文学と教育 ミニ事典
  
インスピレーション
作家・芸術家が内にあたためている人物――現在進行形あるいは未来形における作中人物――が、突如“実際に”声を立ててしゃべり出したり、予想もしなかったようなことを、やり始める。作家は、ただもう彼の言葉や行為を目にした通り、耳にした通りに書き写すことだけで手一杯になる。やがて、インクも尽きる。ペンを鉛筆に持ち替える。鉛筆のシンが折れる。チョークだってクレヨンだっていい、何かないかと血まなこになって――という状態・状況が作家の上に訪れる。いわゆるインスピレーションにつかまれた――あるいは、憑かれた――状態だ。
 そうした状態における、またそうした状態をくぐった、作中人物についての作家のイメージは具体的、具象的である。それは準体験の極致だ、と言っていいのかもしれない。
(中略)
 インスピレーションに憑かれた芸術家が目にし耳にする幻覚(vision)は、言葉を重ねるが準体験の一つの極致と言っていいかもしれない。そういう徹底した準体験――追体験ではない、自己の直接体験を越えた体験を自己に媒介する体験である――を可能とするためには、フロベールの語っているように、「外界と交通を遮断した」状況を自分自身で作り出す必要がある、ということも、あるいは言えるのかもしれない。
(中略)
 しかし、だいじなことは、T.S. エリオットがそう語っているように、インスピレーションは外からやってくるのではない、という点だ。ただのカオス(混沌)にすぎなかった現実が、瞬間、具象的な現実、現実以上の現実――まさに、それこそが真に生活過程であり生活過程であるべきものに変容を遂げ、未来のさき取り という形での新しい展望がそこに開けてくるのである。そうした展望――先き行きの展望――は、しかし「外からやってくる」わけではない。まさに、内側から「そこに生まれる」のである。
 それは、言い換えれば、無から有は生じない、ということだ。いわばフトコロにあたためていた卵が孵化
(ふか)した瞬間が、このインスピレーションの生まれる(生まれた)時である、というふうに言ったらいいだろうか。卵があらかじめそこになくては、またそれをあるしかたで一定期間あたためる、ということがないと、孵化という現象は起こらないわけだ。ある日、突如ドーデーの上に起こったインスピレーションは、実に十五年の余にわたってこの作家が心にあたため、培ってきたテェマに関してであった、とビネーの記録は伝えている。
 棚ボタ式のインスピレーションというのはない。怠け者の上にインスピレーションは起こらない。起こりようがないのである。
 ということは、孵化あるいは酵という形で、強烈なイメージとしてインスピレーションにおいて具体化される“あるべき生活過程の姿”というのが、単にあるべきもの にとどまるのではなくて、必然的にして可能 なという意味での、ありうるもの の姿のさき取り である、ということだろう。ただし、それが、ありうるものの〈実像〉であるのか〈虚像〉似すぎないのかは、その芸術家の虚構精神のありようにかかわっている。あるいは、インスピレーションの先の虚構――意識的 な虚構の問題である。デューウィではないが、芸術形象の造型にとって「インスピレーションは初期のもの」にすぎないからである。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.28-32〕



インスピレーションの説明(というより解釈)に、半ば神がかりの感じのする、一種の不可知論のようなものが飛び出してくる理由は何だろう? おそらく、そのいちばん大きな理由は、実際にこの現象を体験した芸術家当人ににも、いつ、どうやってインスピレーションの要因が自分の内側のものになったのか、また、いつ、どうやってインスピレーションが自分の上に起こったのかわからない点が多い、ということによるものだろう。さらに言えば、いったい、いつそれが起こるのか(また起こらないのか)、というようなことは、いっさい未知に属している。いわんや、そこに起こるインスピレーションの内容については、未知であると同時に予期しえないところである。で、そうしたところから、たとえば芸術創造における無意識ないし深層心理の過大評価なども生まれてくるのである。創造の決定的要因を常に無意識の作用に求める、という精神分析派の人たちの考えかたは、それの最も代表的なものだろう。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.34〕



〔関連項目〕
芸術過程

日常性/生活過程
虚構/虚構する

現実/世界

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