資料:鑑賞主義論争
「国文学 解釈と鑑賞」 昭和11(1936)年10月号掲載  


鑑賞に関する見解について    
石津純道
  
      
 文学鑑賞の問題は最近種々の立場から論ぜられているが、その主たる見解に就いて少しく考えて見たいと思う。なおそれに関して、鑑賞を偏倚(へんい)と甘脆(かんぜい)から救う途に就いても一寸触れて見たいと思う。
 先ず文学研究に於ける鑑賞の位置即ち鑑賞と学との関係の問題に関して二つの対立的見解のある事が注意せられる。即ち鑑賞を学と厳密に区別し、寧ろ学の世界から全然之
(これ)を払拭(ふっしょく)し抹殺しようとする見解と、鑑賞は成程(なるほど)学ではないが学の基礎体験としては必要であるとし、学の世界と不可離な関係に於て之を見て行こうとする見解とである。前の見方は文学性を重んじ其の学的研究を主張する「文芸学」者や、歴史的科学的研究を非常に重視する立場のそれであるが、例えば岡崎義恵氏の所説に見ても、「鑑賞はそれ自体芸術活動であって学的作業ではない」「何等概念的規定なき理解や鑑賞は第一に科学的作業としての基礎がない。たとえ学術的作業と偶然にして一致したとしても更にそれが日本文芸というが如き統一的な対象を持つ一科の学であるかどうかわからない」(「日本文芸学樹立の根拠」「学の対象として見たる日本文芸」)とし、そういう非科学的なものは国文学から払拭しなければならぬと見られる。が岡崎氏の鑑賞に対するこの見解は寧ろ間接的に見られるが、鑑賞を直接対象として論じている同一見解に近藤忠義氏の「国文学の普及と鑑賞の問題」(「解釈と鑑賞」第二号)「国文学と鑑賞主義」(法大「国文学誌要」十一年七月号)がある。即ち従来の鑑賞は「国文学の主観的・現代的享受」に過ぎず、理論も体系もない、そう云う「通俗的な意味での鑑賞は国文学のどの片隅からも閉め出さるべきものである」と言うのがそれである。斯(か)かる見解の対して一方学と鑑賞との密接な関係を尊重する立場が見られるが、殊に吉田精一氏が「解釈と鑑賞」三号時評に於て論難を加えていられる。即ち鑑賞は芸術対象の了解であり非論理的経験であるから学的研究の予備段階ではあるが、文芸作品の様な非論理的対象に対して、「観照という根源的な経験を省みないでは、ただ表象的な思念のみでは到底問題の十分な把握は出来ない」、かく考えると「近藤氏等の歴史的方法もこの鑑賞の上に定立された問題を解決する一つの方法たるに過ぎないであろう」と言っているのである。又西尾実氏が文学鑑賞に就いて、それは学的操作の基礎体験であるが今日は寧ろ「作品を分析し説明し批判するに急な余り、直観し体感する方面は等閑にせられている。言い換えれば批評なり研究なりの基礎に鑑賞が確立していない」とし、「鑑賞的基礎を疎(おろそか)にしたならば研究の成果に於て決して科学的正確さも客観的確実さも存し得ないであろう」と論断されているのも同一立場と見られる。尤(もっと)も前の立場にしても鑑賞の意義を全然認めないのではないので、岡崎氏にしても、「日本文芸というものが一個の対象として学術的に究明される為には個々の作品の鑑賞や理解を何等かの程度で先ず準備してかからなければならない」と言われているし、近藤氏の見解にしても、寧ろ鑑賞が学に参与し得る為の反省を促しているものと見られるから、学の基礎として認める見解とも言われるが、なお鑑賞に対しては消極的であると見られる。そして文学としての純粋を得る為に斯(かか)る非学的鑑賞を、文学性を直接対象としない文献学・書誌学・文化学と共に払拭し切離そうとする態度は一面正しく又望ましいが、余りに分析的・機械的になる事は却(かえ)って視界を偏狭にし対象を歪曲する懼(おそれ)もあり、其点、後者の見解にもなお退けられない妥当の点が充分あると思う。殊に人間の労作としては、基礎の営(いとなみ)を疎にして柱を打建て外郭を飛越え直(じか)に内陣に迫ろうとする仕事は極力避けなければならないであろう。
 とまれこうして鑑賞に対する二つの対立的見解が先ず注目されるが、而
(しか)しこの二つは本質的対立ではなく、消極的に見ると積極的に見るとの相違であり、鑑賞を学の基礎体験として定位する点に一致しているが、更に一歩を進め、鑑賞即学ではないが之に相当重要な位置を与えようとする見解が見られる。例えば
久松(潜一)先生の諸説に於て間接的ではあるが斯る立場が考えられるかと思う。日本文学研究に於ける「直観性と歴史性」(「国語国文学講座」巻十三)万葉集研究に於ける「直観・分析・綜合」(「万葉集考証」)又「感動の持続と芸術の深さ」(「俳句研究」三巻七号)等がそれであるが、芸術作品の価値測定には学術的根拠ある歴史的価値判断も必要であるが、直観的鑑賞力による芸術的価値判断も必要で、それによって文学の本質も見究められるとするのである。更に古典研究に推及し、「古典というのは単に古いということではなく長き歴史を通じて現代に生きて居ることをさすのであるが、それは歴史を貫いてその作品の与える感動が持続して居るとも言えるであろう」として感動の持続性を古典の第一要素に考えられたのであるが、其の感動並に其の持続は鑑賞力によって判断せられるとされる故、そこには、古典研究に於て鑑賞を相当重視する立場が見られると思う。なお鑑賞に於ける直観性を吟味して居られるが、直観性は一時的思い付ではなく個人其の場合に於ける全体的生命の表れであり、智情意の一になった心的全体の作用である、同時にそれは民族全体の直観であり人間全体の直観でもあり、且(かつ)個人並に民族の歴史に連(つらな)る直観でもあるべきで、直観性と歴史性・主観性と客観性・理論と歴史・演繹と帰納とは密接な相関にあるとし、「鑑賞者に鑑賞作用を起させるものは鑑賞者の主観にのみあるのではなく、作品そのものに備わる客観性質でなければならない」と論ぜられているが、之は直観性に理論的根拠を与えられたものとして注意しなければならないと思う。確に主観に徹し個人を深める事は我を虚しくする事であり、結局客観に肉迫する道であろう。心全体を以て対象を体感し、原体験を追体験する事を「生の哲学」は、主観を脱して客観的存在に進む働きであると説明し、之を了解と呼んでいるが、美的対象の了解が鑑賞であるわけ故(ゆえ)鑑賞の客観性はそこからも考えられてくるのである。とまれこう見て、文学研究に於て主観性・直観性を重んずる見解、自然、鑑賞にも相当重要な位置を学の世界に於て許そうとする見解が見られ、それは根拠ある見方でもあるが、学の基礎としての位置のみしか許さない見解との相違が見られると思う。
 以上文学鑑賞に関する三つの見解を考えたが、之等は何れも学との関係に関しての見解であり、学問的立場の見解とも考えられるが、之に対し学の実践的立場の見解も見られる。即ち文学殊に古典研究の究極の目的は其の美と精神を現代に生かす事、普及する事にあるとし、其の最も必要且有効な方法として古典の理科と鑑賞の労作を重んずるのである。之は
藤村(作)先生を主とする国語教育界の立場で、この「解釈と鑑賞」の刊行も其の趣旨に出ずる事は創刊号に於ける藤村先生の御主張に見ても明かである。そして我々の学問も芸術も「人」と「生活」を除いては無意味であるし、鑑賞それ自身の意義から考えても此の見方は妥当であり適切であると思う。即ち鑑賞とは美的享受であり、作物の了解である。作物を凝視し観照する事によって作家の美的体験を体感し追験する事であり、作物の美的生命に没入し帰一する事である。而し追験と云い帰一と云いそれは必ずしも生命の終焉を意味しない。寧ろより新にしてより完(まった)き生命の出発を意味する。随(したが)って古典鑑賞による古典美の把握と古典精神への合一は古典の生命化である。即ち現在並に未来の文運をひらく動力であると共に、現在並に未来の生活の昂揚でもある。こう見る時、鑑賞を理解と共に古典普及の方法と見る見方は、鑑賞を二義的に見る様に一応思われるが、実際に於ては鑑賞の第一義に即した見解とも言えるであろう。
 こうして文学鑑賞に対しては最近の国文学界に於ても種々の見解が見られると思うが、いずれの場合にしてもそこに必要な事は厳正な鑑賞と云う事である。言い換えれば鑑賞は飽く迄深く普
(あまね)く・鋭く確かであらねばならぬという事である。偏った甘い鑑賞からは健全な学も、まして真正な普及も最早期待する事を得ぬであろう。この点は自明の理であろうが尚少しく反省しておきたい。
 鑑賞を独断的偏倚と感傷的甘脆
(かんぜい)から救う途は作品を厳正に知り而して鑑賞の主観と徹するにあると思う。この作の知的理解と言う事は平凡ではあるが必要な業である。殊に古典の場合には考証と分析による知的理解を経ずして鑑賞の内陣に迫る事は不可能であろう。もとよりそれは鑑賞にとっては外郭に過ぎない。随って其処にのみ彷徨する事は適切ではないが、敬虔真摯な考証と分析によって古典を厳正に知る事は鑑賞の地盤に客観的普遍性と科学的強深性を与える意味に於て不可離な操作であろう。がそれにも増して必要な事は鑑賞の主観に徹する事であろうと思う。具体的に言えば、審美力を鋭くし感受性を豊にし美的志向を高めると同時に生活を深博にし生命を高貴にする事であろうと思う。何となれば鑑賞は結局学ではなく寧ろ芸術であり、当然に鑑賞の問題は人間の問題に帰するからであり、自己を深める事は客観に近づく所以であるからである。
かくして自己の生活を深め生命を高め、全存在を以て対象を包摂し対象に帰一する時始めて物我一如(ぶつがいちにょ)の三昧境(さんまいきょう)を体験する。ここに始めて鑑賞を独断的偏倚と感傷的脆弱から救い得て真正妥当たらしめ得るであろう。そこにこそ我々は文学殊に古典に対する健全な学をも其の真正な普及をも充分期待し得るであろうと思う。
限られた量にまとめる必要上かなりに無理をした為、概説的な意を尽さない 記述となってしまった事を遺憾にも恥かしくも思う。
 

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