贈ろうとするのも、この必要に答えて国民大衆に精神的自立の糧を提供せんとする念願にもとづく。したがって、この叢書の果すべき課題は次のごとくであろう。
 世界の民主的文化の伝統を継承し、科学的にしてかつ批判的な精神を鍛えあげること。
 封建的文化のくびきを投げすてるとともに、日本の進歩的文化遺産を蘇らせて国民的誇りを取りもどすこと。
 在来の独善的装飾的教養を洗いおとし、民衆の生活と結びついた新鮮な文化を建設すること。
 幸いにひろく読者の支持をえて、この叢書が国民大衆の歩みとともに健康なる成長をとげることを心から切望するものである。(一九四九年三月)
 
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