文学と教育 ミニ事典
  
リアリズム/リアリスト
 ○ わたしのような芸術家という範疇(はんちゅう)に属さない人間がいちばん気になるのは、芸術家たちとわたしたち一般労働大衆・市民大衆――それは同時に芸術の現実の鑑賞者大衆である――との甚しい隔絶・断層である。それは、大衆が必死に求めているものへの参加と関心が芸術家の作業場にはあまり見かけられない、という点だ。大衆が求めているものは、実践へ向けての自己の行動の選択に関して、その行動の選択に必要な、未来をさき取りした現実のイメージである。ところが、それが見あたらない。つまり、典型が描けていないということである。ずっと以前のことだが、ある人がこう言っていた。
 わたしたちの周囲の画家は、砂川――米軍立川基地のある砂川だ。今、この文章を書いている時点で言うと、自衛隊移駐強行中の立川基地のある砂川のことだ――に(土地接収の)杭が打ち込まれれば地球、どんなエネルギーに変わるか、その過程を経た結末をイメージとして持つことができない」云々。
 事実――体験的事実――と感情のミメイシスとしてのリアリズムがその絵にはあるようだ。また、社会構造的にではなしに、まさに“状況”として現実をつかみ取ろうとするアヴァンギャルトの想念と手法がそこにはあるらしい。一見、矛盾するように見えるこの二つのものは、しかしそこではある融合と統一を結果しているらしく思われる。というのは、この絵画の場合、「新しい」その手法が単に手法として古風なリアリズムの想念に奉仕しているらしいからである。だから、あえて割り切った言いかたをすれば、そこのあるのは、主体抜きのミメイシスによる、現実ありのままの再現という、機械論的、客観主義的なリアリズムの発想にほかならないだろう。
 しかし、今日、わたしたちが真に求めているものは、(引用の事例に即して言えば)「この悲しみが、どんなエネルギーに変わるか」という、その転化の「過程を経た結末」を自分自身のイメージとしてもてるようになることである。未来のさき取りにおける現実の動的、過程的なつかみ直し、ということである。単に結末をではなくて、むしろ過程を、そして理想像としては「過程を経た結末を」ということにほかならない。そのような意味における現在的現実のリアリスティックなつかみ直し、ということである。そういう意味での、そのような発想に立つリアリズムが、ところでそこには欠けている。
 それは、芸術家が大衆の内心の苦悩と要求にじかに触れるような場所で作業をしていない、ということである。大衆の悩みが、芸術家その人の問題になりきっていないということだ。つまりは、不可能を可能にする夢と冒険がそこにはない、ということ以外ではないだろう。
(…)
 不可能を可能にする夢と冒険を欠いては、リアリズムリアリズムになりえないのである。必要なことは(…)えせ リアリズムからの脱却である。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.121-123〕


 ○現実がもし一義的にだれの眼にも明らかなように、そのように固定し定着したもの としてあるのなら、小説は、ただ、そのもの を言葉で写しとればいい。「個々のもの にはりついている」と信じられている、それぞれの言葉によって写しとればいい。だが、現実は本来、動的なものであり多義的なものである。それは、個々人にとってあくまでサブジェクティヴ[主体的・主観的]なものである。そして、サブジェクティヴなものであればこそ、それは“現実”なのである。
 
世界(客観的世界・事物)は一つだが現実は多である。多岐多様でありそれ自体揺れ動くところの現実を、それをあくまで現実として移調・変形――虚構においてつかみなおそうとする文学の言葉操作は、それぞれの創造主体、それぞれの創造完結者(=鑑賞者)の主体にとっては個別的、個性的なものであらざるをえない。そうした言葉(文章)が、個々のもの にはりついている言葉でなどあろうはずはないのである。小説の対象となる、どろどろの現実が「できあがりの世界」でなどあろうはずはないのである。
 ところが、この架空の「できあがりの
世界」を、その世界、その事物にはりついている(と迷信されている)言葉で受けいれようとしたのが近代文学のリアリズム理論だったということに、あるいは一応なるのかもしれない。その
リアリズム理論というのを、自然主義からプロレタリア文学へ、というふうな流れにおいてつかめば、一応どころか、ほとんど全面的にそうだったと言いきっていいのかもしれない。その当然の帰結として、江藤[淳の指摘しているように、「日本の近代文学にはいまだに想像力理論が事実上存在しない」ということにもなろう。また、その形ばかりの想像力理論というのが、創造にも鑑賞にもまるで「役にたたない」内容空虚なものに終始するという結果を招いた。そうした状況の中での、サルトル理論との江藤の出会いであった。また、そうした状況の中での大江文学との出会いであった。「われわれが求めてきた文体」をそこに見つけた江藤の喜びは察するにあまりある。
 (…)
 が、それはそれとして、直接江藤のことではないけれども、戦後文学における「われわれが求めてきた文体」の発見が、過去のいっさいの近代文学を「非文体」の世界であるとして否定し去ろうとする姿勢に結びつくことには賛成しかねるのである。否定されねばならないのは、実はアイディアリズム
[観念主義]の別名にすぎない――あるいは、最低のアイディアリズムにほかならない――素朴実在論的リアリズムの想念である。また、その汎言語主義的な言語観につながる非実践的な文体観や創作方法論である。そうした観念や論理との断絶がそこに宣言されるべきなのであって、逆に、今日このただ今における近代文学と現代文学との不毛な断層は埋められねばならないのである。あえて言えば、文体的に埋められる必要がある、とういうことである。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.157-160〕


 ○ この
[井伏鱒二の]、押しつけがましさを嫌う姿勢というのが、文学者にとってのリアリズムというもの、リアリストの姿勢というものだろうと思うのです。文学が相手取るのは人間です。人間の実人生です。個別的・具体的な実人生の問題に関して、これが唯一のまっとうな結論だというようなものを、そう簡単に出せるものではないでしょう。人それぞれに置かれた立場は違います。そういう相手の立場や状況、あるいは心情をくぐって誠実に考えれば考えるほど、わからないところが出て来る、というのがむしろ本当なのかもしれませんね。答が初めから出ているのなら、何も詩や小説を書いたり読んだりして思索する必要はないわけなのですからね。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.44〕

  

〔関連項目〕
現実
典型
芸術家(作家)の任務

芸術の課題
〈リアリズム志向のロマンチシズム〉

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