文学と教育 ミニ事典
  
自然主義
○ 『浮雲』以後の日本の近代リアリズムの達成に影響するところ大きかった自然主義(フランス自然主義)のイデェのどういうものかということを、今ここで簡単に言うと、十九世紀の機械論的な唯物論(自然科学主義・生物学主義)の認識に立った人間観・世界観・現実観が、本来の意味における自然主義ということなのであって、この立場からは人間も究極において自然物(生理的・生物的存在)として観察され、社会も人間の歴史も一種の自然史に転化させられてしまうのである。
 たとえばゾラにあっては、人間の自我――その性格、その運命を決定するものは遺伝と環境であった。ルゴンとマッカールとの二人の血をうけた『ルゴン家の人々』(一九七三年)がどういう運命を経てどうなって行ったか、というふうに、ルゴン家三代の人々の性格と運命とを遺伝の面から追求したこの作家の『ルゴン・マッカール叢書』――その中には、例の『ナナ』が含まれている――は、自然主義の基本的方向を決定した大作であった。
 だが、こうした自然主義の発想が日本の土壌に移植された時、どういうことになったか。ロシア近代文学をさえ、西ヨーロッパ市民文学の一小部分としてしか考え得なかった日本の知識人たちは(「自由民権運動と日本の近代文学」の項参照)、今度はその“西ヨーロッパ的なもの”そのものをさえ見誤ってしまったのである。自然主義がそこに根ざし、それのささえなしには発芽し発育することのない当の科学精神を移植する――受け継ぐ――ことをしないで、いわば切り花として、その花びらだけを摘んで来たのである。しかも、「日かげの花」を、である。だから、日本においては自然主義は、自然科学的実験精神・事象精神の産物としてではなく、性本能の非科学的・直覚的把握によるナィーヴな本能主義にさえなって行ったのである。田山花袋の『蒲団』(一九〇八年)は、そういう意味で日本自然主義の偏向をぎりぎりに突き詰めた形で示した、モニュメンタルな作品であったと言えよう。
 日本の自然主義が、人間自我の追求と把握を『破戒』の示したような社会と個人との関係把握の方向に進めることをしないで、いわば『蒲団』の方向へと歪みを深めて行ったというのは、けれど何も藤村の場合を例外として――というような意味においてではない。『破戒』の作者、島崎藤村は、次いで『春』(一九〇八年)、『家』(一九一〇年)等の問題作を書いているが、これらの作品が問題作であるというのは、『破戒』が問題作であるというのとは意味が違っている。藤村自身、これらの作品を造型していく過程において、あえて『蒲団』のようなとはいわないけれども、遺伝とか環境とかそうした条件から、(ゾラをひと回りもふた回りも小さくしたような形で)宿命的に人間を見ようとする人になってしまっている。
(…)
 『破戒』の作者にして、そうだった。多くの自然主義作家が、性本能に人間の自然――本性=ネイチュア――を見つけ、人間をもっぱら生理に支配され尽くした存在に還元することにいちずだったのも、やむを得ないといえばやむを得ないことであった。人間を、歴史の主体として考えうるだけの展望が一般的なものになるにはまだ間(
ま)のある時代であったのだから。だが、そういうことの当然の結果として、自然主義の到達点は、この流派の代表的評論家長谷川天渓(てんけい)がそう語っていたように、「現実暴露(ばくろ)の悲哀」ということであった。人間自我の実体を見きわめようとして、いっさいの付帯的なものを取り去ってみたら、「人間以前」がそこに発見されただけだった、という「悲哀」である。つまり、人間とは人間以前のそのようなものでしかないということの悲哀と自己嫌悪である。日本自然主義の行なった近代的人間自我の存在証明は、このようにして人間の非存在の証明以外ではなかった。
 それにもかかわらず、自然主義文学は、結果的にはやはり、この時期に固有の日本的近代の社会的諸矛盾を個々人の生活の場面、場面において、その限りリアルにとらえている。いや、そういう作品も幾つか数えることができる、という意味である。イマジネーションはその世界観と方法とに制約されてあまり豊かだとは言えないし、そこにつかまれたものは所詮部分的真実にすぎぬものであったにしろ、近代古典の幾つかをそこに造型してみせた。上記の藤村の『家』がそうしたものであったし、正宗白鳥の『何処へ』(一九〇八年)が、社会のカベに突き当たり、また「家」のわく にがんじがらめにされた近代知識人のデスペレートな、またニヒルな思いを鋭く克明に描くことで、今日になお問題を残している。何処へ――という菅野健次の叫びは、また同時に自然主義の行き着くところを暗示していたとも言えそうである。
 白鳥のこの時期の代表作としては、『何処へ』に加えて『泥人形』(一九一一年)を上げることができよう。この作品の主人公守屋重吉は、いってみるなら、『何処へ』の健次のその後の姿である。古風な、(白鳥自身の言葉をそのまま用いて言えば)色気のない田舎者の娘と結婚した重吉のさむざむとした乾き切った生活と、そういう生活の中からの重吉自身の自嘲と冷笑とをそこに描きあげることで、世俗と常識に批判のメスを突きつけたのが、この作品であった。が、そうした批判――自己批判が自嘲と苦笑に終わらなければならなかったところに、方法――創作方法――的に言えば、客観的たろうとして客観主義にすべった自然主義リアリズムの限界が示されている、ということになるのかもしれない。自分を突き放して見る、というその自我対象化の原理(宿命観)と、方法(究極における生物学主義)に問題が潜んでいるのではないか、という意味である。
 が、より根源的には、幸徳事件に集約して考えられる現実の厚いカベの前に極度の孤独感・孤立感にとらえられた小市民インテリゲンチャの、一種宿命論的なそのデスペレートな思いが必至的にそこに選び取った文学の方法が自然主義であった、ということになりそうである。絶望しているがゆえに、またその絶望感を甘い感傷に韜晦
(とうかい)できない自分であるがゆえに、あえて絶望が結論として生まれてくるに決まっているような方法――自然主義的創作方法――を選ぶ、という、何かそうしたものが感じられるのである。それは、後に、『山椒魚』の作者が語っているような、絶望に陥らないために――あるいは、絶望を越えるために――絶望を描く、というのとはまったく違う姿勢である。
 自然主義的リアリズム――少なくとも日本の場合、それは破滅のリアリズムであった。〔1971年、熊谷孝著『現代文学にみる 日本人の自画像』p.88-93〕


○ ところで、自然主義にアイクチを突きつけるようにしてあらわれた白樺派のいわゆる人道主義の文学運動や、その他さまざまの精神主義の文学運動は、文壇の主流とまでは行かないまでも、文壇的読者の域を越えて、ひろく大衆の中に読者を獲得して行った。そのことは、たとえば、一九一七年に出た倉田百三の『出家とその弟子』の影響の範囲を考えてみただけでもわかるだろうし、また、白樺派の中心人物であった武者小路実篤
(さねあつ)に対する、信仰にも近い人々の熱狂ぶりをそこに思いあわせれば、いっそうハッキリするだろう。が、自然主義が、人間の精神をネグレクトしたところに生まれるカタワな肉体主義であるとするなら、この精神主義も、また人間の肉体に対して目をつむってしまっているという点で、一方的・抽象的である。つまり、双方が一面的なのであって、人間の社会性を視野の外のおしやってしまっている点、自然主義とすこしも変わりはない。つまり、それは「裏返しにされた自然主義」にほかならないのであって、自然主義そのものの病み呆けた姿がそこに見られるとさえ、言って言えないことはないのだ。『白樺』の同人、志賀直哉が、『大津順吉』(一九一二年)から『和解』(一七年)、『暗夜行路』(二一-三七年)へとひたすら私小説的リアリズムの道を辿(たど)っていることと、いわゆる自然主義の系列から私小説作家葛西善蔵を出していることとの間につながりを考えることは、あながち無理ではあるまいし、さらにまた、自然主義の肉体主義的側面を代表する『蒲団』の作者田山花袋が、この時期には、精神主義の作家として『残雪』(一九一七年)や『或僧の奇蹟』(同)などの宗教物を書いていることなども、この精神主義が肉体主義のヴァリエーションにすぎないことを裏書きするものと言えるだろう。〔1971年、熊谷孝著『現代文学にみる 日本人の自画像』p.139〕
   (文中、今日の人権感覚に照らして適切でない表現があるが、文章の歴史性を考慮し、そのままとした。)
  


〔関連項目〕
近代主義
(わたくし)小説

ミニ事典 索引基本用語